人間が能動的に神を愛するとき,愛する主体というのはその人間であるというより神自身であるというのがスピノザの哲学における考え方です。これはスピノザの哲学の特徴のひとつである,認識論における主体の排除と大きく関係します。そしてスピノザの哲学では,ふたつの意味において主体の排除が貫徹されているということができます。
ひとつは,精神があれを認識しこれを認識しないという選択をすることが不可能であるという意味です。かつて僕が詳しく説明したのはこちらの方です。すなわち現実的に存在する観念は第二部定理九の仕方で自動的に発生するのであって,その観念を認識する精神がそれを決定することはできません。つまり精神とは自動機械なのであり,主体的に何かを認識するような思惟の様態ではないのです。
もうひとつが愛する主体とは何かということで意味されていることです。現実的に存在する人間の精神というのは,その精神という様態的変状に様態化した神の思惟の属性にほかなりません。このことは万人に妥当します。よってAという人間の精神がXを認識するとはAの精神に様態化した神がXを認識するということですし,Bという人間の精神がXを認識するのならばBの精神に様態化した神がXを認識するというのと同じことです。したがってどんな人間が何を認識しようとも,それは結局のところ神が認識しているということなのであり,人間が主体になって認識しているということではないのです。
僕が知る限り,この特徴に最も注意を向けているのは上野修です。『スピノザの世界』では,スピノザの哲学ではあらかじめ精神なるものがあってそれが事物を認識するというように理解してはならず,精神など存在せずとも認識作用や観念が存在すると理解しなければならないという主旨のことがいわれています。『哲学者たちのワンダーランド』では無頭の神というフレーズを用い,それは精神なき思考であるといわれています。
実際には,人間だけが思惟の主体であることができないのではありません。神ですら思惟の主体ではあり得ないのです。
スピノザとイエレスの間の書簡で遺稿集に掲載されたものには,はっきりとした特徴があります。それはすべてがスピノザからイエレスに送られたものであり,イエレスがスピノザに送ったものは1通も掲載されていないことです。つまり遺稿集の編集者は,スピノザが送ったものは掲載する価値があるけれども,イエレスが送ったものはそうではないと判断したことになります。イエレス自身が編集者のひとりだったのですから,これはイエレスの判断と考えてよいと僕は思います。ただしそれは,フッデの場合のように,立場を考えて配慮したとか,イエレス自身が身の安全のためにそう決めたというのではないことも確実です。なぜなら,もしもそうであるならスピノザから送った書簡の方から,その相手がイエレスであるということを伏せなければなりませんが,そうしたことはなされていないからです。つまりイエレスは自分にスピノザとの交際があったことが発覚するのは構わないと思っていて,同時に自分が出した書簡は遺稿集の掲載に値しないと考えていたことになります。このことは遺稿集の序文を書いたのがイエレスであったことからも明白でしょう。
イエレス宛の書簡のうち,最初のものが書簡三十九で,これはレンズが主題となり,それに関連することだけが書かれています。
書簡四十は,三十九に対してイエレスが送った質問の返答を含みます。この手紙ではまず錬金術,次にデカルトの哲学に関連することが書かれ,返答は最後です。中盤のデカルト哲学への言及は思想的価値があり,この書簡に掲載の価値があるとみなされたのは僕には理解できます。
では四十を掲載するために三十九も掲載されたのかといえば,そうではありません。次の書簡四十一もイエレスに宛てられたものですが,ここでは水圧と水流の速度についてだけが言及されています。僕にはこの書簡のどこに価値があったのか疑問なのですが,編集者は価値があると判断したのです。ということは三十九も,おそらく自然科学の観点からのみ掲載する価値があると判断されただろうと僕は考えます。四十の内容の理解を容易にする目的ではなかったと思うのです。
ひとつは,精神があれを認識しこれを認識しないという選択をすることが不可能であるという意味です。かつて僕が詳しく説明したのはこちらの方です。すなわち現実的に存在する観念は第二部定理九の仕方で自動的に発生するのであって,その観念を認識する精神がそれを決定することはできません。つまり精神とは自動機械なのであり,主体的に何かを認識するような思惟の様態ではないのです。
もうひとつが愛する主体とは何かということで意味されていることです。現実的に存在する人間の精神というのは,その精神という様態的変状に様態化した神の思惟の属性にほかなりません。このことは万人に妥当します。よってAという人間の精神がXを認識するとはAの精神に様態化した神がXを認識するということですし,Bという人間の精神がXを認識するのならばBの精神に様態化した神がXを認識するというのと同じことです。したがってどんな人間が何を認識しようとも,それは結局のところ神が認識しているということなのであり,人間が主体になって認識しているということではないのです。
僕が知る限り,この特徴に最も注意を向けているのは上野修です。『スピノザの世界』では,スピノザの哲学ではあらかじめ精神なるものがあってそれが事物を認識するというように理解してはならず,精神など存在せずとも認識作用や観念が存在すると理解しなければならないという主旨のことがいわれています。『哲学者たちのワンダーランド』では無頭の神というフレーズを用い,それは精神なき思考であるといわれています。
実際には,人間だけが思惟の主体であることができないのではありません。神ですら思惟の主体ではあり得ないのです。
スピノザとイエレスの間の書簡で遺稿集に掲載されたものには,はっきりとした特徴があります。それはすべてがスピノザからイエレスに送られたものであり,イエレスがスピノザに送ったものは1通も掲載されていないことです。つまり遺稿集の編集者は,スピノザが送ったものは掲載する価値があるけれども,イエレスが送ったものはそうではないと判断したことになります。イエレス自身が編集者のひとりだったのですから,これはイエレスの判断と考えてよいと僕は思います。ただしそれは,フッデの場合のように,立場を考えて配慮したとか,イエレス自身が身の安全のためにそう決めたというのではないことも確実です。なぜなら,もしもそうであるならスピノザから送った書簡の方から,その相手がイエレスであるということを伏せなければなりませんが,そうしたことはなされていないからです。つまりイエレスは自分にスピノザとの交際があったことが発覚するのは構わないと思っていて,同時に自分が出した書簡は遺稿集の掲載に値しないと考えていたことになります。このことは遺稿集の序文を書いたのがイエレスであったことからも明白でしょう。
イエレス宛の書簡のうち,最初のものが書簡三十九で,これはレンズが主題となり,それに関連することだけが書かれています。
書簡四十は,三十九に対してイエレスが送った質問の返答を含みます。この手紙ではまず錬金術,次にデカルトの哲学に関連することが書かれ,返答は最後です。中盤のデカルト哲学への言及は思想的価値があり,この書簡に掲載の価値があるとみなされたのは僕には理解できます。
では四十を掲載するために三十九も掲載されたのかといえば,そうではありません。次の書簡四十一もイエレスに宛てられたものですが,ここでは水圧と水流の速度についてだけが言及されています。僕にはこの書簡のどこに価値があったのか疑問なのですが,編集者は価値があると判断したのです。ということは三十九も,おそらく自然科学の観点からのみ掲載する価値があると判断されただろうと僕は考えます。四十の内容の理解を容易にする目的ではなかったと思うのです。