スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&第二部公理三の意味

2017-04-01 19:20:21 | 将棋
 3月27日に指された第42期棋王戦五番勝負第五局。
 振駒渡辺明棋王の先手。矢倉模様から千田翔太六段が趣向を凝らした駒組をし,力戦風の相居飛車戦になりました。
                                     
 後手が☖5九角と打ったのに対して先手が角を打って桂馬を受けた局面。後手は☖3四歩と催促しました。ここから☗4四銀☖同銀☗同角までは一直線。後手は☖3三金と角に当てて受けました。
 先手は当初は角を引く予定だったようですが,それでは拙いと気付きました。後手としても先手が角を引けるなら☖3四歩と打ったりはしないでしょうから双方の読み筋がここでは一致したのだと思います。
 ☗3三同角成☖同桂☗4八銀は予定変更ですが,最善の進行を選択できました。
                                     
 ここで☖8六角成が指したかった手であったそうですが,無理とみて断念。ほかに☖同角成と取って☗同飛にまた☖5九角と打つ順もあり得たようには思えます。
 実戦は☖8六歩と突きました。これを☗同歩だと☖同角成もあるでしょうし☖4八角成~☖5九角もあるかもしれません。ですから☗5九銀と角を取り☖8七歩成☗同金☖8六歩☗同金☖同飛☗8七歩と一直線の進行になりました。ここで☖7九銀と打てなければいけないのですがやはり無理と判断して☖8一飛と引くことに。
                                     
 この局面で飛車を逃げているのでははっきりと苦しいでしょう。この後,少しだけ危ないところもあったようですが先手が押し切っています。
                                       
 3勝2敗で渡辺棋王が防衛第38期,39期,40期,41期に続く五連覇で5期目の棋王。同時に永世棋王の称号も獲得しました。

 僕自身の解し方についていえば,観念ideaと意志voluntasの関係は,事物とその事物の本性essentiaの関係に類比的とみるより,本性と実在性realitasの関係と類比的であるとみる方が的確であると思っています。ただ,どちらの場合であれ,一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えるconcipereこともできないという関係にあるという点は同じです。そして今は,スピノザの哲学における意志というのがどのような思惟の様態cogitandi modiであるかということを示すことが目的です。ですから観念と意志の関係をどう類比的に解するべきであるのかということの僕自身の見解を改めて説明し直すことはここではしません。
 観念と意志が,一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えることもできない思惟の様態であるということを示しているのが第二部定理四九です。したがって,第二部公理三は,思惟の様態のうち第一のものは観念であるといっているのですが,その観念は意志なしにはあることも考えることもできない思惟の様態なのです。よって見方を変えれば,意志もまた思惟の様態のうち第一のものでなければなりません。他面からいえば,意志とは,観念という思惟の様態を,それを観念とみなすのとは別の観点からみた場合の思惟の様態であることになります。スピノザはこの公理Axiomaでは,感情affectusと観念とを比較した上で,感情は観念がなくては存在することができないけれども,観念はほかの思惟の様態がなくても存在することができるといういい方をしています。確かに観念は思惟の様態としての感情が存在しなくても存在することができる思惟の様態です。つまりこのように解する限り,この公理は誤ったことを示しているわけではありません。しかし一方で,観念は意志がなければあることも考えることもできないのだとスピノザはいっているのですから,厳密な意味でいうなら,観念はほかの思惟の様態が存在しなくても存在し得るというのは誤りだといわなければなりません。ただし,意志もまた観念がなければあることも考えることもできないのですから,思惟の様態のうち第一のものは観念であり,観念が存在するなら同時に意志も存在すると解するのがよいでしょう。
コメント
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