スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大楠賞争奪戦&朝倉流と福居流

2014-04-21 19:11:29 | 競輪
 優勝候補のひとり,村上が準決勝で姿を消して不在となった昨日の武雄記念の決勝。並びは小松崎-伏見の福島,牛山に小倉,田中-内藤の南関東,金子に荒井-合志の九州。
 スタートを取ったのは田中でそのまま前受け。3番手が金子,6番手に牛山,8番手に小松崎という周回に。残り2周のホームから小松崎が上昇。バックで田中を抑えるとすぐさま金子が発進。打鐘で小松崎を叩きにいきましたがさすがに小松崎も引けずに先行争い。ホームで金子が制して前に。これを見て田中が発進。バックで合志の横まで来ると荒井が番手捲り。これで田中は力尽き,荒井が優勝。後方から捲った牛山がいききれないとみるや内藤にスイッチし,直線は田中と内藤の中を割った小倉が4分の3車身差で2着。田中と絡んだ荒井マークの合志は1車輪差の3着。
 優勝した佐賀の荒井崇博選手は2010年の武雄記念以来,4年ぶりの記念競輪12勝目。地元になる武雄は2008年にも優勝していて3勝目。一時は自力でトップクラス近くまでいったのですが,その時代は長続きせず。最近は自力でのグレードレースは苦しいという状態に。ここは金子がいってくれましたので,その力を利用することができました。こういうレースであればチャンスを掴める力はあると思うのですが,同じ地区の九州に強力な自力選手が不在なので,これからも苦しい戦いを強いられそうな感じがします。

 朝倉流の論証では間接無限様態だけが個物res singularisに類するものとみなされていて,直接無限様態については何も言及されていません。一方で福居流の論証は,その観点を原因として第二部定理九が射程になっているので,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusが,res singularisに類するものと規定されています。この相違はどう考えておけばよいでしょうか。
 僕の見解では,直接無限様態をres singularisに類するものとしてみなすならば,間接無限様態も同様にみなす必要があるということは,第一部定理二二から明白です。直接無限様態がres singularisに類するものであるのに間接無限様態が無限であるなら,明らかに後者の完全性perfectioが前者を上回ります。しかし第一部公理四は,結果の完全性が原因の完全性に依拠するから公理となるのであり,これに反することになるからです。なので福居流が間接無限様態もres singularisに類するものと把握することは,既定の事実と僕は判断します。
 一方,間接無限様態をres singularisに類するものと把握する場合にも,直接無限様態を同様に解することが必要であると僕は思います。というのは,無限の一義性というのを考えた場合に,もしも直接無限様態が無限であって,間接無限様態はres singularisに類するものであるなら,この一義性は神とその属性,そして直接無限様態において規定され,間接無限様態は除去されるということになるからです。つまりスピノザが無限性の由来を説明するとき,その原因によって無限であると規定しているもの,あるいは所産的自然Natura Naturataである無限について,その一方が無限であってもう一方はres singularisに類するものだと主張することになります。しかし僕にはこれを正当化できるような論理があるとは考えられません。
 したがって朝倉流も福居流も,一般に無限様態のすべてをres singularisに類するものと規定していると僕は判断します。
コメント
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