津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■天和元年七月四日お預かり

2016-07-04 08:01:20 | 歴史

 肥後藩士小栗氏の祖・小栗兵庫は、越後騒動の一方の主謀家老小栗美作(藩主光長室の妹婿)の弟で、事件に連座して流罪となった。兵庫には七人の男子があったが、下の四人岡之助・八歳、八之助・六歳、六十郎・四歳、小三郎・二歳が乳母三人と共に、松平出羽守に預けられた。
天和元年(1681)七月四日細川家にお預けの命が発せられる。早速出羽守屋敷に出かけて四人を受け取ると芝御屋敷に召置き、七月六日には江戸を発っている。
上月八左衛門、堀内太左衛門、寺尾孫四郎、土山七郎兵衛、塩山牛右衛門、余田半助、三浦■五兵衛、釘本藤内、筑紫弥左衛門、北村与三郎及び本道御医師交野与元、外科御医師続■■、歩之御使番宇野左助という人たちが随伴した。その他歩之御小姓二十人、海陸賄方役人二人、御大工棟梁一人、足軽七十人、小頭一人とある。
 大阪に七月二十五日着、二十八日には船にて出発、六十丁立一艘、四十六丁立一艘、九端帆五艘、八端帆四艘、十丁立一艘、五丁立一艘、合計十三艘の船団は八月八日鶴崎に着いている。津田与左衛門、有吉清助、益田弥一右衛門、田邊十郎兵衛、矢野市兵衛、乃美傳左衛門、田中源大夫、岡田源左衛門、和気小左衛門、都築甚左衛門、津田半十郎ほか歩之御小姓十五人、足軽七十人、御馬医一人、御中間十八人、御かし馬七匹が替わって熊本を目指した。八月十二日熊本に到着している。 

四人は当時竹之丸にあったとされる囲い屋に入れられここで四十年を過ごすことになるが、八之助は元禄七年(1694)十九歳で疱瘡により死去、小三郎も正徳三年(1714)労症(ママ)により三十四歳で亡くなっている。享保五年(1720)幕府より「御預人御免」の沙汰があり、岡之助・六十郎の二人は四十年振りに「囲い屋」を出ている。その後二人はそれぞれ五十人扶持を与えられて細川藩士となるのである。父兵庫は配流先で死亡、松平陸奥守に預けられた兄三人のうち二人は死亡、残された一人が同じ日に同様の沙汰が下されている。

 なぜ四十年もの長い時間を要したのか、これは「越後騒動」の事件解決が将軍綱吉直々のものであったからだろうと推測される。細川家に於いても「預り人」であるからそれなりの待遇をせねば成らず、付き添ってきた乳母三人のほかに、下女四人を雇い、御預人付六人、同御目付四人、同御医師三人、その他上番十六人、賄方四人、料理番二人、荒仕子六人、下番人二十三人、門番二人、小使二人などを付けている。物々しさが窺がわれる。
                                                                                                         「小栗氏御預人一巻」より

旧暦とはいえ335年遡るまさに今日細川家に預けられた。

 

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