津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■11:55地震

2016-07-17 11:56:22 | 熊本地震

 7月16日午後8時現在、震度1以上の余震が1900回に達した。
そして+1回なのか2回なのか、今日11:55
分地震があった。震度3、本当に大概にしてくれと叫びたくなる。

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■イエスズ会年報が伝える、ガラシャ夫人の死

2016-07-17 06:21:21 | 歴史

 今日七月十七日は、ガラシャ夫人が老臣・小笠原少齋の介錯により今生に暇され、天国へと登られた日である。
お傍近くに仕えた霜なる女性が、ガラシャの孫にあたる時の藩主・光尚の乞いに応じて、その生害を書き残した「霜女覚書」で我々はその状況を知ることができる。
その他脚色がましいいろいろな文献が見受けられる中、イエスズ会が本国へ報告した記録をまとめた、事件直後1600年10月の会報がある。

ここから、霜女覚書どうようの事件前後の様子が伺える。全体にやや具体性に欠け、首を落とすといった記述には違和感を持つ。


(前略)丹後の殿長岡越中殿の奥方、ガラシャと呼ばれる吉利支丹の夫人に関して悲劇的な事件が起こったのである。
この殿は諸将と共に内府様(家康)に従って関東の戦に赴いていたのであったが、彼は家老小笠原以下家臣の者の監督にまかせて、奥方と家族の者を(大坂に)残して行った。越中殿はつねにそうであったが、万事を名誉のために心がけていたため、家を離れる時はいつも警固としてのこしてある家老および家臣に命じ、もし留守中に何か奥方の名誉に関する危険が勃発したらば、日本の習慣に従って、まず奥方を殺し、全部の者が切腹して死を共にすべきであるとしてあった。
この時にも、同様のことを家来の者共に命じたもであった。さて、その間に奉行(石田三成)は越中殿の屋敷に使いをやって、留守の者に対して、本日より戦争が始められたから、殿の奥方ガラシャ夫人を殿の恭順の人質として引き渡すべしと命じて来た。これに対して家老らは奥方は絶対に渡せないと返答した。
そこで奉行が手早く邸を包囲して奥方を捕えようとしていることを知ると、一同は奥方の名誉のために、殿の命令を実行しようと決心した。そして事態の急をいち早くガラシャ夫人に知らせ、殿から命じられていることをそのまま申し上げた。奥方はさっそく、何時もきちんときれいに飾られている礼拝所に蝋燭を点させ、跪いて死の準備の祈りを捧げた。
ようやく奥方は礼拝所からたいそう元気に出てきて、腰元どもを全部呼び集め、自分は殿の命令であるからここで死ぬが、皆の者はここを退去するようにと言いわたした。
一同はそこを去るにしのびず、むしろ奥方と共に死出のお供をしたい希望を述べた。日本ではこういう場合、主人と死を共にするのが臣下の名誉であり、また習慣でもあったからである。

ガラシャ夫人は真に召使たちから慕われていたので、召使たちが死の供をしたいと望んだのであったが、奥方は無理に命じて邸の外に逃げさせた。その間に家老小笠原殿は家来共といっしょに全部の室に火薬をまき散らした。侍女たちが邸を出てから、ガラシャ夫人は跪いて幾度もイエズスとマリアの御名を繰返してとなえながら、手づから(髪をかきあげ)頸をあらわにした。その時、一刀のもとに首は切り落とされた。家来たちは遺骸に絹の着物をかけ、その上にさらに多くの火薬をまき散らし、奥方と同じ室で死んだと思われる無礼のないように、本館の方に去った。そこで全部切腹したが、それと時を同じくして火薬に火がつけられ、(大爆音と共に)これらの人々と共にさしもの豪華な邸も灰燼に帰したのである。
ガラシャ夫人の命令によって邸の外に逃がされた侍女のほかは、誰一人として逃れようとした者はなかった。これらの女たちは泣きながら、パアデレ・オルガンチノのもとに行って、この事件の一切を知らせた。その報知を得てからわれわれは非常に悲しみ、かくも人の鑑として、とくに改宗してからはまれに見る徳の高い、高貴な夫人を失ったことを非常に悲しんだ。

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