津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「細川忠興ローマ字印判通行許可状」 & 「細川忠利ローマ字印判書状」

2016-07-22 18:14:49 | オークション

             「細川忠興ローマ字印判通行許可状」筑前小倉藩 古文書 「細川忠興ローマ字印判通行許可状」筑前小倉藩 古文書

 

             「細川忠利ローマ字印判書状」阿部一族 熊本細川藩 古文書 「細川忠利ローマ字印判書状」阿部一族 熊本細川藩 古文書

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■仲光半助の不幸なる死

2016-07-22 06:19:09 | 歴史

江戸期それぞれの家が8~10代とか続くと、中には思いがけない事件や失敗に遭遇されるお宅が出てくる。
献策が受け入れられずに中枢から排除させられたり、また身内が事件を起こしたり、火事の火元となったり・・・・人生何があるかわからない。

国衆一揆の際、佐々成政と戦い滅びた隈部一族に隈部親永(刑部允、但馬守)がある。天正十六年に自殺したが、二男親房も同時期自殺した。
この親房の孫・専祐なる人物が、熊本市古町に寺を興した。正覚寺である。
その子小内膳は元和五年の生まれ、本妙寺の日収上人に儒仏を学び、13歳で細川忠利の肥後入国時御小姓に召加えらた。13歳で500石というのだから相当優秀な人であったろうし、その出自も考慮されたのであろう。天草島原の乱(18歳)でもその武功にたいして賞せられた。忠利公の死去にあたり殉死(21)をとげた。

その子孫・八代目の半助には「御知行被召上候 天保四年二月四日 高五百五十石」という記録が残る。
その原因が奈辺にあるのか承知していなかったが、意外な事実があった。 

熊本藩年表稿の天保三年七月二十二日の項に次のようにある。
  ■物頭仲光半助、亀井村にて西瓜盗喰 里人に欧打され数日後死亡
天保二年二月四日の記録には
  ■昨年七月二十二日物頭仲光半助の事件に付、半助を病乱とし、士道に背く罪で知行召し上あとし、相手百姓の内3人刎首他は苔刑。

旧暦の七月二十二日、暑いさかりではあったろうが、盗み喰いとはおだやかではない。
仲光家にとっては誠に不名誉な事件であり、加害者にとっても不幸な結末を迎える事件となった。
半助を病乱としたというのは、藩の配慮が伺えるが、「士道に背く罪」であることは間違いない。

梅雨明けして五日目だが毎日うだるような暑さが続いている。私の今年の初すいかは二週間ほど前のことでした。

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