津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■献上品「八代蜜柑」

2016-07-19 07:08:22 | 歴史

 大日本近世史料「細川家史料・24」を読んでいたら、寛永十五年十月十日付の幕閣の要人宛の「蜜柑献上」の忠利の書状が目に入った。 

上妻文庫に「八代蜜柑」という表題の文書が5冊ほど残されている。慶安三年から寛政五年迄の八代蜜柑の献上の記録である。これは上妻博之氏が昭和35年から2年余の歳月をかけ、関係文書466巻から記事を採取された膨大な記録である。この貴重な記録は、単なる贈物の記録としてではなく、政治や人の動向、交通・運輸のありかたから、気候の変動など多くの情報を含んでいる。

上記忠利の書状は土井大炊頭(利勝)、酒井讃岐守(忠勝)宛てであり、将軍家に献上する旨を伝え同時に土井大炊頭・酒井松平伊豆守にもそれぞれ五百入一箱を送ることを案内している。その他堀田加賀守(正盛)、阿部豊後守(忠秋)に五百入一箱、朽木民部(稙綱)、稲葉美濃守(正明)に三百入一箱、柳生但馬守(宗矩)と佐久間将監(實勝)には五百入ながら一籠とある。
別に天樹院(千姫)にも老女・刑部卿局を通じて五百入一箱を送ることを案内している。
ここでは記されていないが、禁裏や親交のある公家衆へも送られている。
八代蜜柑は日本の蜜柑の発祥地ともいわれ、加藤清正の時代から幕府への献上は通例化されているようだ。
季節になると心待ちにする方も多かったことであろう。 

上妻文庫の「八代蜜柑」の冒頭に上妻先生は次のように記されている。
享保三年の記事にあるように八代蜜柑の献上は毎年数回行はれたようであるが、江戸状扣慶安三年の項には三番立迄献上してあるが、享保三年から毎年一回となった。安永八年迄は藩の奉仕で輸送したけれども輸送が円滑に行かぬので幕府の證文を貰って筑後國原町から江戸白金の細川邸迄輸送する事となった。八代蜜柑の献上箱数は本丸(江戸城)に五百個入二十箱、西丸に五箱の定まりであったが、宝暦五年球磨川大洪水の為蜜柑木二百株余り流失したので本丸に十箱、西丸に三箱となり、其後蜜柑畑の整備が出来て天明元年頃から本丸二十箱、西丸五箱献上する様になった。八代蜜柑は他の献上品と違って大事に取扱はれたもののようである。

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