津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■清田七助宛・細川忠利書状

2024-07-08 10:22:59 | オークション

                  【真筆保証】 細川忠利 直筆 清田七助 宛 書状 貴重品 稀少品 熊本藩 初代藩主 コレクター放出品 熊本県         

 清田七助からの「引鮑」一箱が送られたことに対する礼状である。
清田七助は「石見」と称するが、大坂の陣に於いて「槍先を押し曲げる」様な働きで一番の功名を立てている。
忠興に従い、忠興隠居後は忠利に就くようにと勧められている。この時代の文書の常で、時代を特定することができない。
 元和八年(1622)閏八月七日の日帳につぎのようにある。
   清田乗栄忠利ニ附属セシメラル 
 一、吉住半四郎御使ニ被参候事、但、清田七助を 殿様ニ御奉公申候へと、 三斎様御意ニて、半四郎御使ニ被参候、
   則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく 三斎様ゟ付被遣候事

 忠興隠居の直前であるが、それまでは忠興の側近として槙嶋云庵と共にいつも忠興の側にあった。
その二人が我が家の初代と兄・長五郎を周防の下松でスカウトされて、豊前にやってきた。
私事で恐縮であるが、我が家の初代目の召出については、元和九年壬八月七日の日帳に次のような記述がある。
  知行高弐百石

一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事
この時、兄弟一緒に召し出されている。

 そんな清田七助は天草島原の乱に於いては鉄炮疵を負っている。
その後、菊池に住まい治療に勤めたが、その地で死去した。坪井・流長院及び菊池の地にお墓がある。

■恩人・清田石見守の塔碑
■清田七助甲冑の図
■エピローグ「清田家系図」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■八代朽木家取扱之扣写(4)... | トップ | ■宝暦の改革の限界 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿