昭和44年国連アジア極東経済委員会が報告書で尖閣諸島周辺に石油埋蔵の可能性を指摘すると昭和45年北京政府は急遽尖閣の領有権を主張しだした。
昭和53年(1978年)4月、日中平和友好条約締結に向けた交渉が行われている中、突然、約100隻の武装中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内不法操業を行うという事件が発生した。
これに対し、我が国政府と海上保安庁はただ傍観するのみであった。
よって5月11日大日本赤誠会(隊長 笠原正敏 写真右端)は尖閣諸島領有決死隊を結成し当局の不当な弾圧をはねのけ上陸を敢行した。
この決死の行動がきっかけとなって現在も尖閣は竹島のようにシナに不当に占拠されずにいる。
こうした行動がなければ尖閣はすでに覇権シナによって占有実効支配されていたに違いない。
尚、補足するとこの上陸が戦後民間人としては始めての魚釣島上陸と記録されている。
順次写真(一切の無断転用を禁止します)アップします。
昭和53年(1978年)4月、日中平和友好条約締結に向けた交渉が行われている中、突然、約100隻の武装中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内不法操業を行うという事件が発生した。
これに対し、我が国政府と海上保安庁はただ傍観するのみであった。
よって5月11日大日本赤誠会(隊長 笠原正敏 写真右端)は尖閣諸島領有決死隊を結成し当局の不当な弾圧をはねのけ上陸を敢行した。
この決死の行動がきっかけとなって現在も尖閣は竹島のようにシナに不当に占拠されずにいる。
こうした行動がなければ尖閣はすでに覇権シナによって占有実効支配されていたに違いない。
尚、補足するとこの上陸が戦後民間人としては始めての魚釣島上陸と記録されている。
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