地場・旬・自給

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猫のサーヤの死と自分の命のこと

2019-12-17 04:03:24 | 身辺雑記
死んでしまったサーヤ

 猫のサーヤが死んだ。2002年5月19日に生まれたシャムネコである。京都の方から来た猫である。小田原に越してしばらくして家に来た。石垣まで一緒に来て、一年暮らして2019年11月に死んだ。

 静かな死だった。そういう連絡が石垣からあった。小田原に来ていたので、死んだ様子は分からなかったが、石垣を離れるときには、もう会えないなという思いで別れた。徐々に衰えが目立っていたので、覚悟はして分かれた。

 サーヤは一生涯静かな猫であった。とても美しい猫だったのだが、寂しい猫だったともいえる。少し生き方が上手くなかった。私には親しい感じにはついにならなかった。それでいて、時にはそうでもないこともあった。他の猫たちともあまり仲良くはならなかった。とても臆病な猫であった。

 それもあって何時も眼をひそめて、自分のねぐらで寝ていた。他の猫がちょっかいを出すと、妙に本気で反発をした。怖かったのだと思う。感受性が強すぎるような猫だった。他の猫とふざけるという事が出来ない。甘えだすとよだれを流しながら、甘えた。怒り出すと極端に神経質になった。

 そんな様子なのでいつも、可哀想な気がしていた。もう少し活発で晴れ晴れしてくれればと思ったが、そうした静かな性格は一生変わらなかった。石垣に来てから、急に老け込んだ。腰が少し弱くなり、歩き方が少し足を引きづるようになった。それでも食欲はあるので、何とかまだまだ生きてくれるかもしれないと期待はしていた。

 それから一年だった。石垣で一年暮らしてサーヤは死んだ。石垣に戻り、サーヤが居ないと言うことを改めて感じる。いつも寝ていた場所をついつい見てしまうのだが、サーヤはやっぱり居ない。

 サーヤに死なれて暗い気持ちでいる。重い気持ちでいる。もっと何かしてあげられなかったかと思うが、あれこれ考えても、何かしてあげられることも考え付かない。結局仕方がないと受け入れる以外にない。それにしてもこの空白感はなんだろうか。

 リンちゃんが死んだときも、うずらが死んだ時も、充分生きてくれたよなと思えた。あれ以上の生き方はないのだから、仕方がないと思えた。それがサーヤの死は少し違う気持ちに陥った。サーヤは生きづらい性格でありながらも、自分というものを全うしたと思うほか無い。年齢としては寿命と言ってもいいだけ生きたのだが。

 サーヤのことが自分の死と繋がってしまった。自分もこうして死んでいなくなるという現実をつよく感じた。猫たちはそれなりに長生きをしてくれて、みんな17、8歳くらいで死んだ。寿命だったと思うしかないが。どの猫も死んでゆくという事を教えてくれた。

 私も80歳くらいまで生きれば、一応寿命と言うことだろう。あと10年である。サーヤのことを思うと、自分というものを晴れ晴れと一日一日を過ごさ無ければと思う。毎日をやり尽くして生きなければ。

 誰だって死ぬ。死ぬまでどう生きるのかという事。犬も飼った。そして順番に死んで、今は犬はいない。子供のころから考えれば、8頭の犬を飼った。どの犬も思い出すといろいろのことを教えてくれたと思う。犬からは生きるということを教えてもらった。

 猫は死んでゆくということを教えてくれる。命は必ず死ぬということを思い出させてくれる。今は3匹の猫になった。2匹は原発事故で福島で保護された猫なので、あと10年は生きてくれるはずである。私とほぼ同じと考えていい。猫より先には死ねないと思う。

 私は残りの日々は絵を描きたいと思う。まずは石垣の風景のデッサンをやってみたい。デッサンをして自分のやろうとしていることを確認したいと思う。これは木村忠太の絵を見て考えたことだ。

 サーヤにとってやりたいことは何だったのだろう。やりたいことをもっとやらせてあげたかった。小田原に居た頃は自由に外も歩けるようにしていたのだが、余り外にも出なかった。いや、子供の頃は外に出ていたか。確かその頃は素早くてセキレイを捕まえたこともあった。

 年齢とともに気難しく変わったのかもしれない。沢山いた猫の中で暮らすのは無理な性格だったのだろう。5歳過ぎてからはもう出歩くことが無くなった。そのかわりなのか、もっと弱かったほのかをいじめていた。余りいじめるのでほのかは山田さんの所に引き取って貰った。

 シャム猫というのは特別の性格の猫なのかもしれない。そういうこともよく分からず、みんなの中で飼ってかわいそうなことだったのだろう。サーヤには可哀想なことをしたような気分がある。

 死んで、ウズラの居るお墓に一緒に入れてもらった。ここのお墓はバンナ岳の山腹にある。海の見える明るい場所である。沢山の猫の骨が一カ所に納められている。こういう場所があったので時々お参りには行ける。

 自分の骨はどうするのだろうかと思う。そろそろ決めておかないと行けないのだろう。品川の海晏寺さんに両親の骨はあるので、底に入れてくれるならそれもある。しかし、それは兄のところの墓なので、兄はいいと言うだろうが、お寺さんがいいというかどうかは分からない。その場合は、石垣の樹木葬というのもいいかと思う。


 

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石垣市の自治基本条例は守られました。

2019-12-16 11:51:58 | 石垣島
 市役所の前で、議会に来られる市議会議員に対して、30名ほどで、廃止を止めて欲しいとシュプレヒコール。
 
 10時から議会傍聴。結局午前中は11時から休憩になり、午後1時30分再開と言うことになる。

 残念ながら午後は人の来る予定があり、傍聴できず。心配で仕方が無い。

以上、12月16日11時54分の様子。

2時半に再度傍聴に行く。討論の最中であった。
全くでたらめな廃止論で驚く。

市民に意見を言わせる必要は無いと言うことのようだ。

16時:石垣市自治基本条例は採決され、廃止案は否決されました。
石垣市の議会は自治基本条例を守ることを選択しました。

石垣市自治基本条例を廃止するための条例案が16日の市議会(平良秀之議長、定数22)12月定例会最終本会議で採決され、10対11の賛成少数で否決された。賛成が過半数に達した場合、全国で初めての自治基本条例の廃止となる異例の事態だったが、野党に加えて、公明会派の1人、与党系会派「未来」の1人が反対に回った。条例案は石垣市議会与党の自民会派議員らが提案していた。琉球新報

数の力で無理矢理廃止しようとしたができなかった。

この勢いで、裁判にも勝って、住民投票を実現する。
そして自衛隊基地を作らせないことだ。

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石垣市自治基本条例の廃止案上程

2019-12-16 04:02:34 | 石垣島


 石垣市では自治基本条例の突然の廃止案が本会議に上程される。今日である。全く寝耳に水の突然である。石垣市の方角を定めている自治基本条例である。こんな重要なことを委員会で5時間話しただけで、廃止案の上程を決めたのである。

 廃案を決めた審議会での議論は公開されていないし、議事録すら無い。音声記録はすでに廃棄されたという。全く革命政権が石垣市に登場したようなものだ。自治基本条例を廃止するなど、基本条例自体の想定外である。

 石垣市は昨日は26度まで上がったが、もう怒りの炎が燃えさかっている。こんな理不尽なことが民主主義国家で起こったのだ。自治基本条例はいわば石垣市の方角を示したものだ。これをいらないというのは権力者の横暴そのものだ。

 安部政権は日本国憲法を改定するとは言うのだが、さすがに憲法廃止とは言わない。ところが石垣議会ではたいした話し合いも無く、廃止と言いだしたのだ。そもそも自治基本条例には廃止のための条項はない。それは憲法も同じだ。憲法は改正条項はある。廃止するのは革命政権だけだろう。

 自治基本条例は石垣市の民主主義を定めたものだ。特別のことが書かれているものでは無い。これを廃止するという考えが出てきたのは、自衛隊基地に対する住民投票問題である。

 石垣市は自衛隊基地を建設中である。十分審議されない内に、安全保障は国の専権事項だから、住民は意見は言えないという一方的な市長のでたらめ論理で、説明すらされないまま自衛隊基地は着工されてしまった。やり方が実に姑息であった。

 これは余りに横暴と言うことで、住民投票をして判断すべきと言うことになり、正式な署名を3分の1の住民が行い請求した。ところが住民投票を市長は実施しない。自治基本条例には住民の四分の一以上の請求があれば、市長は住民投票をしなければならないとしている。

 明らかに市長は基本条例の義務違反である。そこで、裁判によって市長の義務違反を明らかにすべきとなった。現在係争中である。多分来年3月までには判決が出るであろう。そうなれば、まず間違いなく住民投票が実施される。

 住民投票が実施されれば、自衛隊基地を誘致する住民は少ない。となれば工事は中断となるだろう。その理由は自衛隊基地は市有地を利用して作ろうと言う計画である。住民が反対しているにもかかわらず市有地の売り渡しはできないだろう。

 市の土地を自衛隊に売却することは住民投票で多数が反対している以上できないことになる。そこで自衛隊基地を誘致したい市長と保守議員は自治基本条例を廃止してしまい、住民投票ができないようにするという、革命のような暴挙を起こそうとしている。

 今日の本会議で決まりそうである。私が石垣に戻った昨日の夜に、緊急集会が行われていた。慌てて参加したのだが、100人を超える人が保健センターに急遽集まった。みんな心配そうだった。どうしたらいいのかという戸惑いである。

 今日の9時に市役所に集まり、市議会に来る議員に対して、なんとしてこの暴挙は止めなければならない。と言って、正直止めようも無い。数だけで言えば、保守系議員の方が多いらしい。もしかしたら、さすがに保守系議員の中にも、改定の決まりに従い審議会で進めようという、当たり前の考えの人も居るかもしれない。

 そうした人に期待するほか無い。何しろ、突然の廃止など自治基本条例を全くないがしろにした行為である。基本条例をここまで軽く見る人とたちが登場するとは、想定すらしていないのであろう。安部政権でもさすがに、憲法改定までである。しかも、国会で決めたとしても、そのあと国民投票があるのだ。

 それをなんと、5時間の審議で理由も示さず、即廃止。こんな馬鹿げたことはあってはならない。民主主義を重んずる以上、まず審議会を設けて改定を議論するというのが当たり前のことだ。そもそも、改定の条項にはそう書いてある。

 一切を無視して議会でこうした暴挙を行うのは民主主義の破壊である。石垣市の保守系議員の蒙昧を日本中にさらすことになる。保守系議員の中にもしかしたら、議会制民主主義を尊重する人が居るかもしれない。そういう骨のある人の登場に期待する以外に無い。

 もし、こうした暴挙が進められたならば、この市民条例に基づき作られた12本だかの条例も同時に廃止になるのだそうだ。一体どうしてこんなでたらめをまともな市議会議員がするものだろうか。

 このでたらめな廃止案は違法行為だと思う。再度裁判にて争う以外に無いことになる。こんな不幸なことは無い。多分保守党議員は裁判に負けることも覚悟で、ともかく自衛隊基地が作りたいだけなのだ。これが本当に不思議な思い込みだ。

 今行われている自衛隊基地の住民投票の裁判所の判断が出るまえに、基本条例を無くしてしまえばいい。そうすれば裁判所で実施しろと言われても、住民投票をやらないで済むと考えているのだ。これほどひどい行政は聞いたことも無い。

 これはドドノつまり石垣市民に防人になれと言うことだ。日本全体のために、石垣市の住民に犠牲になってくれという考えだ。しかし、石垣市では自衛隊基地防人案の議論が行われていない。自衛隊基地の是非が充分話し合われていない。

 話し合えば反対が増えると考えている。それで問答無用で進められている。反対は住民としての当然の気持であろう。誰でも防人になれと言われて、はいなりますとは言えないだろう。それは憲法違反なのだから当然国民としては当たり前のことだ。

 日本国は中国との間に尖閣諸島というとげを抱えている。そうした国際問題が生じたときには平和的手段で解決すると憲法で決められている。国際問題があるから、ミサイル基地を作れとは憲法には書いてない。

 この憲法に書かれた平和的努力を十二分に行うことがすべての大前提である。全く平和的努力をせずに、尖閣諸島の帰属を中国と面と向かい話し合うことはせず、何で軍事基地となるのか。

 その本音は日本の武装化である。強力な軍隊を持たなければ、安心は無いという考え方である。平和外交などと夢のようなことを言っていたんでは、日本の安全保障はできないと思い詰めているのだろう。

 そういう考えがあることは分かる。しかし、民主主義国家である以上手順を踏んで話し合わなければ、日本の武装化もできないのだ。どうしてもやりたいというのであれば、軍事クーデターと言うことになるのだろう。

 そのいわばクーデターが石垣市議会で今日行われようとしている。こんな馬鹿げたことが日本の市議会であるとは思わなかった。手順を全く無視して、今まで積み上げてきた、自治基本条例を問答無用の、数の力だけで押し切ろうというのだ。

 これは保守系議員の劣化である。焦りであろう。自分の考えを言葉で伝える能力が無いのだろう。防人理論を住民に伝える自信が無いのだ。自衛隊基地ぐらいで、まさか中国の攻撃を受け止められるとは誰も思わない。

 中国が攻めてきたら、石垣市が犠牲になり占領される。その間に、本土は態勢を整えて、米軍の力を借りて反撃する。こういう考えなのだろう。一体石垣市民が犠牲になることを望むという市長はどういう人なのだろうか。

 なぜこんな洗脳をされてしまったのだろうか。市長が右翼ゴロのように見える。保守系議員の多くも右翼ゴロのように見える。初めからこういう考えの持ち主が、本音を見せずに市長や議員になったのであろうか。

 日ごろの選挙を甘く見てきた結果と言うことなのだろうか。しかし、石垣市には住民投票を名前を出して請求した人が三分の一居るのだ。さすがにこれほどの暴挙が許されるとは思えない。次の選挙では方向が変わるのでは無いか。そのためのヤケのヤンパチなのか。

 自治基本条例は住民を交えた審議会を設けて改定を検討するというのが、当たり前の方法である。廃止をするのであれば、それこそ住民投票が必要であろう。そこで二分の一以上の廃止賛成であれば、廃止でも仕方が無い。

 市長や保守系議員が、勝手なことをできないようにしているのが、自治基本条例の役割でもある。廃止を主張すると言うことは勝手なことをやりたいと言うことなのだ。住民の意思などどうでもいいのだ。今日が石垣島の不幸な日にならないように。


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農の会の「自給祭」の楽しさ

2019-12-15 04:21:17 | あしがら農の会

音楽の舞台の準備中

 農の会の自給祭を終わった。大勢の方が来てくれた。農の会らしい良い自給祭だった。86人の参加だったと書かれていた。農の会全体の参加者を考えると来ている人の方がだいぶ少ないと感じる。やはり総勢200人ぐらいの会なのではないだろうか。

 人が多ければよいという事ではないが、近しい気持ちの人がこうして年に一度集う事が出来るという事は素晴らしいと思う。自給祭は名前の通り、農の会の「地場・旬・自給」の祭りである。地域主義、化石燃料を出来る限り使わない、自分の食べるものを作る。

 具体的に言えば、美味しいものを持ち寄って食べるという事である。小麦部会では、神戸さんにパンを焼いてもらい、みんなに食べてもらう事が出来た。神戸さんがパン屋さんを開き、小麦部関係者のパン屋さんは4軒目である。

 農の会の関係者で昨年の新規就農者は2名だったそうだ。毎年新規に農家になる人がいる。少しづつ活動が定着し、広がっていることを感じる。広がってほぼ遠くにいる人は、農の会のこともよくは知らないのだと思う。それが農の会の良いところだと思う。

 自給祭は農の会の窓なのだ。分かりにくい農の会のことを覗いてもらえる機会である。農の会がどんな会であるかはその人の切り取る断面である。いろいろに見えるだろう。それが一番良いところだと思う。多様であるから、新規就農を目指す人もいれば、パン屋さんになる人もいる。もちろん、美味しいものが食べたいだけという人もいる。

 今回の御馳走は穂田さんのイノシシだった。穂田さんは4月から今までに76頭も猟をしていると言われていた。そのイノシシを伊藤シェフが絶品の料理にしてくれた。何日も仕込みに時間をかけたそうだ。私の3年物の醤油を使ってくれた。これは実に上品なかつて食べたことのない料理だった。

 穂田さんによると、小田原にもジビエのための捌いてくれる場所が出来たという事である。小田原では4月から500頭を超える量が行われているが、減っているわけではないという事だ。何とか猟が採算がとれるようになってもらいたいものだ。これこそ自給である。

 農の会はさまざまであるからこそ、加わりやすい組織になる。これは農の会を始めたころからの形である。お茶会をやったこともある。農の会らしく、抹茶から器まで作るお茶会である。作品を持ち寄った展覧会もやった。これはなかなかレベルの高い展覧会であった。それぞれの分野で活動している人が、農の会という枠でたまたま、作品を持ち寄った。

 今年も私は「でん田楽団」で参加させてもらった。音楽をやるのも伝統である。様々な人が参加した、チンドングループの参加もあった。大掛かりな劇をやったこともある。フラダンスは圧巻であった。音楽は農の会らしい活動である。暮らしを高めるという事ではないだろうか。

 それぞれがその時のめぐりあわせで集まり、何かをパフォーマンスする。これが良い。私も今年はパフォーマンスできた。つまり、表現しつくした。出来得る限りの表現をする。外に表すことは大事だと思っている。絵を描くのも同じことである。外に表さない限り、自覚が出来ない。そう思っている。

 

 たぶんなぜ農の会で劇をやったり、歌を唄ったりするのかと思うだろうが、昔の村祭りである。百姓仕事に精一杯働き、一年の実りに感謝して、大いに盛り上がる。これこそ素晴らしいことだと思う。楽しい農業とはこういうものだと思う。

 人間をやり尽くすという事こそ、面白い。人間として生きる充実である。みっともなくていい。恥をかいていい。自分を出すことをしなければ一歩先がない。最初は恥ずかしいのだけれど、やっている内に自分を外に広げてしまう愉快を感じる。

 三線はかなり稽古をしている。手先を使い大きな声を出す。これは生きるエネルギーの増幅のようなものだ。なかなか上手にはならないのだが、自分らしく弾いて唄える楽しさがある。しかも、自給祭で聞いてもらえるという最高の楽しみがある。

 でん田楽団のメンバーは音楽を長くしてきた人たちだ。私が加えてもらえているのは、全くの恩情である。何とか教えてもらいながら、足を引っ張りながらやらしてもらっている。私としては下手でも唄うという事が大切だという事を、みんなにわかってもらいたいと思っている。

 石垣に戻り、努力をしたい。みんなの邪魔にならないように頑張りたい。今回一番苦労したのが、チューニングであった。タブレットで音合わせをしたのだが、なかなか表示が出ないで時間がかかり過ぎた。素早く音合わせが出来るように練習したい。

 良かったのは、楽しみにしてくれている人がいたことだ。おせいじかもしれないが、笹村さんの歌を又聞きたかった。又聞けて良かった。ぜひほかでも歌ってほしいとまで言ってくれた人がいた。まさかのことである。これはかつてない不思議な喜びである。もしいくらかでも、農の会の平和の希求が伝われば、これ以上の喜びはない。

 以前、水彩人の集まりで歌ったことがある。その時に、笹村さんの歌は絵と一緒だと言われた。喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからないのだが、つまりへたくそという事である。下手も絵の内である。下手だけどそのままでいいというのが私である。

 農の会がこの先どうなるかはわからない。ただ、ここで実現した様々に試行錯誤したやり方は、どこでも参考になるのかと思っている。どうやれば志の似ている人が集まれるのか。どうやれば、みんな違う人が仲良くやれるのか。どんどん農の会は新しい形になっていくのだろう。

 来れる間は小田原に来て、手伝わせてもらいたい。今回は1か月間小田原にいたのだが、毎日身体を動かし、気分爽快だった。フィットビットで1万歩から2万歩である。みんなから元気そうだと言ってもらえた。

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総理大臣の説明責任は一番重いはずだ。

2019-12-14 04:03:48 | Peace Cafe


 安倍総理大臣は相次ぐ閣僚の辞任の際に、繰り返し任命責任は私にある。責任を全うするため政策実現にまい進すると発言してきた。そして辞任した本人が説明責任を果たすだろうと発言していた。ところが、止めた大臣は説明責任どころか雲隠れしたままだ。しばらくすれば忘れてくれると考えているのだろう。

 今度は総理大臣自身が桜の会で疑念が生じた。安倍氏自身これで3回目の疑惑である。不明瞭な説明のみで、十分な説明責任を果たしているとは思えない。国会は政策議論どころか、安倍氏の疑惑追及の場になっている。その原因を野党の繰り返す追及の為としている。

 明らかにそれはすり替えで、繰り返される疑惑に対して、明確に答えないところに原因はある。桜の会の名簿など、廃棄すること自体が問題である。毎年廃棄する理由自体が何か胡散臭いところを感じざる得ない。犯罪者を総理大臣が招待していたかもしれない。こういう疑惑を曖昧なままで良いとは思えない。

 説明するという事は分事実関係を話すことだ。桜の会を利用した安倍後援会1000名について何も説明していない。総理大臣がいつまでも誤魔化しているから、国会が疑惑追及の場になる。これは犯罪ではないのだと思う。総理大臣としてみっともないことをして申し訳ないかったと謝るべきことなのだ。その潔さがまるでない。

 明確に事実関係を説明する。それが総理大臣の思い説明責任である。説明に対して、あるいは説明を果たさないことに対して、選挙民がどう判断するかである。この点の機能が失われている。しぶとく誤魔化していればほとぼりが冷めるという事だろう。ひどい事になったものだ。

 桜の会のことは、こんなうす汚い総理大臣はいらないという事だ。国家の品格にかかわる。余りにみっともない自己本位なやり方だろう。総理大臣だから、宴会の料金をホテルに格安でやらせる。確かにそうだろう、そういうものだとは思う。ホテル側の忖度である。

 しかし、それをやっちゃーおしめぇよ。安倍氏の周りにはこういう薄汚れた驕りが渦巻いている。これが情けなく嫌なのだ。総理大臣であればこそ、清廉潔白な人であって貰いたい。自分の権力をずる賢く利用するような人間は許しがたい。それどころか、そのおこぼれにあやかりたいとうごめく自民党に吸い寄せられる議員たちの見苦しさ。

 世間様のほうも、マスコミのほうも、どうも権力に甘くなっている。甘く媚びていれば、何かにありつけるかとでも考えているかのようだ。たくさんの政治的課題があるのに、いつまでも桜を見る会だけではないだろうなどと言いだしている。こうやってまた、うやむやにしようというのだ。いや、ほぼうやむやになった。この姿を見ると、つくづく日本はもう駄目なのかもしれないと思う。日本の桜が散ったのかも。

 ごまかして済ませる政治状況では考えようもない。こうさせているのは有権者である。アベ盟友の大学認可。アキエ夫人の名誉校長。ジャパンライフ社との関係はおかしくないのか。まったく有権者は許している。こんなことがあいまいなまま過ぎてゆく、薄汚い政治状況になった。

 現実社会ではそんなことはみんなやっているのだ。そう言っている議員もいる。しかし、1000人というのは度が過ぎていないか。まあ許せる範囲を安倍氏は超えたのだ。ホテルの前夜祭は度が過ぎていないか。調子に乗りすぎだろう。こういうことを許したら、終わりなのだと思う。政治の倫理という物が、成立しない。どうでもいいというならわかる。いちゃもんをつけるなという事ならわかる。

 しかし安倍氏は後援会優遇はやっていないと言う。名簿は廃棄したという。とんでもない。破棄するように決めてあるらしい。これがおかしいだろう。どこの会社でもこういうイベント名簿は財産である。国のやることは何か初めから、胡散臭いので名簿は残せないという事なのだろうか。汚い世界になってしまった。

 昔は紙だから要らないものは捨てたかもしれない。しかし、今はデーターに残せば場所はとらない。すべてを残すべきだ。そして、国会で必要な決議があれば、どれだけ前のことでも調べられるようにすべきだ。

 腐った権力者ほど、世の中を悪くすることはない。若いあたまの動きの良い人は偉くなってあべ氏のようになりたいと思うだろう。何をやっても許されるのだ。偉い人は忖度されていいと考えているのだろう。こういう社会が最低なのだ。権力者ほど謙虚に、若い人の見本になってもらいたいのだ。日本の社会ではそういう節度と品格が求められたのではないか。

 安倍氏が自分の選挙で負けるようなことがある訳がない。それなのに、後援会の人を優遇して、桜の会に1000人も招待する。これは選挙対策ではない。人間として恥ずべき驕りのサービス事業だ。自己顕示欲というか自慢だ。上に立つものは襟を正す。昭恵夫人まで推薦枠がある。こういう構造は嫌らしいだろう。そういう日本を私は無くしたい。

 総理大臣がそのくらいのことをして何が悪いという声がある。そうなんだと思う。日本はそんな国になってしまったのだ。戦後そういうお偉いさんはいなくなったと思った。氏素性で忖度されるような、身分制度は無くなったと思った。ところが、アベ政権になり、実に顕著にそういう嫌な社会が戻ってきた。

 その一例が桜を見る会に現れたに過ぎない。確かに忖度は違法でなない。ホテルが総理大臣を忖度して、次の公の行事で利用してもらう。言わずが花の持ちつ持たれつ関係。権力者ほど有利な社会が構築されたのだ。秘書官がホテルに、後援会の宴会なのでその点ご配慮お願いしますで、格安になったのだ。それは違法ではないが、後援会の宴会だから、通常価格でお願いしますが、本来の総理大臣の姿であってほしいだろう。

 総理大臣ご夫妻と並んで写真を撮り、会社に掲げる。その写真が何らかの効果を上げる。ジャパンライフ社は安倍氏の名前を利用して営業をしていた。悪徳会社は安倍氏からの招待状を悪用したのだ。桜の会の招待状をありがたがる世の中が気持ち悪い。

 しかし多くの国民がこの事態を拒否しない。この程度のことで騒ぐ方がおかしいという空気が立ち込めている。何故なのだ。ここが不思議なのだが、自分もいいように扱ってもらいたいという事だろうか。こういうピラミット構造が出来上がったのだろうか。多分私のような態度を僻みと受け取るのだろう。

 階級社会というものは実は下層階級が望んでそうなるのかもしれない。安倍氏ご夫妻と一緒に写真を撮ってもらえる自分を上の階級のように意識させられるのだろうか。国民に説明をしない自民党に投票することが、どうしても私には理解できない。

 書き出したら怒りが湧いてきて、同じことを繰り返している。申し訳ない。総理大臣の説明責任は一番重いはずだ。

 
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名古屋で木村忠太展

2019-12-13 04:01:46 | 水彩画
 

 名古屋で水彩人展があり出かけた。かなり良い展覧会が開けたと思った。自分の絵の絵を見て大いに反省が出来た。金沢の頃の友人と5人も会う事が出来た。とても懐かしかった。みんな偉くなってそして定年になり、まるで私とは違う立派な人生を送っているようだ。

 それでも私の絵を見に来てくれるのだから、絵を描いてきてよかっなぁーとも思った。もう友達ともそう何度も会えない。一期一会である。そんなつもりで話をした。暮れになると黒いはがきがたまる。

 今日もナンシー時代の友人の谷口さんの黒枠のはがきが来た。死んじゃったんだなぁーと。もう一度会いたかった。絵の話もあったんだけど。彼は仕事が忙しそうで、案内状などは出していたのだが、会えなかった。

 谷口さんは日本でマチスの彫刻展を企画した人だ。良い展覧会だった。マチスの絵よりマチスらしかった。マチス美術館から借りてきたものだ。フランスにいたころマチスの生まれ故郷の小さな町にある美術館に彫刻を見に行った。その話を谷口さんにしたことがあったので、開催のヒントになったのかもしれない。

 名古屋で木村忠太展を見に行った。三重美術館にある、忠太の代表作と言っていいものが、3点出ていた。前見た時より、忠太のことが分かるようになっていた。自分の絵を見る目が成長したとも思えないが、同じ70歳になって少し心境が分かったのか。

 木村忠太は若いころフランスに行き、そのままフランスで死んだ画家だ。もちろん私のフランスにいたころも同じパリにいた。忠太のことは知ってはいたが、会えるような機会もなかった。

 日本に戻ると、忠太が若い人の中で注目の的になった。国際形象展に出ていたのだと思う。この展覧会は抽象全盛期の中での、具象の巻き返しの様な展覧会で、半具象と呼ばれるような絵が多かった。たぶん画商が中心にやっていたのだろう。

 のちに教わるようになる春日部洋先生もここに出していた。この展覧会を一番の楽しみにしていた。この展覧会の絵に影響されたという事はあると思う。あの頃はこう言う大きな展覧会が大きなデパートで開催され、人も集まっていた。隔世の感がある。

 銀座の日動画廊で個展が良く開催されていた。学生の頃初めて見て驚いた。青山の裏の方にある画廊でも開催されていた。もう名前も忘れた。たからし画廊と言ったか。フランスで制作する木村忠太の様子をいろいろ話してくれた。

 日本で開催された展覧会は多分全部見ているだろう。追っかけである。それくらい興味があった。木村忠太の絵は終わっていないので、次の絵が見たくなるのだ。この人の次に描く絵はどんな絵なのだろうといつも期待が残った。

 この時期待したものは分からないうちに木村忠太は死んでしまった。その次に見たいと思っていた期待感。あれが同時代性というものなのかもしれない。生きている絵画だった。すべてが終わった。終わってそれをどう見るかがいまだにわからないできた。

 木村忠太の絵は輝いていた。精神の印象派だと言っていた。印象派は光に反応したが、西欧人の光りは科学分析的なものだ。東洋の光りは精神だ。その精神の光輝く姿を絵にするのだ。ということらしい。

 分かったような分からないような、ことだったが。私がフランスで学んだことと近いと思った。私は西洋の印象派の結論をマチスだと思っていた。色というものを自分の絵画空間に構成し直す。その理路整然とした、光の構成が西洋の知的光だと思った。

 一方にボナールの光りの輝きもあった。心の震えるような親密な光の美しさ。光というものがこれほど愛らしく、心に染みてくるものなのかと、ボナールの絵から教えられた。これならやれるような気持がした。

 マチス、ボナールの光りは、モネの光りの見方の結論のように感じた。モネは見るという事のままに、光に反応した。絵画における見えるままの意味を示した。知的に光を色に置き換えるマチス。暮らしの目線で光を親密化したボナール。

 そしてその先の仕事が、日本人にはあると思えた。その一つの事例が木村忠太ではないかと思っていた。インターナショナルであることは、徹底してナショナルである。その人の土台のようなものが、絵を作り出す。それが精神の印象派と言われた意味ではないか。

 今回久しぶりに木村忠太の絵を見て思ったことは、黒い線である。簡単に言えば誤解があるが、漫画の輪郭線である。線における説明で絵が作られてゆく。線は色ではない。光でもない。書のようなものだ。

 この線で絵を作り上げる方法は初期から最後まで変わらなかった。人であることを説明するには人という輪郭線で記号化する。自転車であったり、車であったりする。それは意味である。色面と線による意味づけを組み合わせて絵をつくる。

 当時、たからしさんの説明で、試行錯誤のすごさばかり刷り込まれたが、実はかなりあっさり描いている。それほどの試行錯誤はない。50年経った絵の具を見ると良く分かる。キャンバスの上にせいぜい3層までである。絵の具の保存が極めて良い。これもフランス的なメチエ。

 デッサンを徹底してやる。それは鉛筆画を見ればわかる。構成とか、光はえんぴつデッサンで結論が出されている。その結論が色彩に的確に置き換えられる。ここがすごいところだ。今になって風景をデッサンするという意味を教えられた。

 松濤美術館だったと思うのだが、死んだ後の集大成の様な木村忠太展を見てがっかりした。次の絵でやろうとしていることの結論があると思っていた。ところが結論を出さずに死んでしまったと思った。死ねばそこにある絵が結論だ。そう思うと物足りなかった。

 ところが今回久しぶりに見て、それは私の浅はかなところだ痛感した。見るべきことを見ていなかった。木村忠太の主張する精神を、高僧のような精神だと思ってしまっていた。つまり中川一政氏や須田剋太氏の精神のようなものだと。

 木村忠太の精神はごく普通の人の精神であった。崇高なものを求めているわけではない。フランスに渡り絵を描き続けた人の姿である。自分の等身大の精神である。そういう意味で日本の伝統的な絵画とも異なる。つい精神の印象派などという事で、間違ってみていた。

 どちらかと言えば、マチスやボナールの見方に近い。ただ線による意味づけが、日本の伝統から生み出されたのだと思う。線による説明が構成と入り混じる。書のように線で意味を表す伝統。これは西欧絵画だけの人には、上手く絵画として取り込みにくいのではないか。

 当時若い人の間では、木村忠太風ははやった。色面の上に線をひいて絵を作る人も多かった。私にはこれが出来なかった。この線の不自然さが耐えかねた。それは今でも変わらない。木村忠太のような、安易な線は描くことが難しい。

 こぶしのない線。表現しない線。勢いや方向のない線。と言ってしゃくし定規ではない線。これは凄いデッサンの訓練で生まれた線なのだろう。努力して努力して、何でもない線をひけるようになる。今頃分かった。

 上手くならない訓練の積み重ね。その意味では熊谷守一氏に近いのかもしれない。どうやって自分というものを消して、自分を通さないで、そのものが持つものを画面に再現するか。見えているものを見えているままに表すという事の意味。

 
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あしがら農の会「自給祭」

2019-12-12 04:51:05 | あしがら農の会
あしがら農の会の自給祭が開催されます。
12月14日11時ごろから昼食をはさんで行います。
会費400円、あしがら農の会に関心のある方であれば、どなたでも参加できます。
場所は曽我みのり館です。

一品持ち寄りで 自給祭!

日時:2019年12月14日(土)9:00~15:00
場所:曽我みのり館 ―小田原市上曽我―
http://shoku-midori.or.jp/umenosato_minorikan/minori_accsess.html

参加費:大人400円 子供無料
持ち物:飲み物、箸、食器(鍋物がありますので器も用意ください)など

【タイムスケジュール】 
 9:00   みのり館開館  準備開始
 10:30  受付開始
 11::00 総会
11:30  各会・グループの紹介(活動報告・計画等)
 12:00 自給祭開始  味わい 語らいの時間  
13:30~ パフォーマンス
 15:00~  自給祭終了 片付け

《催し内容》
【田んぼの会】
1 ご飯の食べ比べ:各田んぼ3合を用意しますのでお気に入りのご飯を探してみては?
2 餅搗き:餅搗き班(山北田んぼ)、餅米提供(山北田んぼ3キロ、欠ノ上田んぼ3キロ)、黒米提供(山ちゃん田んぼ3キロ)。皆さんもどうぞ餅搗きに参加して、からみ餅・きな粉餅・黒米餅をお楽しみください。
【お茶の会】 
緑茶の試飲や販売を行います。味わい深いお茶をお楽しみください。
【大豆の会】
1 会員自慢の手前味噌の味比べ。会員以外の方も是非お持ちください。
2 今年収穫した選りすぐりの大豆できな粉を作ります。どなたでも体験できます。
3 今年の大豆で湯河原にある十二庵さんに甘くておいしい豆腐を作っていただき販売します。 
【料理の会】
大鍋料理:ポンデケージョと湘南シフォンケーキのお店「グリット」のオーナーシェフ伊藤さんに渾身の鍋料理を作っていただきます。
【小麦の会】
栽培したハルユタカの小麦粉で、パンを作り販売します。

【パフォーマンス】
食後には下記の4組のパフォーマーがそれぞれの世界を奏でます。最後はみんなで輪になって踊りましょう!
1「ディジュリドゥ」を中心に世界の民族音楽と即興コラボ演奏の「小田原ディジュミー」
2 田んぼから産まれ、それぞれが自分を唄う事を大切にしている「でん田楽団」
3 海を見渡す丘の上から 何が見える?何が好き? シンガーソングライター「みちる」
4 ヨガで繋がる伊藤シェフと自然体スタジオロムディ・空の教え海の祈りの弘済寺で結成したバンド「GLK」

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タマネギ苗の植え付け

2019-12-12 04:36:09 | 自給

 タマネギ苗の植え付けを行った。舟原ため池の上にある2反の畑である。今年は16名の参加だそうだ。一人分が1,1m巾のベットで8mの長さである。私の植え方で、400本が植えつけられた。今年は渡部さん方式の高畝栽培である。

 理由は初めての畑で、数年前までは栗が植わっていた。もしかしたら、その前はみかん畑の時代もあるのかもしれない。いずれにしても耕土が浅く、一年目は畑としては、有機農法で行うのでかなり困難だと思われる。

 土壌診断の指導の際、畑の断面を見るように言われた。この時畝の下の方が、通路よりも深く柔らかく耕土があった。ベットの中で根が充分に活動できるという事が、玉ねぎにもいいのではないかと思った。この畑の断面を見ると、耕土は10センチ以下だと思われる。


小さなタマネギ苗、大丈夫だろうか。ともかく全部植えた。

 昨年のタマネギ栽培では、私の部分だけ植え付け後ひと月穴あきビニールを掛けた。これでタネバイを防ぐことができた。今年はどうなるかはわからないが、今年は全員分をビニールトンネルにする。これは舟原ため池の畑が寒い場所という事もある。植え付け1か月寒さや風にさらされると、弱ってしまう事がある。

 タマネギは寒さに弱いようだ。特に12月入っての植え付けでは活着するまでに弱ってしまう。これを防ぐためにも根付くまでは保温風よけは大切だと思う。タネバイに関してはまだ未知数である。12月になってしまったのは苗の成長が遅かったことがある。これは小田原周辺でタマネギ苗を作る人の多くがそうであった。天候が良くなかった。

 苗は自分たちで作ったものを16人で分けたのだが、一人250本である。根切り虫にやられて、だいぶ数が減った。加えて今年の久野の天候はタマネギには最悪の展開で、どこでも生育が遅れたらしい。いつも苗を分けてくれる方が、今年は無理そうだという。


 こんな感じでそれぞれに高いベットを作った。ベットを作る前にそばかすを撒いて、トラックターで耕してある。それでもそれほど深いものではないから、通路になる所を掘り下げて、ベットを作った。これで耕土が20センチくらいにはなっただろう。

 私は鶏糞を一袋撒いた。鶏糞は家の鶏小屋から持ち出した古いものである。これをベットを積み上げる際に良く土と混ぜた。玉ねぎはそれなりに肥料がいる。新しい畑では良く育たないと思われる。冬の作物は肥料が不足すると生育が悪くなる。肥料の吸収が冬は悪い。


 400本植え付けて、365個のタマネギが目標である。ただ苗が小さいので、どれだけ育つかは未知数である。苗を探したのだが、12月7日ではもう売っていない。売っているところをやっと見つけたのだが、枯れかかった湘南レッドの悪い苗だった。

 他にあるのかどうかも分からないので、ダメでもともとと思い、買う事にした。50本100円でいいという事だった。150本購入した。これで数だけは400本になった。半分育てばいいかなというところである。

 タマネギ部会はあしがら農の会の念願の活動だった。根守さんが苗作りを指導してくれた。250本づつ配布できたという事は一歩前進である。専業農家でもうまく行かなかった天候の中、かなりの成果である。根守さんは自分では1500本植えたそうだ。根守さんの技術の向上は目覚ましいものがある。


 農の会には畑の会があり、その中で、小麦部会、タマネギ部会、ジャガイモ部会がある。保存できる作物をみんなで作ろうという事である。自給の為には共同でやる合理性を見つけて行こうという事である。

 一番は技術的な成果があったという事だろう。例えば、栽培に関してはそれぞれである。私の場合は養鶏をやっていて、今も鳥がいるので、発酵が進んだ養鶏場の床を入れる。米ぬかだけでやる人もいる。畝を高くしない人もいる。様々やってよくできた人のやり方が、次回の参考にされている。

 黒マルチを使う人もいるのだが、私も使ったことはあったのだが、どうも間から出てくる草が抜きずらくて、草を取ると玉ねぎ自体の根回りを壊してしまい、どうも球が太らない。それ以来使ったことがない。

 結局はタマネギは草が嫌いだ。今年、タマネギの間にライ麦を播いた人がいた。私の予想ではタマネギの生育を阻害するのではないかと思う。玉ねぎはタマネギ以外の植物が嫌いな気がする。大胆な試みである。



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神奈川県情報流出事件

2019-12-11 04:57:36 | Peace Cafe


 やっぱりである。情報というものはまとめれば、必ず流出する。私も元神奈川県民として当事者である。一年前までは神奈川県民であったのだ。こういう情報流出社会になっていると考えるほかない。インターネット社会は情報流出社会と考えた方がいい。

 情報管理は完全に行うなどと口では言っても、まったくあまいしり抜けである。官公庁の情報は自分で破壊していると思っていた。ハードディスクは取り出して、物理的に壊せばいいだろう。難しいことではない。防衛省までもが外部委託していたらしい。安易なものだ。情報管理など真剣にはやられていない。

 神奈川県は情報を廃棄するために、外部の企業に委託をしていた。そこの社員に泥棒がいた。その泥棒が3904個のハードディスクやスマートフォンなどメモリー機能のある機器類を転売していたのだ。インターネットで販売していた。買った人がそのまま使っていたら、あるいは悪い奴であれば、たぶん分からなかっただろう。もちろん他にもこういうことは当たり前にある。

  どうも神奈川県だけではないようだ。情報破棄を外部委託していること自体がおかしいだろう。防衛省までもがこの管理の適当な会社に委託していたようだ。まったく軍事機密の情報管理ができないことになっている。

 いったいこの情報破棄会社はどういう流出防止対策をしていたのだろうか。まったくずさんである。デスクの格納部屋に監視カメラはなかったのか。破壊は一人でやっていたのか。簡単に持ち出せるような状態であったとしたら、会社として基本がおかしい。3年間も持ち出しが見つからなかった。しかも外部指摘があるまで、わからなかったのだ。このようなずさんさはこの会社だけではないはずである。

 ディスクを購入するような人は相当にコンピューターに詳しい人だろう。情報の再生方法を知っている人がいるだろう。情報再生ソフトというのがあって、簡単に再生できるらしい。中古のディスクである。使う前に一応再生してみる人も多いのではないだろうか。

 貴重な情報があるかもしれないと思って買う人だっているのかもしれない。一度しめしめと、またこの人の出品物を買っていた人だっていたかもしれない。中古ディスクを大量に転売しているのだ。多分かなり大きな情報を保存できるタイプのHDなのだろう。情報廃棄業者の可能性もある。そうであれば、すごいお金になるデーターが埋もれている可能性がある。詐欺師グループがやっている可能性だってあるし、某国のスパイという可能性もある。

 神奈川県のデーターの場合売られた半分のディスクが見つからない。見つからないという事はどこかへ転売されている可能性もある。すくなくともそれを購入した人は今頃、再生ソフトで解読しているかもしれない。高く買ってくれる人を探している可能性もないとは言えない。

 神奈川知事が謝罪していたが、これは謝罪というような範囲のことではない。社会の在り様にかかわる重大問題である。情報化社会の深刻な問題点である。溜められた情報が社会を食い破る時代が来るかもしれない。情報は管理できないのであれば、集めることを禁止するほかない。非合理ではあるが、流出するよりはましだ。

 今は犯罪捜査に一番有効なものが、街のあちこちにある監視カメラである。操作だけではなく、犯罪監視機能であるすべての人が監視されているのだが、犯罪抑止力にも確かになっている。GPS機能がビックデーターになり人の移動は把握されている。私のようにフィットビットを使うものも把握されている。

 しかもその情報は集めようとすれば幾らでも集められる。監視カメラだけではない。人の移動や購入履歴など、すべてが集めようとすれば集められる。これを権力が目的をもって管理に使う事は簡単だし、すでにそういう事が、権力者には法律で許されるようになってしまった。

 情報のある権力者と、情報のない管理下に置かれた人間では立ち位置が違う。情報差別時代である。ビックデーターは必ず集まる。今後10年したらかなり深刻な問題が起こるだろう。情報差が作り出す階層社会。経済差よりも深刻になるかもしれない。

 そういえばコンピュター無料買取の宣伝を見る。こういうところでHDを取り出して転売しているということもあるのだろう。なかには情報を盗み出すための無料買取だってあるかもしれない。やはり自分でハンマーでうちこわすほかない。ひどいことになっている。うかつに廃棄もできない。まあ私の場合は持ち出されて困るような大切な情報などないが。

 物理的に壊せばいいという事のようだ。当事者がハンマーで砕けばいいのではないだろうか。HDをあるいは燃やしてしまう。ともかく情報は怖い。しかし情報は必ず流出する。県知事は流出ではないとごまかしていたが、まさにこの事件こそが流出の典型的事例だ。

 政府は納税者番号の利用を普及しようと、マイナンバーポイントを付けるという。それならマイナンバーカードをつくろうと考える人は多いだろう。これだって流出の可能性がないとは言えない。神奈川県が責任をとれないのと同様で、泥棒のせいで想定外だったといって済まされたらたまらない。

 隠し事など出来ない社会である。アベ政権の大嫌いな私が自由にしていられるのは政府の許容範囲だからだ。むしろ反対意見も自由に言えますよという見本の範囲だ。許されないところまで行けば、いつでも見えない圧力が加わる。不都合な真実が公表される。情報は作られる。

 こうなると自己防衛しかないと考えている。ここには書きたいことを書く。ブログがおかしくなれば、なにかあった時だ。ブログの書き換えぐらい簡単に行えるのだろう。私は3つの形で内容を保存している。3つとも書き換えることはできないはずだ。

 まあ私のような小者はどうでもいいのだろうが、用心だけはしている。顔写真も住所もメールアドレスも公開している。その上で意見は主張している。どうせ把握されるものである以上、公開していた方が自分にはわかりやすい。そのつもりでやっていける。

 隠せていると思っていて、把握され悪用される方が怖い。瞳に映る映像から場所が特定されたとか。Vサインの指から指紋認証が悪用されたとか。情報は必ず漏れるのだ。

 

 
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カジノ賭博場にまつわる醜悪さ

2019-12-10 04:28:03 | 暮らし


 横浜でカジノ賭博場の説明会があり、紛糾したと報道されている。横浜市の行政のやり方は一方的に説明をしたに過ぎない。反対意見に対しては回答はなかった。こんな説明会は聞いたこともない。醜悪なものの説明などできない。

 行政は反対があると予想される事業において、住民の反対意見を聞く場を設けるべきだ。住民は当事者である。抗議に足して対応をする義務がある。それが民主主義社会の当たり前だ。横浜市のやり方はいかにも説明会をしたというスケジュールをこなしているに過ぎない。

 ここには人間がいない。住民にはその場での人間の暮らしというものがある。その場で生きている人間に対して、行政として説明するという事は当たり前のことだ。ただこういうものを作ります。作り方などの質問についてはさらに回答をします。これでおわりです。血の通った行政と言えない。守銭奴になったのだろう。

 説明を求めた意見ではないので、回答は致しません。何というひどい答え方だ。こんなものを説明会とするとは全く驚いた。こうして悪い説明会の前例を作ったという事だ。これからの行政は住民に反対のある説明会では、この手で取り組む事になるだろう。それならば、住民は説明会をボイコットするほか道がない。結局のところ、賛成派の建設会社などが動員する住民の賛成意見だけの説明会で終わることになる。

 賭博場を拝金主義で作りたいという人間の考えそうな汚いやり方だ。こんなひどい市長を選んだ横浜市民も悪い。と思えば、実はそうでもない選挙時の理由がある。やり方が実に姑息だ。選挙の時は態度を保留していたのだ。カジノを進めることが正しいことだと考えているのであれば、堂々と賭博場を誘致すると表明すべきだった。こういう人間は、お金に魂を売った人間というのだろう。何とも気持ちが悪い。

 二枚舌でごまかしても、言い訳はできない。態度保留と言いながら、選挙が終われば推進する気でいたのだ。つい一年前にこれほど重大なことの判断もできない人間であれば、明らかに市長失格である。

 問答無用で賭博場を作ろうという姑息なやり口だけなのだ。形式的な説明会など開く必要はない。賭博場開設の是非の住民投票すべき案件である。ただでさえ、日本はパチンコ屋という賭博蔓延国である。世の中一定豊かになったのだから、もう賭博場で税金を稼ぐ必要はない。どうやって賭博場を減らしてゆくかが日本の課題である。こんな常識が通用しない日本になったのかと思うと情けない。

 カジノ賭博場を作るなど、金儲けだけを目的にした、ゆがんだ国の行いである。日本はパチンコ屋という賭博場が住宅地にまで蔓延している。公営ギャンブルもすでにいたるところに存在する。国は経済をこれ以上ギャンブルに依存させてはならない。

 不健全な経済は負の結果を生み、日本の未来を腐らせてゆく。あぶく銭を国が奨励するなど、とんでもないことである。誇りを失った日本の未来が見えるてくるようで不愉快極まりない。不健全な外国資本の流入など、何がありがたいのか。アベ政権の作り出す日本の未来像に失望する。それを支持する日本人にも失望する。

 アベ政権のカジノ誘致はトランプの依頼にこたえた形という事が言われる。もし、そうだとすれば属国として致し方ないという事なのだろうか。カジノと米軍基地と較べてどうだろうか。悪いものとさらに悪いものは、較べようもないか。

 日本のような小さく、資源の少ない。災害の多い国が発展するためには人間である。人間教育である。そういう国柄でありながら、一発千金を賭博に求めるような、非生産的な人間を行政が推進するようでは、人間は育たない。人間が育つためには地道な努力しかないのだ。カジノ賭博を奨励したアベ政権は日本では初めての政府だ。最悪の政府、それを選択した最悪の国民として、未来に記憶されることだろう。恥ずかしい。

 教室の現場だけきれいごとを言っても、大人の本音は拝金主義だ、お金の為なら何でもしていいのだと子供たちは見抜くことだろう。こういう傾向は日本の社会に蔓延している。金儲けの何が悪いと居直る金持ちが増長している。金儲けを人生の目的にするのは悪いことなのだ。まして、賭博で金儲けしようなど最低のことだ。

 ギャンブルのような憂さ晴らしで大切な人生を台無しにしてはならない。苦しくとも地道に未来を追い求める。生きる目標があれば、賭博に依存すること等起こらない。一人一人が自分の生き方を見つけることが出来れば、賭博場に行く暇などなくなる。

 今日一日の大切さを知れば、いま何をすべきかは見えてくるはずだ。自分の命の本当の希望を見つけることだ。自分らしい生き方が見つかれば、賭博に費やす暇などないはずである。ギャンブルを推奨するのは、嫌な仕事を我慢してやらされることの憂さ晴らしだ。

 横浜で港未来地区にギャンブル場を設置するという。赤レンガ倉庫のそばなのだろう。10年後の横浜の恥の施設になること間違いなしだ。横浜は暮らしたい街上位である。今後賭博愛好家の街と呼ばしてもらう。横浜という、憧れの街に賭博場を作ろうとする。何という破廉恥な市長であろうか。

 小田原には競輪場という負の遺産がある。文教施設に隣接している。お城に隣接している。それが、税収があるからやめられないという小田原市の現状。これは小田原の哀れである。恥である。戦後の食べるものにすら困る時代ならともかく、この時代には見苦しいだけのものになっている。あの見苦しさが分からないようなら、市長はやめるべきだ。

 賭博場は始めてしまえば、簡単にはやめられない事になるのだ。背に腹は代えられないという事になる。しかし、小田原が競輪場で失っているものを考えるべきだ。何といっても競輪場で賭け事で夢中になるみすぼらしさである。賭け事は悪事である。悪所である。

 市民の誇りに日々傷を付けている。そのそばで暮らす情けなさを考えるべきだ。地価を下落させている。あんなものがなければ、高級住宅地である場所だ。住宅地の地価評価が下がっている。立派な住宅地になればそこからの税収の方が高くなる。

 ギャンブル場の立候補地は長崎を除いて、大都会だけだ。大都市というものの欲望の醜さが見えてくる。北海道は設置しようと考えてはいたが、取りやめたという。地方社会の方が健全という事である。金の亡者が都市に集まる。長崎は平和の街ではなかったのか。

 都市を捨てて、田舎に行こう。田舎でまともな暮らしをしよう。その方がはるかに金儲けよりも楽しいじゃないか。賭博場から遠いい田舎なら人間らしく暮らせるだろう。都市に拝金主義者は集中しているようだ。金儲けの何が悪いという人は田舎には居なくなる。

 横浜市の行政は金になれば何でもやろうという連中である。こうして金儲けだけを価値とする日本国は倫理を捨てようとしている。日本の未来を暗くしている。横浜の小学校の倫理の時間では、金儲けは素晴らしい、人生で最優先すべきものだとでも教えているのだろうか。

 この拝金主義は資本主義経済の最も憎むべき点だ。お金では人間の目標は買えない。お金では日本の沈没は止められない。日本は瑞穂の国である。食糧を作るという原点からやり直せばいいのだ。ああ腹が立つ。腹が立ちすぎて文章がおかしくなってしまった。

 
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米中経済戦争の本質を考える

2019-12-09 04:03:31 | Peace Cafe


 アメリカと中国は世界を圧倒する立場を争っている。それは覇権とか言われれるが、拝金主義的利益なのだろう。以前のアメリカは世界の警察として、アメリカの正義を旗印に、世界の紛争に介入した。それはいかにもアメリカの正義であったのだが、アメリカの利益を忘れるものではなかった。いつでもアメリカの利益の戦争ともいえた。

 中国は圧倒的な領土と人口をもって驚異的な経済成長を遂げた。その力でアメリカの独占になった世界に挑戦をし、中国経済の影響下に世界を置こうとしている。中国経済の頭打ちを願っていたアメリカや日本の思惑をこえて、中国はアメリカが軍事力的にも油断できない相手になることになった。

 白人社会としてはアジアの国の脅威として、産業革命以降初めての体験であり、相当に慌てふためいているのだろう。中国がアメリカを中心にした資本主義経済圏の経済的圧力にかかわらず、アメリカに勝利する可能性もないとは言えなくなっている。

 安倍政権は圧倒的な自民党内での力によって、反対を押し切り中国習近平への接近を試みている。これはアメリカの虎の尾を踏む可能性も出てきている。日米安保の片務的負担がトランプの口から再度出てきたのは、大統領選挙向けだけではない。韓国への圧力で見られるように、背景にはかなり深刻な属国への圧力が生じているはずだ。

 米中の対立は、世界史的に見ると新自由主義経済におけるポピュリズムの台頭から右傾化という方向と、ロシヤや中国の社会主義国家を標榜する国家資本主義との対立ともいえる。資本主義社会は階級社会を明確化し始めている。その結果と思えるポピュリズムというものを生み出している。

 ポピュリズムはよくわからないのだが、自己中心主義と言えばいいのだろう。自分の利益や考え方以外は理解できない人が登場している。了見が狭いという事なのだろう。了見が狭くなる原因は余裕がないという事から来ている。自分と対立するものをくみ取ろうというところがない。

 ポピュリズムというものの動きは、世論操作社会を伴って現れている。理解しがたい利益誘導の選挙で選ばれた政権が独裁化してゆく流れになる。オバマとトランプの違いである。オバマの正義と理想主義が、トランプの即物的な利益主義に圧倒されてゆく姿である。壁を作る社会が到来している。

 一方自由を制限した中で、高度成長を終わろうとする中国で、香港問題が中国本土に波及しないかである。経済に敏感な中国の人々は国家が自分に利益をもたらしてくれる間は、人権というような他のことは我慢しているだけなのだと思う。

 中国の選挙は形だけの、香港総統選挙に見られるような制限付き選挙であったのだが、油断したのか区会議員選挙が、ほころびの自由選挙となって地崩れ的に反政府の票が表に出た。経済的限界にある、香港の圧政に対する反発である。このままでは香港の経済は危ういのだろう。

 自由主義経済圏に現れている、自分の目先の利益に動かされてしまう選挙。未来社会の理想に向うというより自分の利益だけが優先される選挙。日本社会で言えば、今人手不足だから、安い外国人労働者を受け入れようとか。お金になるなら、カジノを誘致しようという姿である。

 いずれにしても、中国でもアメリカでも、そして日本でも社会が理念や理想を失い、拝金主義にまみれてゆく。これが資本主義末期の姿なのだろう。

 国家資本主義という個人の人権を制限し統制をする中で、ある意味思想弾圧の中で、資本主義を勝ち抜こうとする中国の登場。もしこのまま行けば、アメリカとヨーロッパを併せたよりも人口の多い、しかも労賃の安い中国の世界制覇に向かう可能性がある。国家の統制をもって経済競争に立ち向かえば、アメリカですら破れる可能性があるという事だろう。

 いずれにしても、米中の争いは拝金主義と国家主義の入り混じった争いである。世界はこうして理想を失い、間違った方向に進んでいる。この間違いの先にあるのは、世界の破たん以外にない。この間違いは人間の醜さが露骨に現れた方向に進んでいるという事なのだろう。残念ながら理想を失いつつある世界である。

 アベ政権は来年4月の習近平氏を国賓として招待する。習近平中国への接近は何を意味するのだろうか。中国を仮想敵国とする日本が、何故中国に接近するのだろうか。交流は良い方向で歓迎はする。中国への接近が産むだろうアメリカの本音はどう表れるか。

 米中の経済戦争に見られるように、世界中が一国経済主義をあらわにしている。世界は温暖化に対しても何も具体策を打ち出すことはできない。世界の半分以上のCO2排出国の米中が具体策を出せない。当然日本も循環型社会ヘ以降は遠のいている。

  そう考えて諦めてはならない。諦めれば終わりである。迂回である。遠回りするほかない。そう考えた方が良さ棹うな状況である。世界は今よりも悪くなる。もちろん様々に良くなっていることもあるのだが、拝金主義と格差は確実に広がる。その中で遠回りする道を模索するほかない。

 世界は悪い方に進む。それを嘆いていたも始まらない。こうした悪い社会へ進む中で、自分の暮らしをどう立ち上げるか。このことを考えるほかない。自分という、ささやかな存在ではあるが、かけがいのないもの。自分自身の暮らしを変えるという事から以外にはないのだろう。

 拝金主義からの離脱である。金儲けに人生を費やすのは無駄だという事だ。日々の充実の中で生きる。それは自分の為だけでなく、他人の為にもなる生き方だと思う。自給自足の原点に立ち戻ることも一つの選択だ。それに貢献する生き方をしたいと思う。

 自給自足の原点に立ち戻れば、人間は競争などしなくとも生きて行ける。一人100坪の土地で、1時間働けば食糧自給は出来る。私の30年行った自給生活の結果である。トランプさんよりも、安倍晋三さんよりも幸せに生きているという確信である。自分の食べるものを自分の手で作り出すという安心である。

 人間は心が貧しくなると、競争を始める。人のために生きるという事だと思っている。理解し合える仲間を見つけなければならない。これには時間がかかるが、かならずどこかにいる。一人が始めなければなにも始まらない。
 
 アメリカや中国の様な大国が自らの利益だけを考えたならばどうなるのか。世界は間違いなく破綻することになる。今は自分の利益追求で済んでいるが、必ず、自らの破たんへの道になる。大国であればあるほど、世界全体のことを考えなければならないのは当然のことである。これが出来ないのであれば、大国に対する憎悪が増すことだろう。それでは世界はさらに不幸な時代に突入する。
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水彩人名古屋展開催

2019-12-08 06:38:09 | 水彩画

水彩人名古屋展が始まります。
東京都美術館で行われた、水彩人展の巡回展です。
名古屋「電気文化会館」 西ギャラリー
2019年12月10日から15日
10時から17時
入場無料
ギャラリートーク12月10日11時より



笹村は10日と11日の3時まで会場におります。

作品を並べたら、私にとって水彩人がとても大切だということが実感されました。
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香港が中国を変えるかもしれない。

2019-12-08 04:33:53 | Peace Cafe


香港政府が、4月に、容疑者を中国に引き渡すことを可能にする逃亡犯条例改正案を立法会に提案し、これに抗議する市民が街頭に出たのが6月である。デモに参加する人々の数は増えていき、6月16日には200万人にも達した。民主派は、①条例改正案の撤回に加え、②デモの「暴動」認定の取り消し、③警察の暴力に対する独立調査委員会の設置、④抗議活動で拘束された者の釈放、⑤行政長官選挙の民主化の5項目要求を掲げている。
 その後もデモは続き、遂に9月4日、林鄭月娥行政長官は条例改正案を正式に撤回した。しかし、民主化を求める市民の抗議活動は続いていった。10月5日には、「覆面禁止規則」が施行され、それがまたデモを過激化させるという悪循環になり、11月8日には、現場で負傷した男子大学生が死亡した。その3日後の11日には、警官の発砲で男子学生が重態になり、抗議活動が毎日続くようになり、17日には香港理工大学を学生が占拠して警官隊と攻防を繰り返す事態に発展した。

 香港の選挙で反中国政府の議員が9割近くを占めるという事になった。香港の混乱はますます、深刻化している。アメリカが香港市民を支持する法律を作った。日本政府は中国に接近しようとしている時でもあり発言すらできないでいる。

 香港市民は、中国政府の主権を奪うやり方に対して、強い抵抗をしている。中国政府はこれ以上武力弾圧が出来なくなり行き詰まっている。香港は中国経済の大きな窓口である。閉じることは中国経済に打撃でもある。

 香港の人々の勇気をたたえたい。命の危険も顧みず、権利を求めて戦っている。学生の中に身体を張って自由を求める情熱がある。素晴らしいことだと思う。日本の若い人の中にもこういう、差別と闘うエネルギーはあるのだろうか。

 この機会に中国が変わる必要がある。自由解放に対して中国政府は不安を持っている。国民を信用していない。自立心の強い自国民から制御の枠を外せば、国家としての方向性が失われる。国家が成り立たないと考えているのだろう。

 しかし、中国の経済成長も止まろうとしている。その時には今存在する格差が深刻化する。いずれ、中国国内でも自由を求める声は起こるはずだ。今香港で起きていることは、中国本国でも必ず起こることである。

 中国は好きな国である。順序などないのだが台湾の次に好きな国である。中国の生み出した思想や絵画から多くのことを学んだ。そして禅宗の僧侶という形で、インドよりも中国の宗教の影響も深く受けたのだと思う。老荘思想には生き方の影響をかなり受けたと思う。

 内藤湖南の著作を通して、中国というものを学んできた。読み返してみている。だから、ずいぶん古い見方なのかもしれないが、とても内容が深く書かれていると思う。中国絵画史など、これ以上のものをその後書いた人はいるのだろうかと思う。

 西欧の美術を学びながらも、中国の絵画といつも比較をしている。西欧の芸術に精神性の部分で違和感を感じてきた。良く分からないまま、中国画の画面の背景に求められる精神世界に憧れがあったのだと思う。その点今の中国画の衰退は無残なものだ。日本の絵画もどうにもならないのだが、中国画の落差は凄いものがある。

 高校生の頃には伝統的な中国世界にあこがれる状態だった。中国が再生するためには、毛沢東の極端な考え方も止む得ないのではないかと考えていた。そしてあの頃予想した通り、問題を抱えながらも、50年の間に先進国に追いついた。

 この急速な国の変化で、様々な問題が生じている。特に中国国内の思想弾圧や人権侵害については、限度を超えている。然しそのやり方で統一した力で、経済発展をしたともいえる。今やアメリカが怖れるような大国の再生がなされたのだと思う。

 追いつけ追い越せでの相当の無理があった。しかし、眠れる獅子がついに起きたという事だろう。上手くこの無理をしてきて生じた、矛盾を克服できるかが、中国の今後の課題だ。香港問題に象徴される自由と人権だ。

 中国経済は沈没するだろうと盛んに主張した日本の中国評論家の幼稚さにはあきれていた。中国はそんなにやわな国ではない。中国は日本より複雑で、重層的である。簡単なことではつぶれるような構造ではない。人間も極めて優秀な人がいる。その一部の有能な人材を集めて国の運営を行っている。

 中国には3回行った。絵の交流団としてと、自然養鶏の指導という形である。絵画文化の衰退には驚いたが、中国人の有能さには驚かされるところが多々あった。自然養鶏など、指導しに行った私が恥ずかしかった。それでも少しでも学ぼうとしてくれる真摯な姿を見た。日本は遠からずおいてゆかれることだろうと実感した。

 その通りの経過である。しかし、日本の高度成長のさらなる倍速の様な目まぐるしい経済成長の背景には、凄まじい人権侵害や、民族弾圧があった。成長過程での無理とはいえ、度が過ぎるとは思えたが、中国政府がイスラム勢力のテロに必要以上に神経質になるのは、ロシアでも同じことである。もちろん中東でも、東南アジアでもそうである。

 黒だろうが、白だろうが、ネズミを捕る猫が良い猫である。歴史の過程では大きな犠牲を出さないためには、小さな犠牲は止む得ないという中国の考え方なのだろう。日本のような安定した社会ではありえないことだが、中国ほど、混乱し一度衰退した国が一気に先進国になるために行われた様々な無理である。

 そして、経済的な結果を具体的に出した。それが中国の歴代の政府である。だから様々な問題を抱えながらも、経済成長、生活水準の向上。こういう現実の恩恵を享受する中国人は強権横暴な中国政府を受け入れてきたのだろう。

 高度成長期はすでに終わろうとしている。人口も一人っ子政策どころではない、深刻な少子化状態が起きている。一気に人口減少が始まり老齢化するだろう。環境問題でも日本の高度成長期と同じで、でたらめがどこで収まるかである。

 香港で火の手が上がった。第一の焔が天安門事件であるとすれば、第二の焔が香港の民主化闘争である。問題は第三の焔が中国本土で燃え上がるかどうかである。中国政府が香港問題に対してどのような対応策を示せるかであろう。

 中国政府の賢明な対応を願うばかりである。再度天安門事件が起こるようでは、中国は深刻な問題を先送りすることになる。必ず大きな崩壊が待っているだろう。経済成長が無くなる以上、格差への不満は収まり切れなくなるだろう。

 中国の国内事情を考えると習近平政権は対応を出来ないでいるのかもしれない。アメリカとの経済戦争の最中である。香港は中国経済にとって、窓口である。香港ルートが絶たれることになれば、中国経済は打撃程度では済まない事になる。

 経済成長が、習近平政権の支持の基盤である。様々な問題点も経済成長があるから、仕方がないと国民から受け止められてきた。中国人は経済には敏感な人たちだ。これが、香港問題によって世界からの経済圧力が強化されれば、アメリカとの経済戦争は一方的な敗北になるだろう。

 日本はアメリカとの経済戦争のさなか、中国と接近しようとしている。ロシアに対してもアメリカが経済封鎖しているさなか、北方領土問題を持ち出した。どうも安倍政権の外交戦略は同盟国と言いながら、アメリカへの裏切り行為を行うようにも見える。何が強固な日米同盟なのかと思う。

 アベ政権は極めて打算的に動いている。それは、トランプもそうであるし、外交戦略としては普通のことなのかもしれない。韓国が中国との関係を強化しようとして失敗した。韓国の米軍基地の問題が中国には棘になった。結局は韓国はアメリカに従わされた形だ。

 日本がどうなるかであるが。韓国が一歩先に動いて、結果を見せてくれる。教訓にしなければならない。トランプアメリカも日本がこれ以上中国に接近することを阻止しするだろう。しかし、韓国ほど簡単には抑え込めない日本に対して、何を仕掛けてくるかだ。結局は中国との関係改善邪魔されるのではないか。

 日米安保条約の片務的な関係を持ち出すだろう。ここが日本の正念場になる。日本はアメリカとの関係を弱める選択をすべきだ。慌てることはない。徐々にアメリカへの依存を減らすことだ。中国との関係は切らないことだろう。軍事的な意味合いよりも、経済である。

 現代の戦争は米中経済戦争に見られるように、経済の戦争である。よほどのことがない限り、直接的な軍事力による攻撃はない。軍事力を使う事への世界からの批判的圧力は高まっている。アメリカはイランへの軍事介入は出来なかった。

 中国が香港に軍事介入が出来ないのも、それに伴い生じるだろう、世界からの経済的な圧力である。この状況において、日本は習近平氏を国賓で迎えようとしている。良いことだと思う。この機会に中国がより自由に開けた国になるように、アベ政権から進言してもらいたい。

 そのためには日本は中国を仮想敵国とする、防衛体制を止めることを習近平氏に伝えることである。沖縄の辺野古米軍基地を止めることを伝えればいい。当然琉球弧の自衛隊配備もやめることである。そうして尖閣列島の棘を平和な形で話し合い解決を目指すことだ。

 来日した王 毅外相にそういう方針を安倍政権は伝えなければならなかったが、きちっとできたのだろうか。それが香港への軍維持介入抑止にも影響があるはずだ。


 
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ペシャワールの会の中村医師が殺された。

2019-12-07 04:56:18 | Peace Cafe



 「ペシャワール会」現地代表、中村哲医師(73)が銃撃されて死亡するテロ事件が起きてしまった。最も尊敬していた方だ。あってはならないことが起きてしまった。中村氏を狙ってのテロ攻撃らしい。衝撃的事件だ。これほどの平和主義者を殺さなければならない理由がどこにあるというのだ。

 イスラムのテロ組織はでたらめな暴徒に過ぎない。全く愚かである。こんなことをして、自己正当化できることがあるのだろうか。中村氏は食糧危機に対して、灌漑設備を作る活動をしてきた。医療支援でアフガニスタンに行き、医療の前に食糧が作れなければと水路を引くことを始めたひとだ。

都市化によるアジア的伝統社会の崩壊、欧米型国家モデルの矛盾、貧富の拡大、地球温暖化による砂漠化、イスラム世界の再編、そしてこれらによる膨大な人々の犠牲である。実にアフガンにおいて、10年後の混乱、アフガン空爆、イラク侵略など「対テロ戦争」という名の国際社会の暴力化は、あらわな形で先取りされていた。それまでの戦は意味を失い、信ずべき「正義」は死んだ。---中村哲

 ペシャワールの会の講演会を聞いたことがあった。ペシャワールの会は中村氏の活動を支えるためにできた組織だ。小田原の久野でも後援会があった。農文協の地域担当の方はペシャワールの会で活動をされていた方だ。

 尊い尊い無償の行為である。金儲けの何が悪いなどと居直っている人間は、中村さんの命に対する奉仕の心から学んでもらいたいものだ。中村氏は殺されたが、やり尽くされたと思う。ご冥福を心よりお祈りする。この行為をアフガニスタンの人が、引き継いでくれることを願うばかりだ。

 ペシャワールの会のホームページに「自給自足の農村回復」を掲げ、マルワリード用水路最終地点のガンベリ試験農場にて穀類、野菜、果樹の栽培や畜産などを行っている。と出ている。パキスタンのペシャワールに拠点を置き、アフガニスタンに出かけて、活動を行う形である。

 中村氏は継続の段階に入っていた。72歳である。どうやって現地での活動が継続されて、成果を生み出せるかを模索していた。現地の人の技術的訓練などを日本で行っていた。日本政府はペシャワールの会の活動を見ているだけだった。

 日本でも同じことが起きていると、私は考えてきた。そしてあしがら農の会を続けてきた。農業を失う国は亡びる。アフガニスタンは長い戦争で、農業環境が失われた。気候変動もあるのだろうが、かつて農村地帯であった場所が、砂漠化してしまったのだ。農業を続けることで、農地が回復し、維持されてゆく形の農業がある。

 中村さんの遺志を受け継ぐことは、世界の何処にいても出来るのだと思う。食糧を自給するという事の大切さである。平和の礎となる農業。確かに今の日本は食糧がないというようなことはない。しかし、農業は失われ始めている。農地は失われ始めている。

 日本の農地はは産業の変化で失われようとしている。日本でも「自給自足の農村回復」をしなければならないと考えてきた。産業として農業が不可能になっているのであれば、産業ではない農業を作り出さなければならない。

 お金以外の価値を認めない社会である以上、お金に関係のないところでの農地の維持を考えなければならない。そう考えて、あしがら農の会を始めた。それは中村さんに比べれば、実に生温いような活動ではある。

 しかし、この生温いかまゆで状態もなかなか手ごわい。静かな見えない崩壊がじわじわと進む。一年経つと着実に農地は減少する。いつの間にか、農地どころか集落そのものが消えてゆく社会になった。都市に人間が集中してゆく。食糧生産から、人間の暮らしが遠のいてゆく。これは人間というものが弱体化する原因になっている。

 食糧生産から離れた人間。身体を使う事から距離を置く人間。肉体労働のできなくなる人間。自然から離れて人間は存在しない。人間らしい感性を失う人間。緑の植物を見て嘔吐をもよおす人間。足元を失う人間。何が大切なものかを見失う人間。

 殺されてしまった中村医師のことを再び考える。この絶望感は何をやっても無駄なのかとさえ思えてくる。何故、イスラムのテロ組織に中村氏の心が伝わらなかったのか。すべてに空しくなる。あの暖かな心を何故理解できない人間がいるのだ。

 タリバンがバーミヤンの石仏群を破壊したときに、このテロ組織は許しがたいものだと思った。最悪の暴力集団だと思えた。人間の心を持たない、狂気の集団化している。玄奘が仏法の教えを求めて訊ねた聖地バーミヤンである。今度は聖人中村氏の殺害である。こうした人間の狂気に対して、どう立ち向かえばいいのだろうか。立ち尽くす。

 人間の心をこれほどの悪魔にした原因は、ソビエトのアフガン侵攻にある。結局のところ破壊以外に何も残せず、ソビエトは撤退する。そしてソビエトも滅びた。誇りを踏みにじられたアフガニスタンには復讐の思いだけが育ってしまった。武力など何も解決が出来ない。

 復讐の連鎖である。攻撃したソビエト人の中には、無意味な殺りくに心の痛手を受けた人が沢山いるという。中村氏は農地を回復することで、アフガニスタンに人間の心を再生しようとしたのではないか。武力ではなく、平和の試み以外に恨みをいやすことはできないと考えたのだろう。

今私たちが問うべきは、「何をすべきか」ではなく、「何をすべきでないか」である。破局への不安に駆られて、お手軽な享楽への逃避や、一見権威ある声に欺かれてはならない。人として最低限、何を守り、何を守らなくて良いのか、何を失い、何を失うべきでないのか、静かに問うべき時だと思われる。敵は自分の内にある。これが、20年の結論である。ーーー中村哲


 香典のつもりで寄付をして、継続を願う事はどうだろうか。
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平和の方向で領土問題を考えたい。

2019-12-06 04:22:32 | Peace Cafe


 どうすれば、お隣の国と仲良くなれるのか。例えば竹島問題など、明らかに両国の火種の一つである。平和裏に解決するためには、とうぜん話し合いをすべきである。今の状況を見れば、韓国とは話し合いさえできそうにもない。

 とすれば、国際裁判所に判断を仰ぎ、結論を出してもらうべきだ。それは尖閣諸島でも、北方領土でも同じである。領土問題は一日も早く解決することが、日本の安全保障ではないだろうか。

 領土問題は国の主権にかかわることで、譲ってはならないという考えがある。しかし、平和のためにはあらゆることを行うべきではないだろうか。平和の為であれば、我慢できないような我慢もすべきではないだろうか。

 領土が広いという事は国の経済から見れば、それほどの意味が無くなってきている。国民一人一人の生活と安全を考えれば、領土に固執する必要はない。小さいなことに拘っていて、隣国との対立を深める等愚の骨頂である。譲れることは譲る方が賢い選択ではないか。

 日本の島の数は6,847島、その内無人島は6,432島と国勢調査で調べられている。大半の島は無人島である。「有人国境離島地域の保全及び特定有人国境離島地域に係る地域社会の維持に関する特別措置法」が制定され、29年4月から施行されている。

 これにともない、離島の振興を図る法律は5本となった。同法の対象となる有人国境離島は148島(うち特定有人国境離島は71島)となっている。離島を維持するためには、税金の投入が必要なのだ。

 5つの離島振興法があり島は維持されているが、それにもかかわらず大半の島は人口減少が進み、経済的に補助金を入れて、やっと維持がされているというのが現実である。中山間地の消滅地域が問題にされる以上に、離島の人口減少と無人化は進んでいる。

 色丹島や国後島がロシアであって何が問題なのだろうか。歴史的に日本だと言えばそうかもしれないが、いまさらのことだと考える。ロシアと仲良くなり、旅行で行けばいいのではないだろうか。軍事力で取り返せなどと、真顔で主張する国会議員が登場する。軍事力で取り返したとすれば、その後島を維持する経費は計り知れないものがある。

 経済だけから見れば、国境の離島はすでに経済的意味は小さなものと考えていいのではないか。故郷の島の墓参という事であれば、外国に移民した人は等しく同じことである。観光であれば、むしろ海外であることの方が、良いのかもしれない。

 領土問題は何とか第3者を入れて、平和裏に解決すると気がきているのではないだろうか。そうしないと、領土問題が日本全体の平和を脅かす原因になりかねない。地下資源や、漁業権など問題もないとは言えないが、そういう事よりも、平和の方が大切ではないだろうか。もう考え方を転換する時期に来ている。

 野党も領土を失う可能性があっても解決するとは言えないでいる。選挙で不利だと考えるのだろう。国民全体が領土を絶対の価値にしていると考えるのはおかしいと思う。感情的議論は避けて、合理的に平和を目指す方が国民の利益ではないか。

 与党の方は、特にアベ政権は軍事力強化の理由に領土問題を必要としている。問題のままにしておいて、何かと騒ぎの種にして国民感情を刺激する。領海に難解侵入した、漁船が漁をしている。領空を侵犯した。その都度騒ぎにして、今にも日本を攻撃してくると主張する材料だ。

 日本としては失う覚悟で解決する時期が来ているのではないだろうか。離島振興法の補助金を考えれば、経済的には失った方ても大きな損出はない。平和のためには領土問題が無くなることは前進である。

 軍事力強化でしか日本の平和はないと考える人たちは、領土問題を軍事力強化のための世論形成に利用している。そのための憲法改定には領土問題は解決しない方がいいと考えているのだ。アベ政権のこの考え方が、ロシアとの平和交渉すら、妨げている。

 石垣島で言えば、尖閣諸島である。この島を守るために、自衛隊基地まで作ろうという事である。こうした経費は莫大なものである。そのくらいの経費をかけて、世界にこの状況を伝えてゆく。そして、国際裁判所に提訴して解決することを、中国政府に働きかける。

 この交渉の中で、両国が軍事基地にしないという約束を取り交わす必要がある。日本に所属したからと言って、軍事基地化はしない。それは北方領土でも同じことである。ロシアは北方領土に米軍基地が出来ることを一番嫌っている。

 どういう形の解決になるかはわからないが、経済的効果は相当にあるはずである。石垣島への中国人観光客は間違いなく増加する。観光は平和産業である。スイスがそうである。世界中からスイスに観光に行くのは美しい景色だけではない。

 永世中立国スイスという国の在り方の良さである。石垣島が東アジアの交流拠点になるためには、石垣島の平和である。テロのない。基地のない。戦争とは無縁の島である。裸の付き合いが出来る島である。

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