2016年9月19日(月・祝)
埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの第236回例会に参加した。集合
は東武東上線の朝霞(あさか)駅。秋雨前線の停滞で小雨模様だが、10時6分に(西側
にある)南口をスタートする。
駅前の日付は、なぜか明日↑の表示
== 「朝霞の森」から越戸川沿いを ==
本町二丁目を南西へ、ケヤキ並木の広い通りに出て西進し、朝霞郵便局の先から南側に
広がる「朝霞の森」に入る。
米軍キャンプドレイク跡地の一角を整備したもので、広い草地になっていて、ところど
ころにプラタナスなどの古木が残り、ススキも咲いていた。
公園の東側と南側は未利用地で、金網に囲まれた広葉樹林である。
草地を南進して西に抜け、朝霞西高と朝霞一中の間を進み、緑地の南を東進して朝霞中
央公園に入る。野球場の外野フェンス沿いを回り、朝霞八小の北側にある広沢観音堂に行
く。
観音堂はがけ下に祭られ、そばに広沢の池がある。
台地上のかつて雑木林だったところの地下水ががけ下に湧き出たもので、東に流れて別
の流れと合流して越戸(こえど)川となり、古くから下流の根岸台や新倉(にいくら)の
水田の潅漑用水として利用されていたという。池の周囲にたくさんのヒガンバナが咲いて
いた。
暗渠(あんきよ)になった流れの上の道路を東に向かう。流れが現れた橋際から南に回
り、東武東上線の下を東に抜けると越戸川左岸に出た。三面護岸張りで趣に乏しいが、流
れはかなりきれい。
川沿いの遊歩道を進んで左岸から右岸に回る。沿道にはアサガオやツキヌキニンドウが
咲き、左岸にはハギが多く、花が咲き競う。斑(ふ)入りのススキも穂を見せていた。
再び左岸に戻ると、狂い咲きのサクラが咲く。対岸の流れ際には、手づくりの小さい池
も見える。
根岸台七丁目で越戸川を離れて台地に上がり、昼食地の公園を目指す。だが、住宅地の
通りを入ったら少し手前だったようで、グランドに出て下の道に下る。東側から木の段の
続く斜面林を上がり、昼食地の根岸台自然公園に12時10分に着いた。
東屋(あずまや)があるが、雨が止んでいたので木のベンチで食事をする。だが、食事
を終える頃には再び雨が落ちてきた。
== 根岸台と岡集落の寺や古墳、城跡などを巡る ==
公園の草地には健康遊具が幾つかあり、東側には落葉広葉樹の斜面林が残る。
昼食後ミーティングと記念撮影をして、13時ちょうどに根岸台自然公園を後にした。
西側の車道に出たところ、Kさん宅の保管庫に、県有形文化財・考古資料の板石塔婆
(いたいしとうば)が多数保管されていた。正安3年(1301)銘のものは梵字(ぼん
じ)で表した不動曼荼羅と五輪塔が刻まれた非常に珍しい双式(2体)のもの(写真中央
の2体)。
Kさん宅にはつるべ井戸が残り、カリンがたくさん実をつけていた。
西進して根岸台四丁目の台雲寺へ。本堂には、鎌倉末期から室町初期鋳造と考えられる
鉄造阿弥陀如来像が祭られているようで、県内でも数少ない貴重なものらしい。
北側の根岸台三丁目には金剛寺がある。かやぶき屋根の山門を入ると、「朝霞高尾山」
とよぶミニ高尾山が盛土上に祭られ、境内にはタヌキの置物が多い。
本堂横に市の保護樹木のシイが高く枝を広げ、「三徳わらべ地蔵」↓や六地蔵が祭られ
ていた。
西側の根岸台二丁目を回り込み、国指定重要文化財の「旧高橋家住宅」を訪ねる。
旧高橋家住宅は江戸中期の18世紀前半の建築と推定され、江戸時代のこの地域の一般
的農家のたたずまいと推定され、敷地内には納屋、倉、井戸小屋、木小屋などの附属建物
のほか畑や雑木林が広がり、武蔵野の農家の景観を今に伝えている。
主屋(おもや)の「ザシキ」と呼ぶ一番大きな部屋。
ザシキの隅には、月見だんごやススキなどが供えられていた。
主屋の南西端は「ディ」呼び、床は丸竹を敷いた珍しい造り。
婚礼など集まりの時に使う膳腕や火鉢などを収納していた倉は、昭和22年(1947)
の建築とか。
移設された古民家を公開しているところは多いが、このように附属建物や周辺の環境が
そのまま残されているのを見たのは初めて。武蔵野の農家の面影を残す貴重な歴史遺産と
いえよう。
西北の岡三丁目に幾つかの交差点を経て回り込み、新興住宅地の背後にある「湧水代官
水(だいかんすい)」に行く。
江戸幕府編さんの「新編武藏風土記稿」には「代官水」の名があり、昔から地域の人に
潅漑用水などに利用されてきたとのこと。
代官水は標高14~21m㍍のがけ線の谷頭から出ているようで、「湧水点」の標識の
下に湧水が確認でき、ほかにも数カ所から湧出しているようだ。
さらに曲がりくねった車道を北西に進んで朝霞二小の横を入り、柊塚(ひいらぎづか)
古墳歴史広場へ。
柊塚古墳は北側に黒目川を望む武蔵野台地の東端にあり、約1,500年前に造られた
この地の有力者の墓で、県指定史跡となっている。
前方後円墳のようだが前方部は耕作などで削られ、径48m、高さ8mの後円部だけが
よく保存されていて、墳丘は豊富な木々に覆われていた。
広場の北側にはハギやオミナエシ、ススキ、フジバカマ、コスモスなどが咲き、眼下に
蛇行する黒目川の流れなどが望まれる。
歴史広場のトイレは、家形埴輪を形どった造り。
朝霞二小前を北から東へと回り込んで下り、黒目川の笹橋際に出た。地形図上「積水化
学工場」と記された東南側一帯は、工場が移転したようで空き地になっていた。
黒目川右岸堤防上を北西に進み、次の花の木橋の手前一帯の城山公園に入る。豊富な緑
に覆われた岡の城山(おかのしろやま)は、約8,000~4,500年前の縄文時代の遺
跡であるとともに、中世に築城された平山城跡といわれており、県の重要遺跡に選定され
ている。
城主や築城者は不明のようだが、城跡には空堀や土塁がよく保存された一の郭(くるわ)
から四の郭まであり、虎口(こぐち)、堀切、搦手口(からめてぐち)などにより構成さ
れているという。南側からうっそうとした広葉樹の下の遊歩道を西北に上り下りして、西
側の城山通り出る。
城山通りを西南に少しで次の三差路を左折し、林間を下って朝霞市博物館に入り観覧を
兼ねて小休止した。
ラウンジの外に水車が回り、常設展示室を一巡すると朝霞の古代から現代までの歴史資
料や模型、絵図などが展示されていた。
展示の中では、発掘された土器や川越街道脚折宿(すねおりしゅく)↑のミニチュア、
黒目川の水車による伸銅作業の様子↓などに興味をひかれた。
東洋大学朝霞キャンパスの横を進んで黒目川右岸に上がり、桜並木に沿って進む。
次の水道橋で川を離れて北西に緩やかに上がり、ゴールのJR武蔵野線北朝霞駅に16
時4分に着いた。
ほぼ1日傘が離せなかったが、2つの寺と湧水池、古民家や古墳、城跡、そして博物館
も訪ね、朝霞市中東部の歴史の一端を垣間見たような気のする歩きだった。
(参加 16人、天気 雨、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 志木、歩行地 朝霞
市、和光市(少し)、歩数 24,600)
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埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの第236回例会に参加した。集合
は東武東上線の朝霞(あさか)駅。秋雨前線の停滞で小雨模様だが、10時6分に(西側
にある)南口をスタートする。
駅前の日付は、なぜか明日↑の表示
== 「朝霞の森」から越戸川沿いを ==
本町二丁目を南西へ、ケヤキ並木の広い通りに出て西進し、朝霞郵便局の先から南側に
広がる「朝霞の森」に入る。
米軍キャンプドレイク跡地の一角を整備したもので、広い草地になっていて、ところど
ころにプラタナスなどの古木が残り、ススキも咲いていた。
公園の東側と南側は未利用地で、金網に囲まれた広葉樹林である。
草地を南進して西に抜け、朝霞西高と朝霞一中の間を進み、緑地の南を東進して朝霞中
央公園に入る。野球場の外野フェンス沿いを回り、朝霞八小の北側にある広沢観音堂に行
く。
観音堂はがけ下に祭られ、そばに広沢の池がある。
台地上のかつて雑木林だったところの地下水ががけ下に湧き出たもので、東に流れて別
の流れと合流して越戸(こえど)川となり、古くから下流の根岸台や新倉(にいくら)の
水田の潅漑用水として利用されていたという。池の周囲にたくさんのヒガンバナが咲いて
いた。
暗渠(あんきよ)になった流れの上の道路を東に向かう。流れが現れた橋際から南に回
り、東武東上線の下を東に抜けると越戸川左岸に出た。三面護岸張りで趣に乏しいが、流
れはかなりきれい。
川沿いの遊歩道を進んで左岸から右岸に回る。沿道にはアサガオやツキヌキニンドウが
咲き、左岸にはハギが多く、花が咲き競う。斑(ふ)入りのススキも穂を見せていた。
再び左岸に戻ると、狂い咲きのサクラが咲く。対岸の流れ際には、手づくりの小さい池
も見える。
根岸台七丁目で越戸川を離れて台地に上がり、昼食地の公園を目指す。だが、住宅地の
通りを入ったら少し手前だったようで、グランドに出て下の道に下る。東側から木の段の
続く斜面林を上がり、昼食地の根岸台自然公園に12時10分に着いた。
東屋(あずまや)があるが、雨が止んでいたので木のベンチで食事をする。だが、食事
を終える頃には再び雨が落ちてきた。
== 根岸台と岡集落の寺や古墳、城跡などを巡る ==
公園の草地には健康遊具が幾つかあり、東側には落葉広葉樹の斜面林が残る。
昼食後ミーティングと記念撮影をして、13時ちょうどに根岸台自然公園を後にした。
西側の車道に出たところ、Kさん宅の保管庫に、県有形文化財・考古資料の板石塔婆
(いたいしとうば)が多数保管されていた。正安3年(1301)銘のものは梵字(ぼん
じ)で表した不動曼荼羅と五輪塔が刻まれた非常に珍しい双式(2体)のもの(写真中央
の2体)。
Kさん宅にはつるべ井戸が残り、カリンがたくさん実をつけていた。
西進して根岸台四丁目の台雲寺へ。本堂には、鎌倉末期から室町初期鋳造と考えられる
鉄造阿弥陀如来像が祭られているようで、県内でも数少ない貴重なものらしい。
北側の根岸台三丁目には金剛寺がある。かやぶき屋根の山門を入ると、「朝霞高尾山」
とよぶミニ高尾山が盛土上に祭られ、境内にはタヌキの置物が多い。
本堂横に市の保護樹木のシイが高く枝を広げ、「三徳わらべ地蔵」↓や六地蔵が祭られ
ていた。
西側の根岸台二丁目を回り込み、国指定重要文化財の「旧高橋家住宅」を訪ねる。
旧高橋家住宅は江戸中期の18世紀前半の建築と推定され、江戸時代のこの地域の一般
的農家のたたずまいと推定され、敷地内には納屋、倉、井戸小屋、木小屋などの附属建物
のほか畑や雑木林が広がり、武蔵野の農家の景観を今に伝えている。
主屋(おもや)の「ザシキ」と呼ぶ一番大きな部屋。
ザシキの隅には、月見だんごやススキなどが供えられていた。
主屋の南西端は「ディ」呼び、床は丸竹を敷いた珍しい造り。
婚礼など集まりの時に使う膳腕や火鉢などを収納していた倉は、昭和22年(1947)
の建築とか。
移設された古民家を公開しているところは多いが、このように附属建物や周辺の環境が
そのまま残されているのを見たのは初めて。武蔵野の農家の面影を残す貴重な歴史遺産と
いえよう。
西北の岡三丁目に幾つかの交差点を経て回り込み、新興住宅地の背後にある「湧水代官
水(だいかんすい)」に行く。
江戸幕府編さんの「新編武藏風土記稿」には「代官水」の名があり、昔から地域の人に
潅漑用水などに利用されてきたとのこと。
代官水は標高14~21m㍍のがけ線の谷頭から出ているようで、「湧水点」の標識の
下に湧水が確認でき、ほかにも数カ所から湧出しているようだ。
さらに曲がりくねった車道を北西に進んで朝霞二小の横を入り、柊塚(ひいらぎづか)
古墳歴史広場へ。
柊塚古墳は北側に黒目川を望む武蔵野台地の東端にあり、約1,500年前に造られた
この地の有力者の墓で、県指定史跡となっている。
前方後円墳のようだが前方部は耕作などで削られ、径48m、高さ8mの後円部だけが
よく保存されていて、墳丘は豊富な木々に覆われていた。
広場の北側にはハギやオミナエシ、ススキ、フジバカマ、コスモスなどが咲き、眼下に
蛇行する黒目川の流れなどが望まれる。
歴史広場のトイレは、家形埴輪を形どった造り。
朝霞二小前を北から東へと回り込んで下り、黒目川の笹橋際に出た。地形図上「積水化
学工場」と記された東南側一帯は、工場が移転したようで空き地になっていた。
黒目川右岸堤防上を北西に進み、次の花の木橋の手前一帯の城山公園に入る。豊富な緑
に覆われた岡の城山(おかのしろやま)は、約8,000~4,500年前の縄文時代の遺
跡であるとともに、中世に築城された平山城跡といわれており、県の重要遺跡に選定され
ている。
城主や築城者は不明のようだが、城跡には空堀や土塁がよく保存された一の郭(くるわ)
から四の郭まであり、虎口(こぐち)、堀切、搦手口(からめてぐち)などにより構成さ
れているという。南側からうっそうとした広葉樹の下の遊歩道を西北に上り下りして、西
側の城山通り出る。
城山通りを西南に少しで次の三差路を左折し、林間を下って朝霞市博物館に入り観覧を
兼ねて小休止した。
ラウンジの外に水車が回り、常設展示室を一巡すると朝霞の古代から現代までの歴史資
料や模型、絵図などが展示されていた。
展示の中では、発掘された土器や川越街道脚折宿(すねおりしゅく)↑のミニチュア、
黒目川の水車による伸銅作業の様子↓などに興味をひかれた。
東洋大学朝霞キャンパスの横を進んで黒目川右岸に上がり、桜並木に沿って進む。
次の水道橋で川を離れて北西に緩やかに上がり、ゴールのJR武蔵野線北朝霞駅に16
時4分に着いた。
ほぼ1日傘が離せなかったが、2つの寺と湧水池、古民家や古墳、城跡、そして博物館
も訪ね、朝霞市中東部の歴史の一端を垣間見たような気のする歩きだった。
(参加 16人、天気 雨、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 志木、歩行地 朝霞
市、和光市(少し)、歩数 24,600)
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