あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

羽生市北西部、利根川右岸や葛西用水沿いを歩く(埼玉)

2017-06-21 11:52:33 | カントリーウオーク
 2017年6月11日(日)

 4日前に梅雨入りしたが雨の心配は無さそうな今日、カントリ-ウオークグループの第
244回例会に参加した。今回は私とMMさんの担当、集合は秩父鉄道の新郷(しんごう)
駅で、4組に分かれて10時5分にスタートした。

 
 == 上新郷を北に抜けて「道の駅はにゅう」へ ==

 商店のない閑散とした駅前を北へ、県道128号を横断して新郷一小前に出る。広い校
庭の西側には2基の大きな碑が校庭側を向いて立っていた。横からで読みにくいが慰霊碑
と忠魂碑のよう。


 碑の横から北西に少しで、法性寺がある。山門は近年の改築のようで新しい。





 門を入った右手に、手の届く高さだが横にくねくねと枝を伸ばした松の古木がある。自
然に伸びたとも思えぬ枝張りだが、人の手を加えたのだろうか…。


 墓地の間を抜けて西に回り、県道7号が90度曲がる交差点を西へ、今日は休業の造り
酒屋の前を通過して祥雲寺に入る。


 創建は慶長9年(1604)とされ、本尊の木造聖観音立像は寛文12年(1672)
に寄進されたとか、羽生市(はにゅうし)の指定文化財である。


 本堂前には新しい「ぴんころ地蔵」があり、祈ると長生きし(ぴんぴん)大往生(ころ)
するというので、手を合わせて祈った。
        

 東側に隣接して大きな円筒タンクが2つ立ち、横に「もろ味」と書かれた小さいタンク
がある。大きいタンクも味噌か醤油のもろみが入っているのかもしれない。


 そばのハギがもう花を見せていた。



 北に少しで住宅地の西に出ると、30㎝前後に延びた水田が広がる。小さい流れ沿いか
ら県道59号に回り、愛宕神社前交差点際にあるその愛宕神社境内へ。
     
 幾つか社殿があり、どれが愛宕神社か迷ったが、交差点側の盛土上に祭られていた。

 交差点から北に延びる県道7号の西側歩道沿いに松並木が続き、中ほどに「勘兵衛松」
の石碑が立っていた。

 この通りは、中山道鴻巣宿から分かれて忍(おし)(行田市)を通り、上新郷、川俣関
所を経て館林、佐野方面に至る日光脇往還(日光裏街道)で、寛永5年(1628)に徳
川家光の日光社参の折、忍城主が家臣の勘兵衛に命じて植えさせた松が続いていたという。

 明治8年(1875)には69本あったようだが現在は1本だけ残り、あとは近年に植
えたものらしい。でも、県の天然記念物に指定されている。


 流路いっぱいに水をたたえた葛西(かさい)用水沿いを西へ、次の橋を渡り田んぼの中
の農道を北進する。

    
 路傍のトラノオが開花し始めていた。そばの麦畑はもう収穫期である。
 


 田んぼでえさを探すサギを見ながら進んで葛西用水の分流を渡り、少し迂回して利根川
右岸堤防下にポツンと祭られた白山(はくさん)神社に行く。




      
 拝殿の周囲はよく茂ったケヤキが3本だけで、その前に最近完成したばかりの新しい社
殿がある。ケヤキの下で暑さを避けて小休止、吹き抜ける風が気持ちよい。


     
 背後の利根川右岸堤防に上がり、アシの茂る河川敷やその向こうの流れ、対岸の群馬県
明和町周辺の広大な展望などを楽しみながら国道122号の昭和橋際まで行く。




 他のグループの3人も、堤防下のあぜ道を同じ方向に向かっていた。


 橋の手前は県指定旧跡で、「川俣関所址」碑が立っている。川俣関所は慶長年間
(1596~1615)に設けられ、明治2年(1869)までの約260年間続いたら
しい。
         
 江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、江戸の安全を図るため鉄砲の入る
のを厳しく取り締まったという。

 国道を横断して東側にある昼食地の「道の駅はにゅう」に入り、建物左手にある情報ス
ペースの内外で昼食をする。



 道の駅の物産販売施設(売店)では、地元羽生市内や近隣の市町などの農水産物やその
加工品、菓子や飲み物などを販売しており、小さいレストランもある。


 情報スペースの北側広場も県指定旧跡で、「川俣締切阯」碑が立っていた。

 川俣締切とは、それまで分流していた利根川流路のうち、会の川(あいのかわ)筋を江
戸開府前の文禄3年(1594)に締め切ったとのこと。

 近世以前の利根川は武蔵・下総国境を南へ、東京湾に注いでおり、千葉・茨城県境を東
進する現在の流路は、利根川東遷事業と呼ぶ大規模な流路変更と河川改修により付け替え
られたものである。

 「川俣締切阯」碑の横には、新しい「羽生の作詞家 関口義明先生の顕彰碑」がある。

 碑の前のボタンを押すと関口義明作詞、新井英一作曲、井沢八郎が歌う「ああ上野駅」
のメロディが流れる。来訪者が次々に押すので、昼食中に10回近くも聞いただろうか…。

 昼食を終えて物産販売施設で買い物をしたりして、ミーティング後、13時10分に出
発した。

 == 利根川右岸から葛西用水沿いに ==

 利根川右岸堤防をさらに東へ、間もなく利根川河口から150㎞地点の標識があったの
で、記念撮影をする。



 好天で日差しが一杯だが堤防上は風爽やか。ときどき通過するサイクリストに注意し、
広々とした展望を楽しみながら進む。


 東武伊勢崎線の鉄橋下を通過し、近くの葛西用水公園に下り休憩した。




 公園の堤防際には「葛西用水元圦(もといり)跡之碑」がある。葛西用水は、県内の見
沼代用水、愛知県西三河地方の明治用水とともに日本三大用水と称され、万治3年(1660)
に関東郡代 伊奈忠克により開削されたもの。

 昭和43年(1968)に埼玉用水完成に至るまでの308年間通水し、穀倉地帯を潤
し、羽生市の治水にも極めて大きな関係があり、市の史跡になっている。


 公園の池の北端には、用水路の取水口であったレンガ積みのアーチが残され、池にはヒ
シがたくさん葉を見せてていた。
    

 上流5㎞ほどの利根大堰から取水された、埼玉用水からの豊富な流れを見せる葛西用水
沿いの車道を南東に少しで、本川俣集落の長良神社へ。拝殿の左手前に大きなイチョウは
あるが、ほかに樹木は少ない。


 境内西側に羽生市指定文化財の、「松平大和守(まつだいらやまとのかみ)生祠(せい
し)」と呼ぶ小さい石の祠(ほこら)がある。生祠とは、領主の徳を称えるために領主の
生存中に領民がまつったもの。
      

           
 当地は天明6年(1786)7月に起きた竜蔵堤の決壊や、寛政3年(1791)8月
の再決壊による水害に見舞われたが、領民の窮状を知った松平大和守直恒は、食料を与え
租税も5年間免じている。この恩に報いようと領民や年寄、名主などが寛政6年(1794)
に建立したという。

        
 そばのサワラにたくさんの実が付いていた。その先、川俣小近くの民家には、大きなサ
ボテンが花を見せていた。
       


 次の橋で左岸から右岸に回り、さらに用水沿いを進む。住宅が増えて県道60号を横断
し、すぐ先の橋を渡り、拝殿の横から大天白(だいてんぱく)神社境内に入る。

 弘治3年(1557)、羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願に創建したと伝えら
れ、以後安産、子育ての神として信仰されているようだ。
    

 この境内には、下総(しもうさ)佐倉藩の藩主、堀田相模守生祠がある。相模守正順
(まさより)は宝暦3年(1753)に藩主になり、寺社奉行、大坂城代、京都所司代な
ど幕府要職を16年も務めた大名で、45年間にわたり藩政を行ったという。
         
 佐倉藩は遠隔な飛地が多く、当地は宝暦13年(1763)に佐倉藩の領地となり、こ
の生祠は明和8年(1771)に領主崇拝のあらわれとして建立され、その後の利根川の
氾濫にもかかわらず現在まで残っていたようだ。


 境内に接した南側一帯は大天白公園で、池の周りに古木のフジが60本以上も藤棚に枝
を伸ばし、花の見頃な4月下旬~5月上旬には藤まつりが開催されている。



 公園を南に抜けて近くの清光寺に行く。山門、本堂、鐘楼など昨年11月に再建された
ばかりで、白木が真新しい。


 鐘楼のそばに、清水卯三郎の墓がある。清水卯三郎は、文政12年(1829)に現在
の羽生市中央町に生まれ、薩英戦争では通訳として薩摩藩とイギリスとの和平交渉に奔走
した。

 その後パリ万国博(1867)には商人でただ一人使節団に加わり、美術工芸品などを
出品して日本の名を世界に広め、帰国後は明治政府に日本での万国博開催を訴える建白書
を明治政府に出すなど、商人ながら常に世界に目を向け、わが国の文化振興、発展に貢献
した人だという。
         
 一方、国民への知識の普及をはかるため分かりやすい平仮名表記を唱えたかな文字論者
で、墓碑の文字は直筆によるものらしい。

 参道を南へ、県道60号を横断して市街地の中央部を南進する。通りには、昭和を思わ
せる民家や商家が幾つか目に付いた。



 駅に通じる通りを横断し、東側から最後のポイント、建福寺に入る。大きな山門も本堂
もコンクリート造りながら豪壮な構え。


 まずは本堂内に入って参拝する。天井は、植物文様をデザインした格天井になっていた。


 墓地の南側には、市の史跡「田舎教師の墓」がある。田山花袋(たやまかたい)の名作
「田舎教師」の主人公、林清三こと小林修三の墓で、明治34年(1901)に熊谷中を
卒業して市内東部の弥勒(みろく)小に奉職し、間もなくここ建福寺に下宿して6㎞の田
舎道を通ったという。
         

 境内の東屋(あずまや)で小休止後、北側の駅前通りに出て左にすぐ、ゴールの東武伊
勢崎線と秩父鉄道の羽生駅に15時37分に着いた。


(参加 14人、天気 晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 加須、館林、歩行地
 羽生市、歩数 18,800)


 今回は市内の2つ神社で「生祠」というものを初めて知った。市内にはほかにも、城主
や旗本をまつった5つの生祠があるという。

 カントリーウオークを始めて25年目、県内を初め国内のたくさんの寺社を訪ねている
が、生祠という言葉は知らなかった。だが帰宅後調べたら「広辞苑」にも記されていた。

 歩いてみると、まだまだ新しい発見が期待できるかもしれない。




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