魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

有り難い

2022年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

イエスは、「7の70倍赦しなさい」と言ったそうだが、7は古来の神秘数で、単なる象徴に過ぎない。要は無限にという意味だ。
コロナもついに「第7波」に至った。「過去最大の感染者数」と、メディアは条件反射で色めき立つが、これは想定内だったはずだ。ここまで来れば、もう、赦し受け入れるしかない。
政府も、曖昧なことしか言わない。要は、受入体制だ。
初出現のインパクトで騒ぎ過ぎたことが皆、薄々解ってきたが、今更、風邪扱いとも言えない。当初から、他の病気と比べて、本当のところどうなんだの疑問があった。
関係者も、「数が増えれば、重傷者も死者も増える」と言い出した。つまり、いくら「軽症」でも、が本旨だ。

どんな病気でも、死ぬ時は死ぬ、死ぬ人は死ぬ。誰でも生死どちらかになる。
生きていることが、どんなに有り難いことかを意識していない人は、「死ぬかも知れない」と言われただけで驚愕する。
本来の仏教が説くのは、来世や転生の方便ではなく、「生きてるだけで丸儲け」「ダメ元」を知ることであり、その上で生を慈しむことだ。

苦悩は生から始まる。怒り恐れ悩むのも、生きていればこそだ。
子供が「誰が産んでくれと頼んだか!」と親を恨み、長じては貧乏を嘆き、不運を恨み、死を恐れるのも、生きていることを当たり前だと思っているからだ。今生きていることが、本来は存在するはずがない=「有り難い」ことだと知らないからだ。
よく、「どうせ死ぬんだから」と言うが、これは違う。生きていれば死ぬのは当たり前と思う前に、生きていることが、当たり前ではないと知るべきだ。

同じ事のように聞こえるかも知れないが、先ず生きていることの希さ貴さに気づき、感謝して生き、その上で死を受け入れるのと、生きていることを疑わず、誰でも死ぬからやむを得ないと思うのとでは、死を前にした時の生き様に、大きな違いが出る。
今回のコロナ騒動は、まさにその死生観「検査」だった。
生きていることの有り難さを噛みしめていなければ、生きることに囚われ、「死んでもいいから、早くワクチンを!」と、免罪符を求めて走り出す。本音では「死ぬはずがない」と思っているから死を恐れる。それを認めたくないから、「他人様に迷惑をかける」と人のせいにする。
「死にたくない」と「生きていることを大切にしたい」とは、似て非なるものだ。

「死ぬのが怖くて仕方がない」と話す90代の女性がいた。この人の人生は、よく生き延びてきたと思えるほど波瀾万丈なので、意外だったが、生への執着が人一倍強かったから死線を越えてきたのだろう。しかし、そのガムシャラでも超えられない寿命を前にすれば、恐怖しか残らないということだろうか。
生きる気満々の素直な気力に、これはこれで生を全うすることかと、感銘を受けた。
コロナ騒動もまた、人類の健全な生命力の証だろう。
食べられても食べられても、イワシの群れは泳ぎ続ける。