魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

知らぬは

2014年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

1865年、日本に一ヶ月しか滞在しなかったシュリーマンが日本の本質を見抜いていたことに対し、木村尚三郎がコメントしていた。
常日頃思っていることと全く同じだったので、そのまま記載したくなった。

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世の中が明治に変る三年前、一八六五年六月一日から七月四日までの一ヵ月間が、シュリーマンの日本滞在期間であった。短期間にもかかわらずというより、短期間だからこそ彼は天才的な理解力とともに、日本の社会と文化の本質、時代の特質を鋭く見据え、抉り出すことができたといえよう。
 アレクシス・ド・トクヴィルは、行刑制度の視察のためアメリカに渡り、わずか滞在十ヵ月の知見から不朽の名著『アメリカの民主政治』(四巻、一八三五ー四O年)を書いた(井伊玄太郎訳、講談社学術文庫〔三巻〕、一九八七年)。一五O年以上経った今日でも、これを抜くアメリカ論は出ていない。それもやはり、トクヴイルがアメリカに狎れず、アメリカに居つづげずに、よそ者としての普遍的、客観的な眼を保ちえたがための結果である。
 長く滞在すればその土地が分る、というものではない。いやむしろ、反って分らなくなっていく。長く住めば、地元民と同じ眼を持つようになるからである。そしてその地元民こそが、地元の本当の長所、短所をともにもっとも知らない人びとである。
それは、自分のことをもっとも知らないのが、自分自身であるのと同じである。本人はしばしば同意しないが、他人による評価のほうが、はるかに客観的で正しい。

『シュリーマン旅行記』(石井和子訳、講談社学術文庫)
解説:木村尚三郎  より
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一番、分かっていないのは本人であるという真理
灯台もと暗し、灯台他人を照らし己を照らさず、岡目八目、知らぬは亭主ばかりなり・・・

行き詰まった状況を打開できるのは、よそ者の眼だ。
日本の企業が外国人を採用するのは良いことだし、外国人が日本に来て、ビジネスに成功するのは当然と言えば当然だ。日本人でも、外国に行けばビジネス・ネタがいくらでも転がっていることに気づく。

地方再生に、最も役立つのは、他府県人やUターンの眼で、地元の人間が「こんなもの」と思っている物の価値を発見する。素直に耳を傾けるべきだろう。

そういう点で、占いにも価値がある。
大衆占いの原点、困ったことを行きずりの見知らぬ人にたずねる風習、「こと問い」は、古代の知恵だったのだろう。