魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

三碧再選

2012年11月07日 | 占いばなし

オバマが再選された。起死回生、ほとんど「サンディ」のお陰だ。
アメリカ大統領で、三碧の大統領が再選されたのは初めてで、三碧の大統領は三人目だから、三度目の正直ということになる。

三碧は言葉であり、しかも、オバマは自動車人間ではシャーシ。
シャーシは、日本なら、「言うだけ番長」前原や、「壊し屋」小沢など、やはり口だけで、行動に脈絡がない。

「チェンジ、チェンジ」の言葉だけで当選したが、日本の民主党と同じで、現実は、ビン・ラディン殺害以外、目だった功績もなかった。
「サンディ」で、得意の見栄を切れなかったら、負けていただろう。

つまり、神風が吹いて、実体の無い大統領が再選された。三碧のリーダーについては、何度も言うが、ヒトラー同様、危うい笛吹き男だ。
同じ三碧が再選されたのが、ロシアのプーチンで、やはり危うい。
かと言って、ロムニーが良かったかと言えば、あの狂信的なティーパーティーや、副大統領候補を考えると、オバマの方がましだろう。

ただ、歴史を振り返ってみると、日本にやさしいのは共和党だ。
日本人は同じ有色人種だと、オバマに極めて好意的だが、それ自体が偏見で、彼は立派な民主党員だ。

リーダー不在の時代と言われている
リーダーが居なくても回るのが良い時代だ。しかし、これだけ「リーダー、リーダー」と、話題になるのは、それだけ世界が行き詰まっているからであり、まさに、リーダーが渇望される牡羊座の時代だ。

こういう時代は、様々なリーダーが現れてくる。既存のリーダーの影が薄いほど、ニューリーダーが現れやすい。そして、大概はろくでもないリーダーで、その火消し役で、まともなリーダーが現れる。

何故、最初に、ろくでもないリーダーが現れるかがポイントで、閉塞感はあっても、まだ大衆にゆとりがある時には、ムードでリーダーを選ぶ。
しかし、その災いが現れると、ムードや口先だけの人間では対処できなくなる。すると、誰もやりたがらない、猫の首に鈴を付ける人間が、渋々、現れてくる。昼行灯の大石内蔵助の登場だ。

ムッソリーニやヒトラーは、行くところまで行ったわけだが、
フーバーの後にルーズベルト、チェンバレンの後にチャーチルが現れて米英は救われた。
政治がろくでもないのは、まだ余裕があるということだろう。
東日本大震災に打たれても、いまだに政治家は目覚めていない。
つまりは、日本人が目覚めていないということだ。

アメリカもロシアも、三碧のリーダーだ。過去、アメリカでは、三碧は再選されなかったが、今回は再選された。三碧が意味する、「メディアやネット」の時代故の現象だろうか。確かにプーチンは報道規制に熱心だし、オバマも、ほとんどネットでの勝利と言ってもいい。


本場の味

2012年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム

11月6日からズワイガニ漁が解禁になった。
カニは各地に様々な種類があり、それぞれの味わいがあって、好みも様々だ。ほとんどの地元の人は、地元のカニが最高だと思っている。
中国人にとっては最高の上海ガニだが、ズワイガニと比べれば差して美味いとも思わない。

好みとはそんなものだが、いずれも、現地に行って、現地の空気の中で現地の料理といっしょに、現地風に食べれば、確かに最高に美味しく感じるだろう。
昔から地元で食べてきた人々の、知恵や工夫が詰まっているからだ。

近年は、流通も保存も発達し、どこでも食べられるようになったが、現地で取れたてを冷凍保存せずに食べる味とは、やはり、決定的に違う。
ところが、流通によって、現地での値段が高騰し、地元の人も地元の味を簡単には食べられなくなった。

結果的に、各地の名産は冷凍保存によって、相対的に全国一律で味が落ちることになった。

地元から都会の大市場に出すことで、大量に売れ、良いことづくめのように思われていたが、地元での高騰、本物の味の喪失、そして資源の枯渇と、悪いことずくめになっている。

地産地消の時代だ。ズワイガニのような特産品は、軽々に都会に出荷すべきではない。都会で食べようと思えば、一枚10万円ぐらい出さなければ食べられなくすればいい。地域収入格差も大きいのだから。
地元に行かなければ買えないようにして、本当に、土地と季節の味覚を際立たせるべきだ。

地元に行けば、確実に、美味しくて安い。お土産に買って帰るのは自由だが、トラックで出荷はしない。
そのことで、土地のイメージ、観光資源が大きく上がるから、観光誘致の方に力を入れれば、「買ってもらって終わり」より、経済効果が遥かに大きい。

話は違うが、日本製品不買運動をする中国に何とか買ってもらおうと手もみするより、中国外でブランドイメージを高める方が、良い商売ができるだろう。
「買ってくれ買ってくれ」と言うより、うちの商品は「そう簡単には売れません」と言う方が儲けになることもあるのだ。
地産地消には、そういう効果もある。

ところで、ドイツでは、外来種の上海ガニが大量発生して、漁師を困らせていたが、中華料理店に売ったら良い商売になり、今では輸出までしているそうだ。そのうち、ドイツが上海ガニ料理の本場になるかも知れない。


あきれた

2012年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

この時期に何だろうと思ったら、また、トムラウシだった。
日中間で、もめているこの時期に、万里の長城で年寄りが集団遭難?
何だろうと思ったら、また、年寄りの暴走トレッキングだった。

状況がわかるにつれ、あきれて物も言えない。トムラウシ事故にも懲りず、再び事故を起こした旅行代理店は、もう犯罪で、許しがたいが、暴走老人が後を絶たないことの方が、もっと大きな問題だ。

お金さえ出せば、安直に冒険できると思うことは、現代のシステム社会の問題だが、高齢化社会に入った今、老人の定義そのものが問われている。
砂を蹴る

年寄りと一言で言っても人様々で、JALを立て直した京セラの稲盛会長や、石原慎太郎、高倉健など、バリバリ老人もいれば、若くても若年性痴呆症ということもある。
しかし、知力、気力ではどうにもならないのが体力だ。

体力の衰えを知力で補うのが、一人前の老人であり、気力だけで何とかなると思うのは半人前の老人だ。
年寄り子供が、一人前に扱われないのは、体力と理解力の不足により、成人と同じことができないからであり、子供に保護者が必要なように、知力で自己コントロールできない年寄りにも保護者が必要だ。

子供の幼さには、経験不足もあるから、保護者は必要だが、これまで立派な成人で、経験を積んでいるはずの老人に、保護者が必要とはなかなか思えない。何より、本人は全く自覚がない。
例え無自覚でも、知力のある老人は、自分の年齢を自覚して行動するが、知力のない老人ほど自分を過信し、気力に頼る。

この、老人の自己過信と、それをエサにするパック旅行会社。
これはどちらにも責任がある。しかし、こうした無自覚な老人は、他のことでも老害になるだろう。
いっそ、パック旅行会社は、こういう老人を集めて、
冬の八甲田に「姥捨て山参り」をしたらいい。

イラクで人質になった人達が叩かれたが、どうであれ、少なくとも、あの人達は、人の役に立ちたいという志があった。
あれと比べれば、こんな時期に、海外にまで行って、我欲で迷惑を掛けるのは、まさに国賊ものだ。

一日20㎞
今回のツアーは、一日、15㎞ぐらいを、数日歩く予定だったそうだが、確かに、年寄りでも歩けない距離ではない。
しかし、全く自己責任意識のないパック旅行で、未踏の地にいきなり飛び込んだのは、パラシュート無しの、スカイダイビングだ。

南京虫だ」で、スペインを一日20㎞歩こうとした友人も、南京虫で挫折した。外国で1日20㎞自体は、無謀だが、これは普通に人のいる地域であり、「遭難」するようなところではない。本人はスペインにも暮らしたことがあり、問題が起ったら中断できた。
また、三浦雄一郎が高齢登山を計画することも、経験に裏打ちされたチャレンジであり、十分に理解できる。むしろ賛同する。

年寄りが歩いたり運動することは、大いに結構なことだが、身の程をわきまえないことが問題なのだ。何時でも中断できるような、ハイキングコースにすべきだろう。


優秀人材

2012年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

自分で料理をすると、たいていは美味い。自分の好みでつくるから当然だが、中には、勘が悪くて、どうにも理想通りにできない人もいる。
それでも、自分でつくった料理が食べられないことは、滅多にない。
仮に、ひどいものができても、責任意識で最後まで食べられる。

自作の料理は、自分が考え得る最高のことをしているのだから、納得できるし、自惚れの気持ちも働く。「やった、星三つだ

うまくできたと思うと、他の人にも「この感動を味わって貰いたい」
近所にお裾分けしたり、知己を呼んで料理を振る舞う。
しかし、誰でも、何時でも料理が上手いわけでは無い。落語の「寝床」ではないが、実は、ありがた迷惑だったりする。

まして、趣味のメニューなど、「普通」の人は金を出してまで食べたいとは思わない。

日本企業は「ものづくり」と称して、これをやって来た。
確かに、世界に物が無い時なら、腹に入れば何でも美味い。しかし、調理器具も材料も揃って、物の溢れる世界になると、自分が本当に欲しい物しか食べたくない。
つまり状況が変わったのだ。

昔、人気の新聞四コマ漫画「フクちゃん」に、町内での潮干狩りの話があった。
・・・・・・・・・・
フクちゃんが「こんな小さな貝を見つけた」と、自慢すると、仲間の子供達で、「もっと小さいの見つけた」と、競争になった。
やがて、「潮が満ちるから帰るぞー」と声が掛かって、大人達が貝で一杯のフクロを担いで引き上げる姿を、フクちゃん達、子供はボー然と見ていた。

ガラパゴスと言われる日本のデジタル競争は、フクちゃん達のように、目的を忘れた競争ばかりをしてきた。
そして、韓国や台湾、中国の「貝」のフクロを、ボー然と見ている。

シャープ、ソニー、パナソニック・・・空前の赤字、株価の暴落
惨憺たる状況だ。
世界を制覇した企業には、優秀な人材が溢れている・・・はずだ。
しかし、こうなっている。

ものごとは、「極まれば転ずる」
頂点に達すると、「その先」に登ろうとする人間ではなく、「そこ」に登ろうとする人間しか集まらなくなる。
そして、「そこ」にちょうど良い「優秀」な人間とは、型で抜いたように「美しく」「カッコ良い」、つまり、「角の無い」人間になる。

ゆとり教育を馬鹿にする、偏差値教育こそが、「優秀」な人材を育ててきた。いま、日本中が、非の打ち所の無い、優秀な人材で溢れている。

オッペケペ、オッペケペ
オッペケ、ペッポウ、ペッ、ポッ、ポー
日の丸企業は優秀だ、技術屋魂、ものづくり
技術はあるが、智恵が無い。智恵はあっても、度胸が無い。
ハア、オッペケペ、オッペケペ
オッペケ、ペッポウ、ペッ、ポッ、ポー
度胸があっても、客を見ず。マーケティングは蚊帳の外。
市場わかれど亀歩き。スピード出すなら、責任論
猫の鈴見てにらみ合い
はい、そこまーでーよー

しかし、お楽しみはこれからだ
今の惨状は、土星が天秤座にいた間の結果だ。
世界がどうであろうと、日本は、また30年の上昇に向かう。
今の働き盛りが引退するまでに、次の世代が現れてくる。
バブル崩壊後に辛酸をなめ、鍛えられた世代だ。

企業は企業内でビジネスを手がけるより、ベンチャー投資に力を入れた方が、日本のため、若者のため、延いては自社のためではなかろうか。


木枯一号

2012年11月02日 | 占いばなし

世の中、誰でも、自分の目で世界を見ている。視野の広い人、狭い人。敏感な人、鈍感な人・・・様々だが、各々は、自分の視点が唯一絶対だと信じている。

ものの解る人、解らない人がいることを、「目あき千人、目くら千人」と言ったが、近頃は言葉狩りで、こうは言えなくなった。
先日の「ケツの毛までむしられる」ではないが、言葉の知恵まで失われている。

言葉狩りは、言葉全体の価値が理解できず、記号的な部分を批判するのだが、問題は、それを受け入れる、事なかれ主義の世の中だ。
(最近は多少改善したが、これに最も荷担したのはマスコミだった)
声の大きい人の意見が通るのは、赤軍事件のようなカルト集団内と同じで、戦前の軍部同様の思考停止だ。

声を上げ、強く抗議できるのは、強く信じているか、間違いを隠そうとしてだが、多様な視点を知れば、強く信じることはできなくなる。
「金持ち喧嘩せず」は、食べることに余裕があるからだが、もう一つの理由として、金持ち故の教養も、盲信の怒りを抑えるからだろう。

ものを知らない人、理解できない人ほど、自分の考えは正しいと信じている。
若者と年寄りが怒りっぽいのは、若者は無知であり、年寄りは理解できないからだ。すぐ、「なんでやねん」と怒り出す。

人並み外れて、敏感であったり理解力がある人は、言動に注意しなければならない。周囲は鈍感な人や理解できない人ばかりだからだ。
しかも、その人達は、自分が無知であったり鈍感であるとは、考えていない。うかつなことを言えば、「変な奴、バカな奴」と、疎外される。
子供時代にイジメられるのも、こうした子が多いし、時代によっては、魔女や非国民、売国奴とされ、立場を危うくする。

ところが、この魔女狩りの知識を逆手にとって、自らを、人並み外れた者、選ばれし者だと、他者を否定するオウムのような独善カルトが横行したかと思えば、その後、そうした超能力者の物語が溢れ始めた。
つまり、多くの人が、みな超人だと思い、間違いに直面しても、自分の理解は正しいと信じる空気ができあがってきた。

そんな中、近頃、「売国奴」という言葉が誹謗語として、通用しているようだ。一昔前ならせいぜい、「亡国」までだったのだが。
「品格」が流行りだした頃に、危ういなと思ったのだが、とうとうここまで進んできた。
本当に、今の状況を見ていると、昭和初期だ。

千人と千人
映画「アーティスト」のコメントには、何でアカデミー賞か「理解できない」という意見や、逆にやたら「いい、いい」という意見があった。
同じ事は、由紀さおりの「1969」にも見られた。
「理解できない」は正直な感想で、「いい、いい」は裸の王様現象だ。

いずれも、自分の感受性を疑っていない。評判に対し、評価の裏事情だけに注目したり、評価を無条件で受け入れている。つまり、何も感じないコトに対し、自分の感性は疑おうとしていない。

良いとされる理由は何なのか、自分なりの感性と視点で、作品そのものの再評価をするところに、鑑賞の意味や楽しみ、思想の成長というものがあるのだが、独善が、向上心を閉ざしている。

状況の変化、世の変化も、わからない人にはわからない。
星が動けば起こることも、実際にそのことが起こっているのに、「何も変わりないじゃないか」と思う人がいる。
実際に起こっていることを指摘すると、「あ、そうか」と思う人はまだ良い方で、その現象の妥当性を認めない人は、作品より受賞の裏事情に着目する人と同じ事だ。

個人の運でも、悪い運については、「当たった、本当になった」と思う人は多いが、良い運に関しては「何も良くならない」と言う人が多い。良い事は当然だと思うからだ。不満と感謝は持ちようだ。

桐一葉落ちても天下の秋を感じない人は、木枯らし一号のニュースを聞いたらストーブを出す。
(感性放棄の、セントラルヒーティングは論外だが)