魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

基本能力

2012年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

かなり以前だが、コイン駐車場が現れた頃・・・
出庫する際、支払機に500円硬貨投入口しかない。
たまたま、そこに料金回収に来た人に、
「これは、お釣りは出ないんですか?」と聞くと、そうだと言う。驚いて思わず、「えー商売やなあ!」と、口から漏れてしまった。
すると、スーツは着ているが、いかにもそれ風のその人、
「どういうこっちゃ!」と、向き直って寄って来た。
「いやあ、うちも古家をどうしようかと思っていたところだから、これもいいなあ。おたくの会社で設置管理してくれるの?」と、名刺をもらって帰った。もちろん、こちらは渡してない。
対応の仕方を誤れば、「会社」のバックを笠に着た、「強い人」に、へこまされて、陰で、「あの会社はコレ(メ)でっせ」と、言って回ることになる。

薩摩力
先日、NHKのBS歴史館「生麦事件」で、薩英戦争後の薩摩の交渉人が、絶体絶命の薩摩に、大逆転の利益をもたらした話をしていた。

明らかな武力の差を見せつけられた薩摩は、強気で賠償請求を迫る英国代理公使ニールに対し、薩摩の重野厚之丞は、相手が喜び、こちらも得をする、「転んでもただでは起きない」交渉で、むしろ多くを得た。
これが、その後の薩摩を強くするきっかけとなる。

重野厚之丞のような人間が、尖閣や竹島でモメる今の日本に欲しいと田原総一朗が言うと、
専門家は、重野厚之丞のような人間は、海洋貿易で鍛えられた、当時の薩摩には普通にいた、それが「薩摩力」だと解説していた。

確かに、今の日本の外交交渉を見ていると、持ち出しばかりで何も得ていない。
肉を切らせて骨を切るような、「駆け引き」が何もない。
真っ直ぐな誠意だけで、相手が優しくしてくれると思っている。
「愚直」が、外交にも通用すると固く信じている。
それが通用しないと、「やっぱり、軍事力が無いからだ」と、短絡する。

「薩摩力」と、言われる重野の交渉感覚は、おそらく、薩摩だけでは無く、昔の日本人には、普通にあったものではなかろうか。
今のような、学校中心の教育では、現実感覚が麻痺してしまう。
パズルや将棋のような「学校技」の達人が出世する社会では、人間の嗅覚が失われる。

人間にとって最も重要なものは「欲」だ。自分が何を求め、相手が何を求めているのか理解した上で、共存の道を探る。そういう「人間力」が、学校では全く身につかない。言葉は解っても、感覚が身につかない。
イジメもこの共存感覚の欠如から起こる。

交渉術はディべートではない。交渉は相手を言い負かす「勝ち負け」ではなく、「得をした」と、喜ばすことだ。
誰でもお金は出したくないが、金額以上の得をすると思えば、喜んで金を出す。そこが商売のコツだ。

外交は生存を掛けた商取引だ。商売は共存共栄の信頼で成り立つ。
人類が繁栄した最大の能力は、信頼と分かち合いだと言われるが、それは、愛でも憎でもなく、分かち合うルール、取引のセンスであり、「商」の根幹となる人間力だ

人類生存の能力、共存のための「人間力」は、学校の勉強ではなく、遊びと生活から身につく。人間の能力は柔軟だから、置かれた環境で、どのようにも成長するものだ。

現代人に必要なものは多様だから、学校を否定するものではないが、昔、子供が家業を手伝っていた時代、子供が徒党を組んで遊び回っていた時代、自然に身についた人間の基本能力は、学校が発展するほど失われている。