魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

一即多・多即一

2010年01月23日 | 新鎖国論

近代国家は、産業革命パラダイムの基盤になってきた。
しかし、もはや、明らかに人類にとって弊害になりつつある。
国家間の調節をするはずの国連も、矛盾だらけで、国家連合、世界統一などの、役割を果たせないことが見えてきた。

もともと、権益のエゴのための国家が、和解し融合することなど大きな矛盾であり、初めから不可能なのだ。

先ず国家を解消しないかぎり、次の時代へは進めないが、現状を見れば、そんなことができるわけがない。
EUのように、近代国家を形成してきた国同士なら、利害を共にすることで統一が可能になるかも知れない。

しかし、アジアのように、いまだに「家」という血統主義のタテ型社会では、利害だけでは共存できない排他性がある。
大東亜共栄圏の発想も「世界は一家」であり、いずれかが、親であり、兄である、というタテ型の秩序意識が前提になっていた。

共産主義の看板を上げている中国でも、共産党が父であり兄であるという考え方は、帝政と何も変わらない。共産主義など、実はどうでも良くて、内に支配権、外に覇権の、タテ型構造さえ守られるなら、たちまち資本主義を取り入れる。

その単純で、露骨な雛形が北朝鮮だ。大国中国は自立するしかないが、北朝鮮は寄生とタカリで、氏族国家を維持している。大から小まで、アジアは頭が古代のままだ。

日本人は、日本は民主主義国家と信じているが、国の基本の戸籍も、完全な血統主義であり、やはりアジア頭であることはどうしようもない事実だ。何しろ戸籍そのものが、中国を見習った律令に根ざすものであり、千年以上も続けてきた。

こういう、アジアの氏族世界を統一するのは、強力な統治能力だと短絡するが、そんなことは不可能だし、互いに迷惑なことだ。

ここでまた持論だが、そんなにグループにこだわるなら、むしろ際限なく小さなグループに分けた方がいい。新鎖国論だ。

徹底したローカルは、グローバル化に直結する。(グローカル
情報化社会の発達により、地域は国家を必要としない。いきなり、世界に情報発信ができる時代だ。徹底した地域の充実こそが、世界レベルになれる。

治安と権力は地域で確立し、警察力も地域連合で考えればいい。これには例えば、西部開拓時代の保安官が参考になるかも知れない。
これまでの国家間の争いのようなものは、姉妹都市を強化した組織連携で複層的に繋がっておけば、利害や関係が複雑だから、いきなり集団がぶつかることはない。
近代国家連合の国連のような、国の寄り合いは、コツンと叩けばバラバラッと割れるが、小さな縒り合わせの塊は大崩がなく、どのような形にも収まる。

古代のポリス国家はそれぞれ軍隊を持っていたが、現在の近代国家が存在しているうちに、つまり、大きな治安に依存しながら、都市や地域、NGOなどの、人的経済的な関係を深め、警備会社を拡張した傭兵による軍隊を世界中に配備していく。
そして、いつの日か世界警察会社が、各国の軍隊を吸収する。

郵便局よりクロネコがアテになったように、警備会社が警察よりアテになる側面があることは、巨大警備会社が国軍解体を可能にすることが、まんざら不可能でもないことを暗示している。
これを強化させるためには、単なる会社ではなく、NGO軍の必要があるだろう。国境無き軍団のような。
国家戦争は反対でも世界警察は必要だ。