魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

まる見え(3)

2010年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

人類は文明の力によって、空を飛び、地球のウラ側の人と話しをし出来事を見る。そしてやがて、透視能力も身につけるだろう。

しかし、エスパーと言われる能力の多くは、元来、動物には備わっているもので、人間が言葉とひきかえに失ったものだ。
と、言うより使えなくなっている。だから、やむを得ず、文明の力でそれを行うようになったが、それには一長一短がある。

動物のように無手勝流にはできないが、空も飛べれば深海にも潜り、宇宙にまで進出する。だから、修行までして空中浮揚する必要は毛頭無い。

しかし、もし、動物の能力が残っている人がいればどうなのだろう。
近頃のSFアニメなどには、アンチ文明としてか、やたらそういう超能力人類が登場し、それに影響されたのか、修行すれば可能になると信じる人々がいたり、人類の進化として超能力が身に付くような幻想が信じられていたりする。

しかし、現在の環境から見れば、進化して、超能力が身に付くとはあまり考えられない。むしろ、シッポのある人がいるように、退行としてなら考えられる。

人の心を読める人がいたとしよう。
アニメなどではよく、その能力を知られると抹殺されるため、隠している人たちの話がある。
こういう話の二つの虚構は、
一つには必ず抹殺されるとしているところで
そんな素晴らしい能力は、見せ物にはなるかも知れないが、必ず抹殺されるという根拠が希薄で、むしろ作者の差別観や閉鎖性が感じられる。
もう一つは、
実際にそんな能力の子供がいたら、神童か、逆に何らかの精神障害として扱われてしまうだろう。つまり、物心が付くまで、能力を隠して成長することは不可能だ。
世の中の精神障害とされている人には、多分に、この可能性がないことはないと思う。

動物のように人の心を読めるとは、「事態を知る」ことであって、心を言葉にして読むわけではない。心は言葉ではないからだ。
相手が、『おまえはバカだ』と思ったとして、その言葉が聞こえるわけではない。そう判断している感情が伝わるということで、この段階の能力は、相当多くの人が持っているだろう。

心を読める人とは、
この感情を的確に言葉に置き換えられる人のことだ。しかも、感情的なことだけではなく、論理的なことまでも感情的に理解して、もう一度、論理的な言葉に直す能力のある人だ。

これだけの能力がありながら、一度もトラブルなく成長することは不可能だし、またそれだけの論理思考ができれば、他人とは違う結論を出す自分を、先ず疑い始める。

もし、自分の考えは正しいが、信じてもらえないから黙っておこう、と考えるなら、それは自己中の幼児性であり、他の面において大人として社会生活をしていくことができない。その考え自体も疑わしく、単なる独善の可能性が強い。

他人の心を読み、自分に対して客観性を重んじる人は、超能力者としては存在できない。もし、自分は超能力者だという人がいれば、もうそれだけで信じる必要がない。