魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

東(笑)西

2006年12月08日 | 京都&ケンミン文化

TVを入れると何の番組か、関東出身のお笑い芸人ばかりが楽屋で「身体の一部をサイボーグにするなら」と話していた。脳を替えるとどうなるとかで盛り上がろうとしているところに、遅れてやってきた関西芸人「う~ん、オレなら陰毛やな」の一言で、パーンとひっくり返してしまった。

関東の笑いは、元来、理屈っぽい。「星の王子様です」とか「うちのばあやが」など、秩序概念の裏返しに過ぎない。上沼恵美子がNHKで関東にうけたのも、この関東流の笑いを「うちの大阪城」などと破天荒に拡大したまでだ。これにくらべ、関西は「面白けりゃエエんかい」の世界だ。

笑いというものは固定概念の崩壊にある。いかに固定概念を崩すかだから、お笑い芸人とはむしろ固定概念の塊であり、価値観は極めて保守的だ。自分の中の固定概念をひっくり返すことで笑いに変えている。
小さなひっくり返しはダジャレだが、関東の笑いは「バカヤロウ」を連発する偽悪や。論理のひっくり返しだ。つまり、関東はもともと論理と秩序が支配している。
しかし、大阪のように笑いを追求する町では、生半可なぶち壊しでは通用しない。論理を超えるシュールな空間こそが関西の笑いだ。
昔は、真面目な関東人にはこの笑いが通用しなかったが、TV社会で関東人にもかなり解るようになってきた。しかしそれでもコテコテの関西芸人はいまだに理解されないだろう。

サンマがうけたのは、いじり芸でTVの中の人物をいじり、解りやすかったからだ。九州人のタモリは芸能界(村)をいじった。
タケシの笑いは実際のところ関西人には理解できない。関西ではタケシのことを、始めからお笑い界の重鎮として遇していた。つまりそうとしか認めることができなかったからだろう。有名な「赤信号みんなでわたれば怖くない」も、論理の実体を問うもので、やはり理屈だ。

極論すれば関東には笑いがない。関西人が笑いに癒しを求めるのに対し、関東で好まれてきたものは人情話や美談など、涙の癒しだ。関西人の夢は庶民の平和だが、関東人の生き甲斐は自然や権力など、秩序へ馴染むことへの納得だ。だからぶち壊しの笑いは生まれない。

 

東男に京女
そうした関東人に重要なものとして「男気」がある。これは九州男児のように声高な看板ではない。武士道の静かな源流だ。人は自分にないものを理想やスローガンとして声高に叫ぶが、西に行くほど「男、男」とよく耳にする。関東人は男や武士道をあまり口にしない。実体がすでに男の世界だからだ。

では男の世界とは何かと言えば、単純、沈黙、無愛想、誠意・・・といった不器用者の世界だ。集団より個人を重んじ、金や名誉の欲がない。勝海舟には薩長の重鎮のような人間くささや郎党意識がない。それどころか、江戸っ子に限定すれば、存在を消すのが江戸の美意識だ。「田舎者」には解らないことだが、立身出世など恥ずかしいことなのだ。江戸っ子が世に出るのは出ようとしてではない。自分の道を追求した結果だ。エラくなっても決してエラぶらない。江戸っ子が偉そうに見えるとしたら、見る側の眼鏡の問題だ。

関東人の男同士の世界、長屋の悪ガキのような世界は・・・例が多すぎるので止めるが、声が小さくサッパリしていて臭いがない。タケシや唐沢寿明など「格」意識ではなく、男同士に生きる典型だ。
もちろん、この感性は女も同じで、集団におもねらない個人の心意気は「いいやつ」の印象が強く、因習的な「女」のいやらしさが無い。高木美保、天海祐希はどちらも獅子座だが、顔立ちが似ていて浮世絵の美人画のようだから、きっと江戸美人とはこうした顔だったのだろうと思う。

美人と言えば「京女」のようなイメージがあるが、これはビミョウだ。東男に京女は外見のことではない。東男の「男気」に対して、京女は「芯」の強さだ。栄枯盛衰、千年無常の都で、実利を見極めて生き抜いてきたおなごの生命力こそが京女の真骨頂。魅力だ。
京女の典型は横田早紀江さんだ。どういう人かは知らないが、外見、態度、言葉・・・京のろうじ小路のどこにでもいそうなフッツウーの京都人だ。声を荒らげず、あくまで夫を押し立てながら正念場で絶対に引かない。こんな事件がなければかわいい冗談を言いながら穏やかな人生を送っていたはずだ。ブッシュに「グレート・マザー」と言わしめたのは、決して政治的駆け引きだけではないだろう。