魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

誠実バカ

2013年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

淡路島、宮城沖、三宅島と、地震が連続したので、マスコミが心配するのに対し、専門家は、プレートが違い、違うメカニズムで発生しているから、特別の心配は要らない。と、言っていた。
確かに学術的にはその通りだろう。社会不安を鎮めるためにあえて勇気を持って言ってもらっているのかも知れない。

しかし、学術、技術や、政治責任に拘ると、一番大切な「現実認識」が無視されてしまうことがある。知見を越えた目で見れば、「将棋崩し」の相互影響は子供さえ察知する。
専門家が、自分は「何のため」の専門であるかを忘れてしまうと、本末転倒になってしまう。
「手術は成功した。だが、患者は死んだ」

完璧に責任を果たすことより、トータルにベターな結果、最良の道に導くことが、あらゆる専門家の使命であるはずだ。
そういう意味で、社会的権威を帯びた専門家には、自分の「専門の立場を否定してでも最良の答えを出す」ことが難しくなる。

同じ事は、この反対の立場の占い師のようなものにも言える。
権威を帯びた学者のような存在は、その裏付けとなる「権威」を壊さないことに最大の関心がある。
逆に、社会的権威の無い占い師は、権威をつくらなければならないから、最終権威のように強く断言する。これがまた、世の人を惑わし、同時に信用を失わせることになる。

市民権のある専門家が、権威を捨ててでも、不確かな見識を吐露するところに真実性が存在するように、逆に、妄言タバカりと見られる類の者であっても、真摯な「可能性」を追求する中に、真実性が生まれてくるのではなかろうか。

早い話、バカと思われても、人のために何を言うべきか、それが使命というものだろう。


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