魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ロボット大国

2009年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム

体験自慢をする人がいる。
読書量を自慢する人がいる。
記憶力自慢をする人がいる。

昔から、「論語読みの論語知らず」という言葉があるが、
「それだけの経験と博識があって、出てくる知恵はそれだけか」と言いたくなることがよくある。
知識量と知恵は、ほぼ全く関係ない。

同じ現場にいても、多くを悟る人と、全く悟らない人がいる。
「一を聞いて十を知る」人と「十を聞いて何も悟らない」人がいる。

昔の「一コマ・マンガ
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ルーバー・ドアの向こうで、裸の女性がシャワーをしている。
二人の男の想像が、それぞれ頭から吹き出している。
一人は裸体を想像して興奮している。
一方の男の頭の中は、見たまま、
女性の断片が格子状に並んでいるだけで、ぼーっとしている。
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タイトルは「想像力の貧困な男」

実際にはこんな男はいないからこそ、マンガになる。

裸の女を見たいという欲望が強ければ、想像力はルーバーの形や色を突き破って、女体の前に立つことができる。
しかし、正確さにこだわると、見た物しか見えなくなる。

記憶力の教育
ひたすら知識を収集していると、想像力が劣化する。
何のためにそれをしているのか忘れてしまう。
記憶力中心の日本の教育は、正確な記憶を尺度にしている。
だから、知識活用のコツを教える専門家に金を使えば、記憶力で優秀校に進学でき、それが教育格差となる。
知識を競うクイズ番組に、世間は感心する。
今、問題になっている漢字検定も、そこにつけ込んだ悪徳商法だ。

日本はそんな「論語読みの論語知らず」に支配されている。代表は官僚だが、政治家を始めとして、知識層と言われる大半がそうだ。
知識が豊富で正確、理路整然と語る人でなければ、社会的信用を失う。

文明国で特に日本だけというわけでもないが、日本の場合、東洋的タテ思考と、日本ならではの様式美がこれをさらに増幅する。

ノーベル賞の小林・益川理論誕生の経緯を聞いて、これは決して一人では生まれなかった例だろうと思った。
小林氏の日本的な知識論理の周到さで、益川氏の原石を磨き上げた成果ではないかと思われる。
日本にはどの社会にも小林氏はいるが、益川氏は少ない。と言うより、益川氏のような天衣無縫は、バカ者扱いされて始めから相手にされない。極めてまれな研究室があったから生き残った。
ありがたや」0709

ノーベル賞をもらったから益川氏を「面白い人」ですませたが、当初、「日本的」マスコミは、またも「言動」を問題視しようとした。
何事においてもすべて、出る杭を打とうとするマスコミも、それを喜ぶ国民がいるから、なおさら悪のりする。
「記憶力と均質な正確さ」以外を許さない、ロボット大国日本は、人間がロボットになっている。

中学生の気象予報士が話題になった。
これを特別のことのように、日本のマスコミも国民も驚いた。
これは、少しも特別なことではない。
子供の多様な可能性は無限だ。

興味のあることを好きなようにやらせていれば、100人に1人ぐらいは、「おどろくべき」成果を上げるだろう。
学校教育で均質化を図ろうとしたり、天才教育をしたりしなければ、これしきの「天才」はいくらでも現れる。

好奇心は、教育という「意図した」理解と知識のレベルを超越する。
産業革命パラダイムの、人間製造を続けていたのでは日本に未来はない。


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