魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

観大局観

2012年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを書くのは、占いの客集めや占い教室でも無ければ、アフィリエイトで稼ぐためでもない。
売名のためでもなければ、予言でも洗脳でもない。

筆休めに、どうでも良い私事も書いているが、本来の動機は、
世の「まっとう」な論理や知識とは違う、アウトサイダーである占いを通した「岡目」の視点を、知ってもらいたくて書いている。

この場合の占いとは、「学」ではなく「術」のことだ。
「学」としては、論拠とする資料も裏付けもないが、「術」として、実用の観点で物事の実体を見る視点を書こうとしてきた。
「術」は「すべ」と読むが、理屈も論理も関係なく、生きていく上で実際に必要な、手がかり「生きるすべ」とは何か、を考えてきた。

地震学者は、阪神大震災も東日本大震災も予測できなかった。
これは決して地震学者だけの失態ではない。原発も政治も経済も、そう言えば語弊があるが、むしろ人心を惑わす害毒ばかり流している。
なぜなら、社会的なよりどころとされるものが、社会に資するという目的を忘れて、自分の世界(専門バカ)に埋没しているからだ。

責任を全部政治家に押しつけて、やりたい放題の官僚も、「根拠」だけにこだわって、財源のつじつま合わせの「増税」に終始し、何一つ経済発展に資することを考えない。

銀行に商売の資金を借りに行くと収入状況を問われる。金が無いから儲ける商売をと金を借りに来た者に、返済の「根拠」が無ければ金を貸さないと言う。しかも、その根拠とは、既に実在する現金のことだ。
確かな「根拠」にこだわると、「可能性の芽」が失われる。

地震予測が出来ないのは、根拠にこだわって、大局観を失ったからだ。
優等生が動かす社会は「当たり前のこと」しかできない。
優等生とは、答えのない答案が書けない人間だ。

占いの視点は大局観だ
根拠が無くても、説明が付かなくても、現実に起こることを想定する。
横断歩道を旗を立てて渡れば安全だ、と思うのは小学生までだ。
誰でも解る理屈で出る答えなど、始めから用意された仮答案だ。
「根拠は?」「根拠は?」と、言っているうちに、M9は起こり、原発は破壊された。

動物的な常識、「大局観」で、考えれば解ることが、知識や理屈で見えなくなってしまう。

ゴミ処理ができないのに、際限も無く廃棄物を出し続ける原発
スマトラ、四川と、地球の大きな息吹を見ながら、それは日本には関係ないと思う、学者や政治家。
円高が続けば、「円高は収まらない、1ドル50円台もある」と言っていた経済学者や証券マンは、円安になり始めた途端、「流れが変わった」と、平然と言ってのける。(ハイエナ因果因縁2仕切り直し

こんないい加減な「専門家」の言うことを聞いていては、笛吹き男に連れられて、海に沈むしか無い。
かと言って、マスコミやネットの、休むことの無い「危険情報」に踊らされていれば、ストレスで死んでしまう。

真に占いが目指すのは、雑念に目を閉じ、現実を見通し、真理を看破する意識「大局観」だ。
そして、さらに大切なことは、占いそのものを騙(カタ)る「偽物を見抜く目」であり、それもまた、大局観によって遠ざけることができる。

こうした大局観は、誰かに提供して貰うものでは無く、一人一人が自分で持つものだ。
漠然と、そんなことを言いたくて書いてきたブログだが、さすがに少し疲れたようだ。

まだまだ、言いたいことや書きかけたことは際限なくあるが、
バカの考え休むに似たりだ。 どこまで行っても独り相撲だろう。

パクパク パクパク  チーン  Ω\ζ゜)