魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

超大災害

2012年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災から一年。千年に一度の大震災、大津波は、いかに地震になれている日本人でも、にわかには受け入れがたい。
しかし、地震だけなら、日本人は何としてでも立ち直るだろう。
この超大災害の「核心」は、文字通り原発だ。

そして、それを招いたのは、誰か個人や一企業の責任では無い。
日本人の生き様の総体であり、日本に住み、日本人として生計を営んできた一人一人の責任だ。

日本人が政治家を選び、電気を求める企業で働き、そこで稼いで、消費し、その消費でまた稼ぐ。
誰一人、原発の恩恵を受けてなかった人はいない。多くの人が原発を誇り、反対する人がいても、非常識と白い目で見ていた。

ところが、原発災害が起こった途端、国民一人一人が反省するより前に、犯人捜しが始まり、火の付いたように原発反対運動が起こった。
後も先も、これが同じ日本人であることを心にとめないかぎり、これから先も「愚か者の船」は、さまよい続けることになるだろう。

しかし一方、大自然災害と放射能の恐怖の中で、日本人以外の誰が堪えることができるだろう。誇っていいと思う。
もし、他に堪えられる国民がいるとすれば、おそらく、同じ島国のイギリス人ぐらいのものだろうか。

グローバル視野と故郷回帰
原発の問題は、技術ではない。原発は始めから発展途上の技術だ。
問題は、「欲」がそれに封印をしたことだ。
日本人の生き様の責任は、すべて「欲」にある。土建、農水、福祉・・・産官のがんじがらめの利権のアリ塚に、寄ってたかって棲息してきた。

官僚を非難しながら、一流校、一流企業を目指し、あわよくば官僚となり、さもなくば、企業で献金し、天下りを受け入れ、福祉をせびり、原発を始めとする「国策」のおこぼれに預かろうとする。
この大きなアリ塚の中で、誰一人、アリ塚を破壊しようとしなかった。

日本人はすべて被害者であり、同時に加害者だ。自らの生き方そのものを反省しない限り、この超大災害を克服する道は無い。
終戦から66年。再びの「一億総懺悔」だ。

しかし、この途方も無い事態が、未だに日本人には見えていないようだ。
単なる、巨大地震、巨大津波、原発事故レベル7ではない。あまりにも途方も無い事態なのだ。
贅沢、放蕩三昧で暮らしていたら、ある日突然、借金取りが来て、すべて差し押さえられ、たたき出されてしまった。

路上で、どうして良いか分からず、ボー然と立ち尽くしている。
こんな時こそ、甘い言葉で近づく人間には警戒しなければならない。
ハゲタカは瀕死の時に寄ってくる。

夢のような話は無い。邯鄲の夢の栄華は忘れて、ふるさとの田舎に帰ろう。荒れ果てた田畑を耕せば、貧しくとも満たされた日々が来る。
敗戦と原発の工業立国は、明治維新で故郷を捨てた時から始まった。
今、あるべき維新は、廃仏毀釈の明治維新ではなく、むしろ、仏法の江戸開闢だろう。

王政復古で律令制に帰したことが、中央集権の官僚の横暴を生んだ。連邦制を言うなら、むしろ幕藩体制だ。今さら、天皇を国家元首に据えようとする矛盾は、グローバル視野の欠如としか言いようが無い。