goo blog サービス終了のお知らせ 
転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日は、頼山陽 史跡資料館の第110回展示
『女筆~頼山陽をめぐる女性たち~』を見に行って、
きょうはその感想などをここに記録しておこうと思っていたのだが、
昨夕、広島市内には、それどころではない事件が起こってしまった。
吉島町の刑務所から、受刑者が脱走するという出来事が、あったのだ(O_O)。

広島刑務所の中国人受刑者脱走 警察庁が特別手配(中国新聞)

それは昼過ぎ、私が、頼山陽資料館を見終わって満足感に浸りつつ、
呑気に帰りのバスを待っていたときだった。
携帯が鳴り、見たら娘の高校のPTA役員時代のお仲間からのメールで、
『さきほどA校からメールが来ましたが、ご存じでしょうか?
吉島刑務所から脱獄者が出たので、警察から下校時の指示があるそうです
(保護者が学校に迎えに来られるなら、生徒は4時10分以降に下校可)』
と書いてあった。ぬゎんですと(^_^;!?全然知らなかった!!

娘の学校の緊急連絡は、電話連絡網とメールとの二段構えになっているのだが、
メールのほうは、携帯・パソコン利用に個人差があるので登録者のみが対象だ。
私は実は、当初メール登録を希望していたにも関わらず、
ID登録だかパスワード設定だかの案内が学校から来たときに、
娘がそのプリントを私に渡し忘れて、気づいたときには登録期間が終わっていた。
私は怒ったが(^^ゞ、幸い、メール登録有無に関係なく電話連絡網は全員にまわる、
とのことだったので、まあ仕方ないかと、以来、放置していたのだった。
しかしこんなことなら、やはり学校に申し出て、
後からでもメール登録をやり直しておくべきだった。
外出先でこのような緊急連絡を受け取ることだって、あるではないか。

知らせをくれたママ仲間にお礼のメールを送信し、重ねて訊ねたところ、
『本日は放課後の部活その他無し。4時10分以降、下校可能。
保護者が迎えに来るまで中学部の生徒は教室待機。
高校部は5時まで待って保護者が来られなければ、友人と一緒なら下校可。
遠方の生徒については、広島駅・広島バスセンターまでは教員引率あり』
という段取りだと判明し、私は一旦、自宅に戻ったあと、
改めて出直し、4時10分に学校に向かった。

学校敷地内には、たくさんの乗用車が次々と臨時に乗り入れていて、
先生方が保護者の誘導のために、道路にまで立っていらした。
正門を入ると、学年ごとに受付があり、そこで名乗ると、
名列表にチェックが入り、トランシーバーで放送室に連絡が行き、
「○組○○さん」と放送で生徒の名前が読み上げられ、
呼ばれた生徒は出てきて、保護者と合流、受付に申し出て下校、
ということになっていた。……はずだったのだが(^_^;。

私は首尾良く4時10分には受付に行って名乗ったのに、
娘は全然、出てこなかった。
『まだですか、まだですか!』と即座に騒ぐのは恥ずかしいと思って、
私はそのまま、顔見知りのママ仲間と喋りながら、
昇降口のよく見えるグランドに立って待っていたのだが、
後から来られた方々がどんどん娘さんと巡り会って帰って行かれるのに、
うちの娘はどうしたことか、全く姿を現さないのだった。

見れば、校舎の三階の、高校部2年生と思われるいくつかの教室からは、
生徒さんたちがたくさん顔を出していて、こちらを見ながら盛り上がっていた。
顔までは判別できないほど距離があったが、
いずれの教室も、えらく楽しそうであることはわかった。
それで私はついに意を決して、受付の先生のところに再度、行った。
「あの~、すみません、転娘の母ですが、30分待ってるんですがまだ来ません」
時計は4時40分を過ぎようとしていた。
「えっっ!!そりゃ、呼ばれたのに、聞いてないんじゃないですかね!!」
と先生も私と同じことをすぐお考えになったようだった。

それで繰り返し呼んで貰い、とうとう、それから5分くらいして娘が出てきた。
「こんなにお母さんらが集まることってないからさ~、皆で上から見てて、
すごいねー写真撮りたいねーって、みんなで言っとったんよ~(^^)。
写真部とかさー、取材すればいいのにねって。
んで、うちはね、5時まで待って迎えに来てくれんかったら、
○○ちゃんと帰ろうって言っとったのに、○○ちゃんのほうが先に帰っちゃってさ♪」
と娘は私を見るなり、上機嫌で言った。どんだけ脳天気なんだよ(--#)。
ふっ、○○ちゃんのお母さんは私よりずっと後に来られて、
ちょっと前まで、私はそこで一緒に喋っとったわ(--#)。
「えー、ごめ~ん!!だって中は喧しくて、呼ばれても聞こえんかったも~ん(^^ゞ」
大話(=「おおばなし」。広島弁)するからだ、あーたらが(--#)(--#)。

昨夕は、そういうわけで近辺の小中高はほぼすべて一斉下校になったので、
夕方の市街地は各校の生徒さんや保護者で溢れ、
緊急配備の警察官が尋常でない人数だったお蔭もあり、
吉島の刑務所界隈からこっちは、結果的には非常に「安全」な状況になっていた。
残念ながら、今朝までの段階では良い進展は無かったようで、
娘たちの学校では、きょうも早朝登校や部活の朝練は中止となり、
駅など市街地の何カ所かには、朝から登校指導の先生が立たれていた。
まったく、広島刑務所も大失態だ。
こんなことで広島が全国ニュースになるなんて。

Trackback ( 0 )




「タコが2匹います。それぞれ足は8本あります。全部で足は何本ですか?」。
算数のかけ算の単元で、こういう文章題が出されたとき、
小学校では、式としては8×2のみが正解で、
2×8で考えると、全く点数を与えられないのだそうだ。
私は、齢47にして、初めてそれを知った。

理由は、「8本の足を持ったタコが2匹いる」ときには、
それを表現する式は8×2以外には存在しない、
と(少なくとも小学校では)考えるからだそうで、
もし、この問題の解法として2×8という式を書いたなら、
それは「2本の足を持ったタコが8匹いる」という意味合いに、
答案上、なってしまうのだそうだ。
……なぜそうなる!?「×(『かける』)」の記号ってそんな意味だったっけ?
2匹って問題文に書いてあるのに、なんで突然、読み替える話になるの???

算数で習うときに、かけ算の順番によって、
言語的な意味がこれほど限定されるものだとは、
申し訳ないが今まで知らなかった。
私は、そのようには習わなかった。
「2匹のタコ、両方とも足は8本ずつ」(2×8、数量×単価)だろうが
「足8本ずつ持ったタコが、2匹」(8×2、単価×数量)だろうが、
どっちの発想で考えても同じだと私は思っていたのだが(汗)。
ここに区別を設定しておかないと、後々の学習で何か大変なことにでもなるのか?

かけ算に交換法則が成り立つ(=かけ算に順番は関係ない)
というのは、高校数学にもなれば当然の前提で、
行列の積みたいにこれが通用しないもののほうが例外的だった筈だ
追記:「行列」は、今や高校3年で、しかも理系でないと習わないらしい。
私達は文理問わず、高校2年生の履修範囲だった。田舎の県立高校での話だ。
IT時代になる前は「情報」などの単元が無かったぶん、暇だったということか?)。
大学入試のための、記述式の数学で、証明としての式を書くときに、
減点されないようにかけ算の順番に注意を払っていた、
などという経験は、私には皆無だ。

しかし、教育にはある意味、流行があるものだと思う。
もし、文章題の解き方として、かけ算の式の順序にルールを設けることで、
子供たちにとって文章題が、よりわかりやすいものになったのであれば、
方法論としては、進歩したことになるだろう。
私は小学校の現場で算数を指導した経験は全くないので、
よく知らないことについては、とりあえず敬意を払いたいとは思うのだが、
このような規則が、小学校でこれほど厳格に徹底されているというのは、
指導上、非常に有益なものが何かあるということなのだろうか。

この疑問に答えてくれるサイトは無いのかと探していたら、
またちょっと違うものに出会ってしまった(笑)。
小学生のお子さんの算数について書かれた、お父さんのブログだ。

嫁と子供にまけるな! 算数で父親の威厳を示そう。

この娘さんの、小学校4年生のときのお話によれば、
正方形の面積の求め方は、『たて×よこ』では駄目で、
『一辺×一辺』と書かなければ点数が貰えない、とのことで、
まあ、習いたては特定用語の使い方を徹底させることが優先だろうな、
とこれについては私は同意できたのだが、
同じく正方形の面積の求め方として、『対角線×対角線÷2』と書いたら、
はっきりバツをつけられてしまった、という件に関しては、
どうにも賛同できないものを感じた。
「最善」以外の解法は全てバツにして排除する、
というのは数学の考え方ではないだろう。
先生は、『対角線×対角線÷2』にも一旦マルを与えたうえで、
必要なら『一辺×一辺』を並べて書き加えて、示すべきではなかったか。

長方形の定義は「4つの角がすべて等しい四角形」なので、
正方形は当然、長方形に含まれる
(長方形のうち四辺の長さがすべて等しいものが正方形)。
だから正方形も長方形も全く同じに、面積は『たて×よこ』、
と頭の中で考えていたって、本当は構わないのだ
(更にツッコむなら、どこが『たて』でどこが『よこ』なのか自体、
長方形本人(^_^;の与り知らぬところだ。斜めに置いたって長方形なのだから。
ここでも交換法則は有効で、『よこ×たて』で計算しても問題は起こらない)。
更に、ひし形の定義は、「4本の辺の長さが全て等しい四角形」なので、
正方形も勿論これに属する(ひし形のうち、4つの角がすべて等しいものが正方形)。
だから正方形の面積の求め方は、『対角線×対角線÷2』でもいい。
イの一番に覚えるべき公式ではないとしても、バツをつける理由は無い。

私は実際に小学校でそのことを習ったのだ。
ひし形の面積の求め方を勉強したときに、同じクラスの男の子が、
「じゃあ、正方形も対角線の長さが一本わかれば面積が出せるんやね」
と発言し、先生に大いに褒められたから、私はそれを覚えているのだ(^_^;。
そして先生は、少し前に習ったベン図を書いて、
長方形と正方形とひし形の関係がわかるよう図示して下さったものだった。
当時のクラスでは、教科書に出ていない自分の解き方を提案すると褒められた。
仮にそれが、未完成なものであったとしても。

ここまで書いて、わかった。
私がモヤモヤしているのは、要するに「すぐバツにする」という狭量さに対してだ。
『8×2と書いて「8本足のタコが2匹」と読む』、
『正方形の面積の求め方は「一辺×一辺」』、
指導されている、これらの考え方自体は、完全に正しいのだ。
これらを「理想型」として最初に提示することについては、異論は無い。
一度にあれもこれもと、全部の可能性や解法に触れる必要もないことだろう。
それよりも、モデルとは異なる段取りで考える児童・生徒がいたときに、
「それはバツ。正しい考え方は、こっちだけ。模範以外は一切認めない」
と頑ななまでに拒否する気配があることに、私は違和感を覚えるのだ。
後々誤答に結びつく「悪の芽」、とも思えない僅かな発想の違いではないか?
正答はひとつでも、そこに至る解法は各自の考え方次第で様々に分かれる、
というのが数学の面白いところだと私は思っていたのだが、
小学校の間は敢えてそれを認めないほうが、
子供たちの理解のためには良いのだろうか?

Trackback ( 0 )




昨日は「成人の日」だった。
広島市では、西区の広島サンプラザを会場に、
「成人祭」として式典とイベントが行われたようだ。
大人の自覚胸に決意新た(中国新聞)

私自身は、成人式には全く接点がなかった。
二十歳になった年には、東京で下宿生活をしていて、
後期試験が1月下旬に迫っていたから勉強が忙しかったし、
成人式だけのために広島に帰ることは、時間的経済的に無理だった。
周囲の友人達の間でも、式関連のイベントのために帰省する人は、
ほとんど居なかった気がする(当時は1月15日に固定されていたせいか?)。

世間で成人式というものがあるのは、テレビでも観て知っていたが、
両親もそんな話は全然していなかったし、
私自身、振り袖や写真撮影等々は、自分のことだとは思っていなかった。
世の中には、あのようにしてお祝いする人たちもいるのだな、という認識だった。
……もしかして、うちの村は田舎過ぎたために、戦後の習慣である成人式などは、
昭和50年代にはまだ、村人の間に定着していなかったのではあるまいか(爆)。
少なくとも、もしパンスーの祖母(私の父の母親)に、
「1月15日って何の日ですか」
と訊いたら、「とんど」「小正月」「御田祭」しか出て来なかっただろうな(^_^;。

しかし、最近になってインターネットをやるようになってみると、
成人式というのは、なかなかのイベントなのだとわかった。
どこの家でも、娘がいれば、振り袖を着ることや前撮りに行くことは、
当然のように巡って来る楽しい一大行事のようだし、
男女問わず、新・成人たち本人も、同窓会的に成人式の日を大事なものと考え、
何を着るか・誰に会えるかと、楽しみにしているようだ。

試しに、(広島の市街地育ちである)主人に訊いてみたら、
「いや、わしも成人式なんか行っとらんが」
ということだった。
してみると、成人式が遠いものだったというのは、
必ずしも、私の個人的な体験の範囲の話ではなくて、
私達が二十歳だった頃と今とでは、やはり多少は、何かが違うのかもしれない。
例えばバブルの頃にでも、急激に成人式イベントが拡大・活性化したとか?

ともあれ、そういうことならば。
今、16歳の娘はおよそ三年後、成人式に出なくてはならないのか。
3月生まれの娘は、もしかしてお友達より一年遅れになる?と一瞬思ったが、
最近は対象者の年齢を学年で区切る方式になってきており、
『前年の4月2日からその年の4月1日に成人する人を式典参加の対象』とするようだ。
これなら娘は今の高2の皆と一緒に成人の日を迎えることができそうだ。
ということは、娘が対象者になるのは、……2015年1月?合ってる(^_^;??

記事の写真を見ると、女の子は和装が大半であるようだ。
うちには姑の残してくれた着物が山ほどあるが、
付下げと黒留袖と大島、あとは男踊りをするための舞台衣装で、
振り袖は無いから、レンタルしかないだろう。
娘は「七五三」以来、草履なんてものを履いたことはないと思うのだが、
振り袖など着て、一定時間、立っていたり歩き続けたりできるものだろうか。
指の股が相当、痛いだろうな(爆)。
ほぼ間違いなく、トイレには行けまいと思うのだが(爆爆)。

Trackback ( 0 )




ウィアが男性と結婚=フィギュア男子(時事通信 1月4日(水)11時42分)
『男子のジョニー・ウィア(写真=11年1月)が12月30日に恋人のロシア人男性と結婚した。同選手の代理人が3日、明らかにした。ニューヨーク州では昨年、同性婚を認める法律が施行された。』

オリンピックのときにここで話題にしたように、ウィア選手の演技は実に優美で、
あれ以来ずっと、私は彼の名を忘れていなかったのだが、
このほどロシア人男性とご結婚とのことで、心よりお祝いを申し上げたい
(大ファンというほどではなかったし、ファンレターも書いたことがないが)。

この話が出る前に、たまたま某友人と意見の一致を見たことなのだが、
同性・異性を問わず、「人生をともにするパートナーを得る」のは、
誰にとっても、本当に幸福なことであると思う。
「この人となら!」と思える人に巡り会うというのは、
人生でそう幾度もないであろう、奇跡のように素晴らしいことだ。
例えば、自分の身近な人や我が子が、そういう人に出会ったときに、
偶然に相手が同性だったとしても、私はそれを否定する気持ちは無い。
そもそも、巡り会ってさえも、人生には様々な障害も転換点もあり、
ままならないことがいくらでも起こるのだから、
同性婚・異性婚いずれにしても、結婚という段階まで行き着くこと自体、
努力を超えた、多くの幸運に恵まれた結果だろう。

『出会いです
幾千万の魂の中から ただ一対が向き合った
あなたがたの 出会いです』
という言葉が、『エースをねらえ!』にあったのだが(笑)
「一対が向き合う」ことの幸福は、誰にも否定できるものではないと思う。
向き合ってしまうものは、どうしたってそれを止めることはできないし、
向き合っていないものを努力で向き合わせるというのも、大抵は不毛だろう。
まあ、中には、テキトーに一緒になっただけなのに結果オーライだったとか、
逆に、我慢を重ねて折り合えるようになったという関係もあり、
「向き合い方」も様々で、奇々怪々な面があるとは思うけれども……。

ただ、同性婚が完全に異性婚と同じ扱いにはなり得ない、
……或いは、同性婚がマイノリティであり続けるしかない大きな理由は、
同性のカップルだと、生物としての「種の保存」「繁殖」という面で
そのままでは全く力を発揮できないからだと思う。
その点で同性婚は、異性婚における「望んだが子供は授からなかった」とか
「様々な理由から積極的にDINKSの生活を選択した」などというケースとは、
結果は同じに見えても、出発点の段階からして既に全く異なっている。
ヒトという種として許容し難いのは、この点だけではないかと私は思っている。

Trackback ( 0 )




腹具合と頭具合
昨日の私は、朝から明らかに、お腹の具合が悪かった。
ここ十日ほどとても快調だったのだが、さすがに冷えと疲れが出たか、
……と思って、できるだけお布団に入っておとなしくしていた。
癒着の一件が頭にあるので、悪化させてはいけない、の一念だった。
しかしきょうもまだ、完全に良くなったとは言えない(汗)。
同じく娘も、ここ数日お腹がゴロゴロで、そのうえ咽喉痛と鼻炎もあり、
冬休みの寒い旅行と不規則な生活とが祟ったのではないか、という感じだ。
娘は昨日から三学期で、初日から早速、休み明けテストが始まった。
昨日は国語と日本史、連休を挟んで来週火曜に残りの科目があるそうだ。
しかし娘はあまり気に病むこともなく、きょうは仲の良いお友達に誘われて、
紙の魔術師 太田隆司 展 ~絆の情景~』を見るために、朝から出かけた。
腹具合はもういいのか、試験勉強のほうは大丈夫なのか(笑)。

現代語訳
娘は今、学校の現代文で習った夏目漱石『こころ』にハマっている。
一学期には中島敦『山月記』に夢中になっていたが、
こうしてたまに、というか希に(^_^;、授業のお蔭で知ることのできた名作、
というのが彼女にはあって、喜ばしいことだ。
娘の読解力に関しては、私はかなり疑問を感じる部分があるのだが(爆)、
それでも彼女なりに、「面白い」と思える作品に出会えるのだから幸福なことだ。
冬休みの課題のひとつには、森鴎外『舞姫』があった。
井上靖による口語訳のほうをまず読んで、内容を把握するというのが宿題で、
三学期の授業で、鴎外の本文を読むのだそうだ。
『舞姫』自体は文語体だが古文ではないので、極端に難しくはない筈なのだが、
それでも、もはや「訳」がないと、若い世代には読めない時代になった。
言語の変遷というのは、そういう意味では早いのだなと思わずにいられない。
そういえば以前どこかの掲示板で、「『山月記』の現代語訳はありませんか」
という書き込みを見かけたことがあった。
中島敦のは昭和の作品だ。現代文の現代語訳とは何なのだ(^_^;。
IT時代以降、言語の変遷も倍速になったか。……いや、つまり釣りだったのかな。

チケット
本日は、歌舞伎の俳優祭のチケット発売日だ。
東日本大震災被災地復興支援 第36回俳優祭(社団法人日本俳優協会)
歌舞伎座が今は使えないので、国立劇場でやるということだ。
とはいえ、私は1月下旬に一人で東京まで遊びに行ける身分ではないから、
きょうのところは、ハナから参戦など考えてもいない。
娘が来年は、東京および関西方面の大学をいくつか受けたいと希望しているので、
もしそれが本当に叶って、彼女が県外での下宿生活をするようになったら、
「ちょっと娘の様子を見て参りますわ。ホホ(^_^;」
と、私も第37回俳優祭(おそらく再来年以降だろう)からは、
優雅に現地に行けるようになりたいものだ。
しかし、仮に行ける身の上になったとしても、俳優祭のチケット争奪戦は過酷だ。
きょうだって、専用ダイヤルとはいえ、果たして繋がるものなのだろうか。
ああ、そうそう、チケット発売開始といえば、昨日発売の、
例の『CHABOの恩返し』広島公演、即日完売で話にならなかった。
恩返しどころか返り討ちにあった気分(泣)。

Trackback ( 0 )




このところ、娘がテレビを観ていると、幾度か、
コマーシャルで『You Really Got Me』のメロディが流れてくることがあって、
私はそのたびに、ついつい一緒に歌っていたのだが、
娘がそれを聞いて不思議に思ったらしく、
「何の曲?」
と私に訊ねた。

これは、イギリスのロックバンド、キンクスの1964年のヒット曲だ。
ハード・ロックやヘヴィメタと呼ばれるジャンルの元祖とも言える名曲で、
70年代以降、幾多の著名アーティストによってカバーされて来た。
ロックファンなら、この曲を知らない者は居ない。

the kinks- you really got me(YouTube)

……のだが、私は自分自身が1964年生まれなので、
実はキンクスをリアルタイムでは聴いていないし、
この曲自体、いちばん初めは、彼らの演奏で知ったのではなかった。
私が、初めて『You Really Got Me』を最初から最後まで聴いたのは、
イアン・ミッチェルがベイ・シティ・ローラーズを脱退したあとに結成した、
ロゼッタ・ストーンというバンドの、デビューアルバムにおいてだった。
私は、それを1978年発売当時、買ったのだった(^_^;。

You Really Got Me by Rosetta Stone(YouTube)

この曲をよく知るようになってから考えてみると、
彼らのは、キの抜けたような『You Really Got Me』だった(殴)。
これが出会いだった私は、あまり幸せではなかったかもしれない。
しかし一方で、今聴いてみると、ロゼッタ・ストーンのメンバーたちは、
本当に60年代に音楽に出会い、ロックを愛し、
聴き込んだ少年たちだったのだとよくわかる。
何しろ彼らのデビューは、クリームの『Sunshine of Your Love』だったし、
最初のアルバムにはエーメン・コーナーの『If Paradise Is Half As Nice』や、
それに、勿論この『You Really Got Me』も収録されていたからだ。
私は、彼らがこうした名曲に憧れた心情には大いに共感を覚えるし、
彼らが何を目指したのかも、ある程度、想像できるつもりだ。
選曲から、彼らは、こういう音楽こそが好きだったということがよく伝わるし、
ルックス先行のアイドルとして騒がれるのではなく、
本格的にハード・ロックのやれるバンドになることを望んでいたのだと思う。

さてその後、本当の意味で、私に、
『You Really Got Me』の素晴らしさを教えてくれたのは、
ロゼッタ・ストーンではなく、残念ながら本家のキンクスでもなく、
野村義男でもなく(逃)、ヴァン・ヘイレンだった。
ロゼッタ・ストーンでこの曲を知ってから、一年経っていない時期だった。
ヴァン・ヘイレンの1978年のデビューアルバム『炎の導火線』
(……ってどーゆー邦題なのか。原題は『Van Halen』)に、
オリジナル曲に混じって唐突に、この曲が収録されていたのだ。
これが、格好良かった。

Van Halen - You Really Got Me(YouTube)

今聴いても、めちゃめちゃ格好いいではないデスか。
これほど強烈な魅力を付加できるバンドの手にかかれば、
カバーという手法も、その価値を増すというものだ。
特に、私にとってこの曲におけるデイヴ・リー・ロスはネ申だ。
彼と一緒にいると気が変になる、とエドワード・ヴァン・ヘイレンが
キッスのジーン・シモンズに打ち明けた、という逸話があったけど(^_^;。

だが勿論、この曲でヴァン・ヘイレンが成し遂げたことは、
彼らだけの功績なのではなくて、キンクスとレイ・デイヴィスの築いたものが
まさしく本物であったということの証だと思うし、
私がヴァン・ヘイレン版で聴いたときにこの曲に反応したのも、もしかしたら、
先にロゼッタ・ストーンで出会っていたからこそ、と言えるかもしれない(^_^;。
およそ何事においても、先人たちは偉大だ。
私は感謝を忘れるべきではないのだ。

ところで、ソフトバンクのCFで流れている『You Really Got Me』は、
キンクス・バージョンなのだろうか?それとも別人(別グループ)?
としたら、一体、誰?
私は聴いてわかるほど、キンクスの演奏に通じているとは言えないので、
テレビから流れてきた音だけでは、もうひとつ判断がつかない。
しかし、まあ、こう並べてみると、クドいようですが私には、
やっぱりヴァン・ヘイレンがダントツにイイわ♪ということで(殴)。

Trackback ( 0 )




書いておこうと思いながら、かなり日数が経ってしまったが、
頼山陽の関連で、こういう事件が昨年暮れに発覚していた。

頼山陽の掛け軸が盗難 竹原(中国新聞 2011年12月2日)
『江戸時代の儒学者、頼山陽にゆかりがある国重要文化財の春風館(竹原市本町)で、山陽の書を含む掛け軸約30点がなくなったことが1日、分かった。竹原署が窃盗の疑いで捜査している。』『同館は山陽の叔父春風の旧宅。個人所有で一般公開していない。竹原署や市によると、掛け軸は蔵に保管していた。11月17日に文化財の耐震診断で訪れた市職員たちが、内扉の鍵が壊され内部を荒らされているのに気付いた。引き戸が開かないよう固定した入り口の鎖も切られていた。』『掛け軸は文化財指定ではない。被害額は不明で、同署は盗難品の特定を進めている。』『同館は町並み保存地区の路地にあり、メーン通りの本町通りより人通りは少ない。竹原町並保存会は防犯対策を記した緊急文書を配布。市は同署、保存会と連携し警戒を呼び掛ける。』

私の頼山陽趣味は、2008年10月に漢詩の会に通うようになって以来で、
特に、頼山陽が母・静子のことを歌った詩があまりに印象的だったことが
直接のきっかけだった(篤い孝行心に打たれたという意味でも、
あまりのマザコンぶりに「どんびき」したという意味でも・笑)。
その後、広島市内の頼山陽史跡資料館の各企画展を覗いたり、
見延典子・池田明子・門玲子、各氏の小説や評伝を読んだり、
また昨年は、頼山陽の祖父の家がある竹原市にも行ってみたりして、
ここ数年で随分と、頼山陽とその周辺の人々への理解が深まり、
山陽の詩も、身近に感じられるようになったと思っている。

記事にある春風館は、山陽の叔父・頼春風の旧宅であり、
内部は非公開で、観光客は外観を眺めることができるだけなのだが、
昨年、その家の蔵に保管されていた掛け軸約30点が盗まれたということだ。
年末年始を挟んで、この事件は何か解決に向けての進展があったのだろうか。
頼山陽を読む者としては、こうした貴重な史料が失われることは
取り返しのつかない思いだし、なんとか戻って欲しいと願わずにいられない。
それと同時に、今のようなご時世では、こうした文化財的価値のあるものは、
可能な限り、公的機関に管理を任せたほうが良いかもしれないな、
という印象も持った。

頼山陽ネットワーク通信(PDFファイル)
上記『頼山陽ネットワーク通信』でも呼びかけられている通り、
もしも、小さなことでも何かご存じの方がいらっしゃいましたら、
頼山陽通信、あるいは頼山陽史跡資料館に宛てて、情報をご提供下さい。
よろしくお願い致します。

Trackback ( 0 )




我が家では、旅行をすると、書店でゆっくり過ごす時間が取れる。
主人も娘も、各種レストランに次いで本屋が好きだからだ(^_^;。
それで、この年末の関西旅行では、私も久しぶりに、
時間構わず、店頭で本を実際に手にとって選ぶ楽しみを満喫した。
そして自分へのおみやげに、……というのもいささか妙ではあるが、
旅の成果として(^_^;、思い切って二冊のハードカバーを買った
(そういえば、去年2月の東京旅行の自分用みやげも、『江馬細香』だった)。

*************

ひとつは、『人はひとりで生きていけるか』(小浜逸郎)。
これは「『個人』『自分』は単独で最初から存在しているのではなく、
常に『社会』との関係性において認識されるものであり、
その部分を、現代の粗雑な意味での『個人主義』は、軽視している」、
……という、社会学的な見地から書かれた本だ。
おひとり様の生き方本だと思って読むと、アテが外れるだろう。
私は80年代の終わりから小浜氏の読者となって、既に長いので、
この人の文章の読み方を、私なりに知っているせいもあり、
今回も大変読みやすい本だと感じたが、好みは分かれるかもしれない。

私は、小浜氏の書かれることすべてに同意するのではないにしても、
この人の指摘の多くは、とても興味深いと感じている。ことに今回は、
選択的夫婦別姓への私の考えや、ツイッターへの嫌悪感に関して、
『裏が取れた』かのような(^_^;、ちょっとした爽快感があった。
小浜氏の文章には往々にして、私が漠然と考えていたことに対し、
もう一歩踏み込んで解剖し指針を与えてくれるようなところがあって、
私はその、霧が晴れるような気持ち良さに惹かれて、
この人の文章を二十年以上も読んでいるのだろうと、思った。

ただ、昔私が熱中した、小浜氏ならではの絶妙の『知的パフォーマンス』は、
昨今やや、その鋭さを失ってきたかな、という印象も正直なところあった。
勿論、世相も変わったし、小浜氏もいつまでも四十代ではないのだから、
同じところに立って、同じことばかり繰り返しているわけには行かず、
それとともに、読者としての私もまた年を取ったと思っている。
だから、必然的な変化については、私は概ね肯定的に捕らえているつもりだ。
しかし、欲を言えばやはり、もうちょっと興奮したかったな(^_^;、
という残念さが、今回は特に、残った。

*************

二冊目は、今はまだ読みかけなのだが、
流転の子― 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子)。
88年に映画『ラストエンペラー』を観て、私は発作的に周辺の本を読みあさり、
満州国皇帝・溥儀の弟の、愛新覚羅溥傑の妻となった嵯峨浩の自伝も、
そのときに通読していたので、このあたりの背景は今でもいろいろと覚えていた。
この本の題も、浩夫人の自伝『流転の王妃』を踏まえたものだ。
それで、愛新覚羅嫮生の名をタイトルで見たときすぐに、
この方が溥傑・浩の次女にあたり、今も関西でご健在であることを思い出した。

愛新覚羅浩の自伝については、例えば入江曜子氏などが手厳しい論評をしていて、
特に、満州国の皇帝御用掛であった関東軍の吉岡安直中将に関して、
浩夫人と入江氏の間には、決定的な見解の相違がある
(浩夫人は吉岡を嫌悪し、入江氏は吉岡を擁護)。
また、溥傑・浩の長女であった愛新覚羅慧生の、謎の多い心中事件についても、
嵯峨家側は、偏執狂的な男性によって慧生の命が奪われた、とする立場だが、
当時の友人たちや周囲の証言には、二人の恋愛関係を示唆するものも複数はあり、
私程度の読者には、事件の全貌が見えたとは言えない部分が残っている。
しかし、過去において起こったことは本来ひとつであっても、
関係者にはそれぞれ言い分があり、既に当事者が墓まで持って行った事柄もあり、
今となっては一刀両断にできないものだと、私は常々思っているので、
上記の論点も容易には結論など出ないものだろう。
同様に、今回の『流転の子』の内容も、
溥傑・浩・嫮生の側から語られた昭和史のひとつとして、読んでいるつもりだ。

ときに、話はやや飛ぶのだが、NHK大河ドラマで女性を主人公にするのなら、
嵯峨浩や川島芳子は良い題材ではないかな、と私は以前、考えたことがあった。
しかしすぐに、皇室の立場に言及せざるを得ない設定の物語になると、
きっとタブーが多いのだろうな、とも思い至った。
現代史に近い部分をドラマ化するには、歴史的評価すら流動的で、
存命の関係者もあるから、ともすれば感情的な議論ばかりが表に出てきて、
娯楽としての長所は結局、見逃されてしまうかもしれない、と思い直したのだ。
というわけで、このあたりはまだまだ、文字の世界においてだけ、
壮大な歴史物として、自分本位に味わい読ませて頂くことにします(^_^;。

Trackback ( 0 )




2008年に腹腔鏡下に子宮全摘・左卵巣切除の手術を受けてから、
今年の1月7日で、四年が過ぎたことになる。
傷跡は、左下腹部に直径1センチ程度のシミみたいなものが一つ残っただけで、
もはや日常的には、手術のことなどすっかり忘れているのだが、
こうしてお正月になると、2007年1月3日の夜中に、
大出血で救急車を呼んでしまった
ことが思い出され、
二度と、あのようなめにあわないで済むというのは、
やはり、なんと幸せな、有り難いことかと思わずにいられない。

手術から四年経ち、婦人科関連の不調は現在までのところ特に感じていない。
2011年4月に、手術前まで通っていた産婦人科クリニックに行って、
残っている右卵巣を診て貰ったが、何も異常は認められなかった。
また手術跡の断端もなめらかで、とても良い状態だとのことだった。
術後一年くらいは肉芽ができやすく、二度ばかり外来で切除されたが、
そのあとは綺麗になったようだった。
年齢的には完全に更年期に突入していると思うのだが、
これまでのところ、更年期障害というほどの自覚症状はない。
というか、不定愁訴はいろいろあるほうなので、
どれが更年期由来かそうでないか、自分ではよくわからない(^_^;。

術後四年目となった昨年、手術の影響として新たに自覚したことは、
左卵巣を切除した跡の、恐らく下行結腸のどこかに、癒着が残ったらしい、
ということだった。
最初にこの箇所を意識したのは、2011年5月下旬に腸炎になったときで、
過去によく経験した腹部不快だけでなく、明らかな腹痛が左下腹部にあり、
それ以来、腸炎になるたびに、同じ場所に痛みを感じるようになった。
もともと過敏性腸症候群的な自覚はあり、それに癒着由来の症状が重なり、
昨年は8月下旬9月下旬10月上旬11月上旬12月上旬
とほぼ毎月のように腹痛を伴う腸炎になった。
毎回、症状はさほど激しいものではなかったが、
数日間、下痢に伴って腹痛と腹部不快が続いた。

11月下旬に、某消化器内科クリニックで大腸内視鏡検査を受け
左下腹部の結腸の途中に、癒着とおぼしき可動性の悪い箇所が認められ、
ほかに器質的な異常は無かったため、腹痛の原因は癒着と診断された。
内視鏡挿入時に痛みがあったのも、まさに腸炎のとき腹痛を感じる場所で、
腹部手術の後遺症としての、中等度の癒着だろうと言われた。
ただ、このことは、婦人科手術だけが原因とは言い難いというか、
そもそも2007年以前より、左卵巣チョコレート嚢胞は大腸に癒着しており、
それが卵巣切除手術を受けた理由でもあったので、
いずれにせよこの箇所は、もう何年来、私の弱点だったことは間違いなかった。

癒着に由来する症状は、きっかけがなくともあるとき唐突に現れることが多く、
腹痛が昨年5月から始まったとしても、そのあたりで癒着が悪化した等々ではなく、
症状の発現は偶然に等しいものであると、消化器クリニックで説明を受けた。
また、私は残存内膜症の再発としての、腸管内膜症の可能性をやや心配していたが、
経過や症状からそれは考えられず、腹痛は癒着由来である、
というのが、大腸内視鏡検査をして下さった消化器内科の先生のご意見だった。

癒着の治療をもし望むとすれば、腹腔鏡下での癒着剥離術が可能ではあるが、
手術は新たな癒着を招く可能性もあり、積極的には勧められないとのことだった。
保存的には、冷やさないこと・過労しないこと・ストレスをためないこと、
等々を日常できる範囲で心がけ、腹痛については予防や症状緩和の目的で、
大健中湯やセレキノン、ブスコパンなど、適宜使って行く方法もあるそうで、
今のところ服薬は試していないが、必要なら今後検討したいと思っている。

*************

昨年はその腹痛の件があったことで、健康状態が不安になり、
ここ数年なかったほど真面目に、いくつかの健康診断を受けたのだが、
結果的には、自分にとって大変良い機会となったと思い、感謝している
(腹痛があったことにも、各科の主治医にも、検査内容にも・笑)。
前述の通り、4月に産婦人科で内診・エコー検査、
11月に内科で、血液生化学検査・血圧測定・尿検査・心電図検査・胸部X線撮影、
同月、外科で、乳房視触診・乳腺エコー・甲状腺エコー・マンモグラフィー、
泌尿科で、尿検査と腎臓エコー、
消化器内科クリニックで、胃内視鏡(迅速ウレアーゼ試験によるピロリ菌検査含む)・
大腸内視鏡・腹部エコー・頸部エコー、
……これらの検査から、右腎盂結石と胆石以外には、特に異常は認められず、
結果として精神安定に大いに役立ったし、有り難いことだった。
だが同時に、心身ともに非常に疲労したし財布に相当響いたことも確かで(爆)、
症状があるときに検査を受けるのは必要なことだと心から認めるけれども、
一方で、こんなことを毎年毎年やっていたら私はシヌ、とも思った(殴)。

ほかに、ここ数年の検査実績(笑)としては、
2010年5月に脳外科で頭部MRIを撮ったこと、
同年8月に某眼鏡店の聴力検査室で細かい聴力検査をして貰ったこと、
2011年8月に眼科で視力検査と眼圧・眼底検査を受けたこと、等々だろうか。
健康管理を心がけ、定期検診を受けるのは、一般的に良いこととされているが、
大丈夫であることを常に確認していないと、精神の安定が保てないというのは、
「心気症」や「確認恐怖」の入り口でもあるだろう(汗)。
家族から、とっくの昔に「過剰受診」との誹(そし)りを受けているので(^_^;
今年は、できるだけ医療機関と縁が切れるようでありたいと願っている。

Trackback ( 0 )


初詣  


実家へ年始に

主人と私とで、私の実家に年始に出向き、
村の地元神社(いつも秋祭りのあるところだ)に初詣に行った。
娘も一緒に行く予定だったのだが、出る直前になって胃腸の具合が悪くなり、
ノロウィルスの腸炎だったりしたら老人宅に行くのに困ると思い、留守番させた。
行ってみたら、父も母も、老齢には違いないがとりあえず元気そうで良かった(^_^;。
きょうは天気が良く、山奥の実家もさすがに雪は積もっていなかった。

神社に行くと神主さんが、参拝客ひとりひとりをお祓いしながら、
『戦後にマッカーサーの指令があって、神社にある、戦を描いた絵や掛け軸は、
全部焼却するようにと言われたのだが、ここの先代の神主が、
「絵でもなんでも、寄進して下さった氏子さんがそれぞれあるのだから、
そうした方々の立ち会いのもとでなければ、勝手に焼却なんかできん」
と拒否した。お蔭でこれだけの絵が今に至るも残っている』
と境内にある西南戦争の絵などを指してお話されていた。

……私はこのとき密かに気づいた。
うちの村では、お賽銭すればそれでオシマイというものではなかった、
地元の本家の娘なら、当然「お供え」を持って来るべきであった、と。
祭りは手伝っていても、この時期に初詣に来たのは久しぶりだったので、
忘れていた、というか全然、気が回っていなかったのだ。失敗した。
オマケに実家の神棚には、叔父夫婦からの和菓子と熨斗袋が供えてあった。
勿論、主人と私も手土産はいくつか持参したのだが、神棚は念頭に無かった。
まあ、両親だけだから「いくつになっても気が利かん娘や」で済むが(済むか?)、
昔みたいに実家に親戚が集っている最中だったら、大恥をかくところだった。
来年同じテツを踏んではいけないので、ここに記録しておく(^_^;。


音羽会

音羽会からの新年の記念品には『辰』印が同封されており、
旦那さんの写真は勿論、辰五郎だった。ちなみに私は今年、年女だ。
中身はずっと以前から「高級あぶらとり紙」四袋と決まっているのだが、
菊五郎・菊之助・寺島しのぶ・富司純子、それぞれの、
ほかでは買えない最近の写真が各パッケージの一番上に同封されている。
私はこれまでのところ、あぶらとり紙を実際に使用したことは一度もなく、
すべて、中身を見たあとは、元通り封をして記念にとってある。
ヲタのグッズ購入の常として、「観賞用・保存用・消費用」と
同じものが三つずつあれば、普段の使用も可能なのだがねぇ(笑)。

昨日は、教育テレビで新橋演舞場と松竹座の二元中継をやっていて、
娘が録画してくれたので(ありがたや)、あとでそれを観ようと思っている。
昨年は結局、11月の博多座も12月の南座も、チケットは持っていたのに、
いずれも私の腸炎のために断念せざるを得なくなり、残念なことだった。
特に音羽屋の蝙蝠安を見逃したのは悔やまれた(涙)。
しかし昨日の録画内容を見ると、どうやら辰五郎が観られそうなので良しとしよう。

Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »