転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



観ながら思っていたのだが、芝居に対する私の姿勢というのは、
毎回、同じという訳ではなくて、
これがこうでだからああなってと理詰めで観たいときと、
話の整合性など目に入らず、作品世界のみに酔いしれるときと、
おおざっぱに分けて二種類の見方をしているように思う。

前者は、例えば正塚作品の多くのものが当てはまる。
正塚晴彦先生というかたは、言葉の繊細なニュアンスを生かし、
こちらの実感にむかって訴えて来るような設定で書かれるので、
私は一言の台詞でも無視できず、つい裏まで考えさせられる。
結果、台詞になっていない部分まで、深いところで納得できる
(できないと置いてきぼりを食うが(^^ゞ)。
この作品世界は、私の心のひだにまで触れ、
ああ、そうだ、私にも覚えがある、と胸が熱くなることが多い。
それが他では得られない細やかな手応えになっていると思う。

一方、後者の代表は、私にとっては植田作品だと思う(^_^;。
まともに聞いていたら椅子から転げ落ちそうな展開で、
日常生活で耳にしたら糾弾したくなるような無神経な語彙、
・・・なのだが、観ている最中の私は、それらを軽く無視できる。
なぜなら、出て来る場面場面が物凄く私のツボにハマリ、
観たい男役の姿が小気味よいほどのタイミングで登場し、
あざといほどに決めて、これぞタカラヅカ!で幕になるからだ。

話の次元は違うが、名作スポ根はどれもツッコミ甲斐がある、
というのと、少し似た盛り上がりを、私は植田作品に感じるのだ。
星飛雄馬は「がーーん!」と大仰に絶望しないと絵にならないし、
アストロ球団はアフリカくんだりまで行くようでなければダメだ。
彼らが私にも賛成できるような常識に従って行動していたら、
決して、あの突き上げるようなパワーを持った名作になど、
なり得なかった。
植田作品も同じだ。観客の日常感覚におもねるような、
こじんまりとよくわかる話になんかなったらオシマイなのだ。

で、今回のキムシン作品は、どちらかというと後者の見方で、
私は見ていたように思う。
木村信司先生がどういう方なのか語れるほどには、
私はこの先生の作品を多くは観ていないのだが、
『鳳凰伝』と『炎にくちづけを』に関しては、
私は、自分の日常生活のレベルでの納得なんか全然要らなかった。
私に全然理解できなかろうと、そんなことはお構い無しだった。
非日常の彼方にあるような、突拍子もない話だが、
だからこそ普通に暮らしている今は絶対に経験できない種類の
別世界の陶酔があった、と思うからだ。

和央ファンとしての私が面白いと思うのは、
私が長らく観てきた和央ようかという人は、
どちらかというと正塚作品の中で生きているような役者だったのに、
今回は、断ち切られた場面場面のツギハギのような作品の中で、
実に印象的な「立ち方」をしていた、という点だった。
彼女は今まで、観客の納得感との接点を見つけ出すことで、
大抵の役に彼女らしい魅力を付加して来た人だと思うのだが、
このキムシン作品では、そういうことをしているように見えなかった。
かわりに、支離滅裂に近いマンリーコという人を、
場面に応じて、変幻自在に構成することによって魅力を出し、
結果的に、その魅力によって
『主人公』として存在させ続けて見せてくれたと思うのだ。

・・・・と思って改めて公演プログラムを読み返してみたら、
和央ようか自身が、こう語っているのが掲載されていた。

『彼(=マンリーコ)の気持ちを一貫して創っていくのではなく、
(中略)その場面の雰囲気に上手く乗りつつ、
次々に起こる事件に新鮮に反応して創りたいと考えています』

それには、確かに、成功していらっしゃると思いました<(_ _)>。

Trackback ( 0 )



« 炎にくちづけ... じー&ばー »