転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



7月末に誤嚥性肺炎で入院し、脳出血を併発して
一時は危ないと思われた実家母だが、……持ち直した(爆)。
母はかつて、自身の母親や姑について、
「明治の女は強い!」
とよく言っていたものだったが、その言葉、そのままお返ししますよ、
「戦前の女は強い!」

8月半ばには母は、目も合わないし、言葉も全く発しないし、
自分では寝返りも出来ず、意識はあったが明確な意思表示は皆無で、
苦痛がないならヨシとするか……、と私は諦めムードになっていた。
そして8月23日に私がコロナ陽性となり、面会に行けなくなったので、
それから半月ほどは、病院との電話連絡で容態を聞くしかなくなり、
最悪、会えないままで終わってしまうかなとすら思っていた。
8月の終盤、中心静脈栄養のルートから感染が起こって母は発熱し、
致し方なくカテーテルを抜去することになったが、
抗生剤投与により、幸いにもこの熱は下がった。

そこで主治医の先生から、経鼻胃管または胃瘻を試みるかどうか、
と再度、確認の電話があった。
私はやはり、どちらもやらないと返答した。
経鼻栄養は鼻や咽頭の不快感が常時ついてまわるし、
胃瘻も、母の年齢や腎機能などを考えると、
時間的に「長らえるだけ」になると思われた。
腕や脚などの末梢点滴のみで、やれる範囲のことだけをやり、
血管がダメになったり本人が点滴を嫌がるようになれば、
それもやめて、看取りに向かう、というのが私の選択であった。
母の現時点の意思はもはや確認できないが、以前から本人も、
「苦痛のないのが一番大切なこと、あとは寿命に任せる」
と幾度も言っていたので、おそらくこれで良かろうと思った。
脳出血の検査や治療もしない・水分と栄養の補給は末梢点滴のみ。

ところが、9月に入って母は、追視ができるようになった(^_^;。
脳出血が治まり、幾分か吸収もされ、脳浮腫が取れてきたのであった。
やがて、「おはようございます」と言われれば「おはよう」と返し、
名前を呼ばれれば「はい」と答えられるようになった。
9月10日時点の血液検査は、入院時より腎機能も改善しており、
降圧剤の内服ができるようになってからは、血圧も落ち着いた。
車椅子に座らせて貰って、リハビリもできるようになった。

9月19日に嚥下テストをして貰ったところ、
一口ならば問題なく飲み込めたが、それを継続することは困難で、
咽頭にたまるばかりで嚥下はできない様子だったので、
薬の内服程度は良いが、食事の経口摂取は難しいと判断された。
最終的に点滴は取りにくくなるはずだから、
口からまとまったものが食べられないならば、
あとは自然に衰えるのを見守るという方針になった。
対症療法で追いつかない問題が出てきたら、
意識を下げる等の処置が可能かと私が質問したところ、
脱水傾向が徐々に進んで老衰を迎えるならば、
殊更な苦痛はなく、鎮静などの必要はおそらく生じないだろう、
主治医の先生は仰った。

そして、昨日のことだった。
私が病室にいたとき、看護師さんがたまたま来られ、
名前を呼ばれて母は目を合わせ「はい」と返答し、更に、
「せなかが、かゆい」
と自分から言った。
「喋った!!!」
と看護師さんと私は同時に言った(笑)。
背中を看護師さんに掻いて貰うと、母は、
「きもち、いい」
と感想を述べ、終わると、
「ありがと」
とまで言った。
更に、アイソカルゼリーを見せられると口を開け、
全介助ではあったが、一口どころか、次々と五口、食べた。
とろみをつけたお茶も、全部、飲んだ。
「絶好調ですね(^^)!」
と看護師さんも笑顔であった。
枯れる予定だったが、こりゃ案外、食えるかもしれない(^_^;?

無論、95歳という年齢はどうしようもないし、
誤嚥性肺炎はまたいつでも起こす可能性があるし、
尿には薬剤耐性菌であるESBLも出ているので、
これからも尿路感染症は完全には解決しないと思われる。
しかしとにかく、母は立ち直ったのであった(^_^;。
とりあえず10月初旬まで様子を見て、検査結果等OKならば、
退院してもとのサ高住に戻ることに決まった。

昨日、私が帰るとき「じゃあね」と手を振ったら、
母はイマイチ無表情ではあったが、ちゃんと右手を挙げて「ばいばい」した。
合ってる(笑)!!
たいしたもんだ。

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