転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 

追記  


……↓という話は、飽くまでポゴ氏においての「本人比」、
のつもりですので(^_^;。
今回初めて、或いはかなり久しぶりにお聴きになった方ならば、
「あんなものはショパン(シューマン、モーツァルト、ラフマニノフ)ではない!」
「あのように極端で得手勝手にデフォルメした音楽は耐え難い」
「暗くて気味悪くて、陰鬱きわまりない演奏だった」
「テンポ遅すぎ!!」
等々と仰るかもしれないと思います。
客観的には、そのほうが妥当な感想かもしれません。

私は何しろ、80年代半ばからこのかた、
ポゴ氏のことを考えない日は一日たりともなかった、
というくらい「浸かった」毎日を過ごしてきた人間で、
話の前提がもともとかなりおかしい(かもしれない)、
ということを、どうかご理解下さい<(_ _)>。

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昨日の豊田公演を聴いて、私は久々に、…というよりほぼ初めて、
深く肯定的な気持ちになり、心から満たされた。
ポゴレリチは、かつて無かったほどの心の平安を得たのではないか、
ということを、彼の音楽から強く感じたからだ。
どの曲も、大らかに安定した力強いものが根底にあり、
そこから豊かな音色を響かせ、圧巻だった。
ショパンの『バラード2番』は、若い頃の噛みつくような演奏とは異なり、
懐の深い、明確な方向性を持った演奏だった。
緩急の対比も、80年のコンクールライブのようにあざとくはなく、
隅々まで計算されたコントラストがあった。
『スケルツォ3番』にも同様に、どっしりと落ち着いた音楽の道筋があり、
これらはポゴレリチが最も若い頃にプログラムに入れていた曲目であるだけに、
ファンとしての私には、「遙けくも来つるものかな」という感慨があった。

シューマンの『ウィーンの謝肉祭の道化』は、プログラムが発表になったとき、
私にとって最も大きな聴きどころになるだろう
と思った曲で、期待に違わず、ポゴレリチらしさが全開になっていたと思う。
シューマンの和音の、縦の線の揃え方には、
昔からポゴレリチは独特の感覚を発揮しているのだが、
今回はそれらが更に、横に動いて行くときの音の綾が素晴らしかった。
そういえば『バラード2番』はシューマンに献呈されているのだった。
ポゴレリチ自身が、「シューマンは不当に低く評価されている」
とインタビューで語っていたことなどを考え合わせると、
プログラムの前半がショパンからシューマンへとバトンを渡すような
構成になっていることの意味も、とても興味深く思われた。

後半の一曲目はモーツァルト『幻想曲』ハ短調K475。
私にはこれは、何か現代曲の響きを内包しているように聞こえ、
音楽が年代ごとに完全に区分けされるものでないことを
ポゴレリチが演奏をもって示しているかのように感じられた。
私はもともとモーツァルトは百の顔を持つ作曲家だと感じる面があり、
例えば弾き手が若くても老齢でも、モーツァルトは如何様にでも、
その年齢に応じた「モーツァルトらしさ」を発揮し得ると思っているのだが、
それだけでなく、こうしてプログラム中に置かれた位置によっても、
古典的な意味での「モーツァルトらしさ」とはひと味違うものが
きちんと相応しく「モーツァルトらしさ」として描出され得るものなのだと
今回はなかなか面白い発見をした気分だった。

最後のラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第2番』は
先のモーツァルトで提示されたものの行き着く先にある音楽で、
かつ、変幻自在の光景を見せる大洋のような演奏だった。
あるときは激しく高い波が容赦なく押し寄せ、
またあるときには、果てしなくたゆたう命の源としての大きさをたたえ、
それらすべてがひとつの巨大な潮流となって、
ポゴレリチの現在の安定感そのもののように、大きく揺るぎなく、
音の海として私の前に存在していた。

そのような中で、アンコールのシベリウス『悲しきワルツ』だけは、
私には、死者とのダンスとして聞こえた。
ほのかな灯りの中で、死人の手を取り、陰のように踊るワルツ。
亡き人の霊はいつでも、このワルツの主人公の隣にいるのだった。
それでも、2010年に同曲を聴いたときとは印象は全く異なっていた。
以前は、もっとテンポ設定が遅かったせいもあるが、
主人公本人も生きているのか死んでいるのかわからないワルツだった。
それを思えば、昨日のシベリウスは、少なくとも現世の踊りだった。
ただひととき、死人の魂を抱いて踊ることができるだけだった。

**************

先日、ラフマニノフの2番の協奏曲を聴いた晩にも感じたことなのだが、
ポゴレリチは、本当に御本人の言の通り「脱皮」して変化し続けて来た人だ。
80年代、90年代、そして21世紀になって以降、更にこの数年。
ポゴレリチはその都度、何かを脱ぎ捨てて新たなものを獲得して来た。
脱ぎ捨てると同時に重要なものを失ったこともあったかもしれないが、
それをせずに留まることもまた、耐え難いことだったのだろうと思う。
彼のメタモルフォーゼは終わることがないのだと、今回の来日公演を聴いて思った。
彼には、多分永遠に、ゴールは無い。
彼が若い頃には、それは安らぎの無さ・救いの無さとして私の目に映ったが、
今年の来日公演を聴いて、私はむしろそれは、
演奏家としての彼の核となる、力の根源なのだと感じた。
ポゴレリチは、決して、不幸な芸術家ではなかったのだ!
このことに私は今回、最も強い感銘を受けた。

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