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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



清志郎が復活した以上、きっとあると思っていた野音が、
とうとう、発表になった。

9月6日(土)17:30START 日比谷野外大音楽堂(雨天決行)
YAON 2008 GLORY OF LOVE
忌野清志郎&NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS
plus 仲井戸"CHABO"麗市

やっっったっっっ!!
嬉しい、そりゃーもう、嬉しいには違いない!
…………のだけど、
これって2学期始まっているぢゃないか。
ワタシはてっきり8月かと……。

私のような痴(し)れ者でも、
9月というと娘の学校があるから、家を留守にしにくいじゃないか、
と思ってしまうのだが、
それ以上に、いつも一緒に行っているRC仲間の友人が問題だ。
彼女は実はガッコの先生なので、2学期早々に東京旅行なんて、
仕事の面だけを考えても、かなり厳しいのではなかろうか~。

しかし、清志郎の野音なんて、私には何年ぶりだろう。
聴きたいのはヤマヤマだ。
♪9月に なったのに~ いいことなんか ありゃしない~
と家で虚しく歌っていることになったら、いやだ~(泣)

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テレビ嫌いのワタクシなのだが。

今晩、NHKでアンドラーシュ・シフのリサイタルが放映されるので、
これはどうでも、見過ごす(聞き逃す)わけには行かない、
ということで、さきほど娘に予約録画を頼んだ。
どうだね、このナサケなさ。
テレビの録画ができない、というのは明らかな老人だ。

それだけではない。
20日(日)には午後2時から、テレビ朝日の、
「間寛平58歳!酷熱地獄サハラマラソンに挑戦」
をチェックせねばならない。
私はサハラマラソンそのものに熱い興味は抱いていなかったのだが、
実は、寛平ちゃんの企画には、ほんの少し、関係してしまったのだ。
それは、3月2日の清志郎の京都公演のときのことだ。
日記にも書いた話だが、ライブのアンコールのときに、
清志郎は、寛平ちゃんへの応援メッセージを、
会場の我々とともにテレビカメラにむかって、収録したのだ。

間寛平は、今月初め、245・5キロを走るサハラマラソンに挑戦し、
7日間かけて見事に完走したのだが
間寛平245・5キロサハラマラソン完走(nikkansports))
清志郎は寛平ちゃんの友達なので、
「寛平ちゃんはきっと走っている途中でヘバるだろうから、
その場面で流す激励のメッセージを収録しておくことになった」
と3月2日の京都会館二度目のアンコールに登場したとき自ら段取りを説明し、
テレビカメラも一緒にステージに上がってきたのだった。

その応援台詞を清志郎は全然考えてきていなくて、
「どうしようか(^_^;」
と会場に向かって困ったように笑い、
「寛平ちゃんは、頑張れなんて言われるのは嫌いだろうし」
などと喋っていたら、お客さんのひとりが、
「あめまー!」
と叫んだので、
「おっ、それ、イイね!」
ということになった。で、清志郎が、おもむろに、
「テイク・ワン」
と仕切って、客席を背にして立ち、衣装のマントを勢いよく脱ぎ、
「寛平ちゃん!!夢に向かって!!」と叫び、
会場全員で、「あめまーーーー!!!」と唱和したのだった。
このあと、テイク・ツーも、あった(^^ゞ。

あのメッセージが本当に番組中で流れるかどうかわからないが、
あの場にいたことで、寛平ちゃんの挑戦について知ることができ、
それを応援する清志郎の言葉も聞けたので、この日曜日の番組は、
ちょっと特別な関心を持って見ることになりそうだ。

それにしても、あのときの清志郎の声は、良かった。
それまで、『なんて言おうか』等々と喋っていた声は
普通の話し声だったのだが、いざ本番、となってカメラに向い、
「寛平ちゃん!!」
と呼びかけた声は、それまでとはガラリと変わって、
何もかも制するパワーを持つ、『忌野清志郎』そのものだった。
うわっ、キヨシの声!!とゾクゾクしたあの瞬間を
私はこれからもずっと忘れないと思う。

(後日記:清志郎&京都ベイベーによる「あめまー!」(YouTube))


ちなみに、こっち↓は、フジテレビだけの放映であるらしい。
DIGITAL CONTENT FARM『忌野清志郎 完全復活SP』
楽しみにして番組表を検索してみたのに、
テレビ新広島のこの時間は、ずっとショッピングだ(泣)。

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LOUDNESSの樋口宗孝、肝細胞癌の治療のため活動を一時休止(Barks)

樋口宗孝と言えば、私にとっては「ひぐっつぁん」であるより前に、
初期設定はどうしても「レイジーのデイビー」なのだ。
なんのことかわからない、若い世代も、最早多いことと思うが。

77年にデビューした、レイジーというバンドがあって、
メンバーは、ミッシェル、スージー、ファニー、ポッキー、デイビー、
・・・・・・全員、日本人だったのだけど(爆)。
現在、多くの若手ドラマーたちの尊敬を集める樋口宗孝は、
30年前には、このアイドルバンドのメンバー「デイビー」だった。

あとになって雑誌記事等で読んだところでは、
彼らには最初からへヴィメタ志向があって、
ヒットシングルの路線は、本来はかなり不本意なものだったようだ。
そもそもレイジーというバンド名にしても、
ディープパープルの曲が由来だったくらいだ。
だから、解散後スージーとデイビーが中心となって結成されたLOUDNESSこそ、
彼らが一貫して望んでいた方向性のバンドだったのだ。
ちなみにスージーというのは、LOUDNESSのギタリスト高崎晃のことである。
ラウドネス - LOUDNESS - LIVE 1988 ⑦S.D.I.(YouTube))

私は見る目(聴く耳)がなかったので、70年代にはレイジーのことを、
一発屋的な、女の子向けのバンド、ウリはビジュアル、
くらいにしか思っていなかった。
彼らが本当に才能あるスペシャリストであったと知ったのは、
LOUDNESSが結成されて、その活動を知るようになって以降だった。
彼らは、まさしく、ホンモノだったのだ。
ちなみに、レイジーのヴォーカリストだったミッシェルもまた、
その後、ソロとして幅広い芸域を持つアーティストになった。
ポップスもロックもヘヴィメタもこなすうえに、
「アニソンの帝王」の異名まで持つ影山ヒロノブが、その人だ。
ドラゴンボールZ live (2005) 影山ヒロノブ(YouTube))

樋口宗孝が肝細胞ガンの治療のために活動を一時休止する、
というニュースを見て、30年前から彼の名を知っている者としては、
やはり大きなショックを受けてしまったが、しかし同時に、
「皆、そういう年齢なんだな・・・」
ということを痛切に感じたのも事実だ。
つい先月、忌野清志郎の復活祭ライブに行ったばかりだから、
なおさらそう思うのだが、
ある程度の年齢になったら、病気になるというのは、
格別変わったことではなく、誰にでも起こり得ることなのだ。
何をしたから・しなかったから悪かったというものでなく、
選ばれた特定の人だけの不運でもなく、
誰だって、年齢が上がるにつれて、様々な病気になるものなのだ。

だが、数ある病気の中でもガンは、
治療過程が長く、治癒や寛解の得られる例がとても多い。
そのことは、簡単に考えてはいけないにしても、
勝負の早い病気になるより、敢えて言うが幸いだったと思う。
樋口宗孝の治療が最善のものとなるよう、順調な回復を祈りつつ、
彼の戻って来る日を、今は、待つのみだ。

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仲井戸麗市が盗難被害「ギターは命、早く返して」(Oricon)
RCサクセションのギタリストであるチャボ(仲井戸麗市)の、
長年の愛用のギターが、なんと盗難にあってしまったそうだ!
『26日(水)から27日(木)未明にかけて、横浜市港北区の駐車場で音楽機材9点及び機材車が盗難の被害に遭っていたことがこのほど明らかになった。』『盗難ギターはボディが黒く塗られている「ギブソン チェットアトキンス」と黒の「フェンダー テレキャスターカスタム」の2本で、共に約20年、約30年程度使い続けたもの。盗難車両はトヨタ「ハイエースSUPER GL」。』

私がここで呼びかけて即座に何かになるとは期待できないけれど、
それでもどんなところにきっかけがあるかわからないと思うので、
資料となるURLを貼っておきます。
探しているのは、これです(仲井戸麗市・公式サイトより)。

ピアノのように、持ち運びが大変困難な大型の楽器と違い、
ヴァイオリンやギターなどは、ケースに入れるだけで、
常に演奏者が愛器を携えてツアーに行けるのが良い点だなあ、
と私は以前から思っていたが、こういう事件があると、
運搬を伴うことのリスクも大きなものだったのだと今更だがわかった。
そういえばQUEENのブライアン・メイも、あのハンドメイドのギターに
大変高額な保険をかけていると、以前、記事で読んだことがあった。
しかしこういうものは、イザとなると金額の問題などではないのだ。
一日も早く、チャボの手に楽器たちが戻ってきますように!

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28日深夜のNEWS23に清志郎が出演するという情報が
先週くらいからネットで流れていて、
しかしいっこうに番組表には載らないし、
また関西では放映時間が東京TBSと違うために
清志郎のコーナーは無いらしい、ということが途中で判明し、
それなら広島ではどうなのだろうかと私は半信半疑のまま、
昨夜、この番組を最初から最後まで録画してみた。

そうしたら、あった

番組の最後、『金曜深夜便』のところで、
どこかの庭園みたいな場所で筑紫哲也が清志郎と話す様子を
収録したものが放映されたのだ。偉いぞ、RCC中国放送!

以下、自分のための記録と、もうひとつ、
ご覧になれなかった方のお役に立てればという気持ちもあり、
簡単ですが概略をレポします
(曲はすべて武道館ライブからで、ほとんどサビなどのサワリ程度)。

**************************

話は、まず、スタジオの筑紫哲也氏による、
「がんクラブの先輩であり、また完全復活でも先を越された」
という清志郎の紹介から開始。
2月の武道館の映像が流れ、ステージでの清志郎の姿と、
「心配かけたぜベイベー」
「感謝します、どうもありがとう、愛してまーす!」

♪『激しい雨』(武道館ライブ)

変わって、対談場面となり、和風庭園の一角のベンチに、
筑紫哲也と並んで座っている普段着の清志郎。
清志郎は髪を立てているがノーメークで、
赤いタートルのセーター、グレーのジャケット。

1年7ヶ月ぶりに完全復活して、どうだったか、と訊かれ
「最初は緊張したけど、だんだん楽になって行った」
ホントはガンなんてウソだったのでは、と笑われて、
「そんな気がしないでもない」

ここで武道館の映像になり、「完全復活しちゃったからね~」。
♪『キモちE』(武道館ライブ)
♪『スローバラード』(同上)

復活ライブでファンを驚かせたものとして、
ライブ冒頭で流れた、清志郎の闘病中の写真の数々が紹介される。
抗癌剤のために完全に頭髪が抜け落ちたときの、痩せた清志郎、
少し髪が生えてきたときの清志郎、だんだん元気そうになる清志郎。

「抗癌剤を2クールやって、こんなにツルツルになる人は初めてだと
いろんな人に、看護婦さんとかに言われて、
そうか俺は凄いんだ・何だか知らないけど、と思った。
髪がだんだん生えてくるところを、パラパラ写真みたいにしたら
面白いと思って、ずっと撮っていた」
「ガンだと言われて、ガーーン!と来た。力が抜けた。
でも宣告されてしまうと、自暴自棄になったり泣きわめいたりしても
なんの治療にもならない、受け入れるしかなかった」

♪『雨あがりの夜空に』(武道館ライブ)

「闘病中は、とりあえず何もしないでボーっとするのがいい、
と言われたので、温泉入ったり、テレビ観たり。
途中から、自分が本当に病気なのかどうか、わからなくなっちゃって。
休んで、何もしないのも楽しくなって、このままでもいいかな、
もう復活も何もしない人生もなかなかいいかも、と思ったりした」

また何か表現したい気持ちが募ってきて復活したのか?という問いに、

「医者に、こりゃもうなおってるから、そろそろ運動とか仕事も
やったほうがいい、と言われてしまって。そう言われると逆に嬉しくて」

ここで、これまで清志郎は幾度も『NEWS23』に出ている、という話題になり
1992年、1999年(パンク『君が代』問題)、2000年、
2004年(選挙イメージソング)、2005年(デビュー35周年)
の録画が紹介される。
続いて、京都公演で前説に立つ筑紫哲也の映像、
『ニュースキャスターに前説やらしてるバンドは俺たちだけだ』、
という清志郎の言葉を筑紫氏が紹介し、大歓声の会場。

「ロックンロールについて。あまり考えなかった。考えなくなったのかも。
どうしようとかではなく、そのときのベストを尽くそう、と思っている。
自分の音楽、15歳くらいで始めた頃から、全然変わってないです。
これからも、それで行くと思いますよ」

清志郎はそう言って、筑紫氏に「また(前説)お願いしますよ」
と笑った。

♪『JUMP』(武道館ライブ)

「執事」を伴った登場シーンから映像が流れ、
マントを脱いでの歌い出しからワンコーラス、
「高く、ジャンプするよー!」のところで映像ストップ、
「また来週」の文字が出て終了。

**************************

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Tamaran-Zaka(YouTube)

この映像は、一体、どういう企画の、なんという番組のものなのだろう?
ほかのことで検索していて偶然、出会ってしまったのだが、
この清志郎は、凄い・・・・・・!!

86年の秋に、私はRCファンのお仲間と、
『多摩蘭坂ツアー』と題するお出かけをしたことがあった。
国立駅に集合して、多摩蘭坂をのぼって、都立日野高校に行って。
夕暮れの浅川の土手を、みんなで歩いた。
とても、静かだった。

清志郎!

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昨日の余韻で、きょうは使い物にならないワタクシだった。
清志郎は本当にGodだった。

冒頭の『JUMP』で彼の第一声が響き渡った瞬間から、
こちらは一気に涙でぐしゃぐしゃになってしまい、
勿論、会場じゅうのファンが涙と歓声で清志郎を迎えたのだけど、
大泣きしながらコブシ突き上げ声を張り上げることがあろうとは
二十年前には予想だにしなかったテイタラクだった。

大阪公演から二週間しか経っていないのに、
京都会館のセットリストはフェスティバルホールとかなり違った。
チャボ(仲井戸麗市)の登場は確か六曲目か七曲目だったが、
『いいことばかりは・・・』でなく『よォーこそ』で紹介されるカタチで、
『多摩蘭坂』はなかったかわりに『エンジェル』があったし、
久々に『モーニング・コールをよろしく』が聴けたし、
東京でもやらなかった『トランジスタ・ラジオ』が入っていたし、
アンコールの一曲目はなんと『い・け・な・い ルージュマジック』、
しかも客席からの登場だった。

清志郎やチャボが、ピックやアクセやシャツを客席に投げるわ、
聴衆のほうからもプレゼントやテープやヒトハタうさぎのぬいぐるみやら
もう、いろんなものが投げ込まれ投げ返され、ステージの上下を飛び交い、
清志郎はマイクをぶんぶん回しまくりクラッカーぱんぱん飛ばしまくり、
「凄い盛り上がり!凄い散らかりよう!」
三時間、立ち通し、歌い通し、泣き笑いの連続で、
E!E!E!キモちE!とトランス状態になってやっていたら、
一瞬、気が遠くなりそうだった。自分のトシを感じた(爆)。

***************

二度目のアンコールのときだったと思うが、
間寛平への激励メッセージをこの会場の全員で収録する、
というイベントがあって
(詳細は今書いて良いのかどうかわからないので一応省略)、
清志郎が会場の皆に、収録の段取りを話すのに、
「俺が、このマントをぱあっと脱ぐから、脱いだら、
・・・脱いだら、・・・・・・・・・どうしようか(^^ゞ?」
と突然、心もとないオジサンになってしまって、大笑いだった。
『考えてこい!』『決めとけよ!』
と、Godであるボスに向かって思わずツッコんでしまった我々だった。
このメッセージと、もしかしたらその前後の模様が、
多分そのうち、テレビ放映されると思われるので、楽しみだ。

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清志郎、完全復活祭ファイナル!!

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清志郎が喉頭がんから復活ソロライブ(日刊スポーツ)
清志郎 武道館で3時間「完全復活祭」
(スポニチ)
帰ってきたぜベイベー!がん克服、清志郎が武道館単独ライブ(サンケイスポーツ)
清志郎「帰ってきたぜベイビー」!(デイリースポーツ)
忌野清志郎:帰ってきたぜ武道館 がん克服し3時間「愛しあってるかーい!」(毎日jp)
忌野清志郎が完全復活ライブ(Yahoo動画)
清志郎完全復活祭 めざましテレビ(YouTube)


『全24曲を歌い終えると壇上に長男竜平さん(19)と
長女百世さん(16)が現れ、花束をプレゼント。
「なぜここで出すんだあ!家族を」と照れまくり。
百世さんはそんな父の姿に何度も目をぬぐった』(スポニチ)

竜平(タッペイ)さんは、辰年生まれだ。
私が24歳だった88年クリスマスの武道館公演のとき、
清志郎は、MCの途中で脈絡もなく、突然ギターを弾いて、

♪タツ 魔法の竜(タツ)が 生まれたぞ
♪おとーさん子だよ

と『パフ』のメロディーで歌ったものだった。
あのときのタッペイくんが、もう19歳!

私がRCサクセションを熱心に聴くようになったのは
82年の『い・け・な・いルージュマジック』で清志郎を知って以降で、
それ以前の久保講堂(80年)どころか野音(81年)すら聴いていない自分は
完全に「遅れてきた」ファンなのだと、長い間思っていた。

でも考えてみたら、RCとの出会いから既に四半世紀が過ぎていたのだ。
これらの記事を読んでいて、自分が清志郎との間に、
ファンとして積み重ねてきたものは、
もはや半端な質と量でないことが、改めてわかった。

そして、KING OF LIVEの復活が実現した2008年2月10日は、
ファンにとって、またひとつの、新しい記念日になったのだと思った。
清志郎の復活は、やっぱり、バンドマンとして、だった!

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清志郎、物凄い、文字通りの「完全復活」だったそうです!
サイコー!!!

レポートしてくれた友人にも心から感謝!!!

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