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『徹子の部屋』、明日8日のゲストがイマーノ(忌野清志郎)先生で
明明後日10日は寺島しのぶちゃんだっ!
徹子の部屋
前回この番組に清志郎が出演したのは、十年以上前だったと思う。
(追記:↑違った。前回出演は2002年だった。何かと勘違いしたかも?)
確か、前のときには実の母上の話題で
(彼を育てたのはお母さんのお姉さん、つまり伯母さん、
とそのご主人だそうだ)、徹子さんが
「あなたをお生みになったお母様が~~~ですってね?」
とさかんに説明していて、清志郎はただ
「はい」「あ」「ええ」「そ」
と、間投詞だけを発していたような記憶しか、私には残っていない。
で、ネットでちょっと検索してみたら、清志郎は今回の録画に関して、
「徹子さんと話が咬み合わなかった(^_^;」
とファンクラブのイベントの際に告白していたそうで、
これは前回以上に、見ているこちらが凍るかもしれない。
しのぶちゃんのほうは、この番組に既に出たことがあったかどうか、
私の記憶の範囲ではわからないのだが、
彼女はもともと、口も立つし度胸もあるので
どんな話題になろうと、徹子さんがどういう方向に行こうと、
きっと動じないで笑っているだろうと思う。
それどころか、みんながヒョエーと言いそうな爆弾発言を
場合によっては、披露してくれているかもしれない。
とりあえず、明日が楽しみだなっ♪と
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宮城宗典の死後の一時期、ヒルビリー・バップスは
二代目のヴォーカリストを迎えて活動を再開したことがあったが、
それはかつてのヒルビリーとは別のバンドのようで、
私は到底受け入れられなかったし、当時の熱心なファンも、
多くは過去の思い出のために支援したに過ぎなかったように思う。
宮城宗典は、ロカビリーを引っさげて現れ、
あっという間に駆け抜けていった人だった。
彼が何であったのかを把握する暇(いとま)も無い早さだった。
少なくとも私にとって、この人は、
夭折したから伝説になったヴォーカリストではない。
今も色あせていない彼の歌や、当時のヒルビリー・バップスを聴くと、
そのたびに、もっともっと時間が欲しかったと思わずにいられない。
あれほどロカビリーに魅せられ、若くして既に鮮烈な歌い手だった彼は、
30歳になって、40歳になって、どんな歌を歌っただろうか。
『僕たちのピリオド』という87年5月に発売されたシングルでは、
Please, please, don't say goodbye
Please, please, don't say goodbye
というコーラスが、繰り返し、歌われていたのだけれど、
もう二度と、生きて歌う宮城宗典の声を聞くことができない今、
この歌詞は、あまりにも象徴的に響いてしまう。
ヒルビリー・バップスや宮城宗典が、これから、
私の中で「終わったもの」になることは考えられないし、
「さよなら」を言うことも、ずっと、ないと思う。
ヒルビリー・バップス:僕たちのピリオド(YouTube)
ヒルビリー・バップスは、結局、91年に解散した。
メジャーデビューして、たった四年という活動期間だった。
宮城宗典は、今、江東区亀戸の自性院に眠っており、
ファンの献花は、ささやかでも絶えることがないとのことだ。
***************
追記:サポートメンバーとしてしばしばライブに参加し、
ヒルビリー・バップスの後半期には正式メンバーとなった、
キーボードのライオンメリーを、
私はのちに、戸川純のライブ映像で見かけたことがあった。
また、宮城の死後の、ヒルビリー終盤の頃、
清志郎(のソックリさん・爆)がTHE TIMERSを結成したとき、
後ろでウッドベースを弾いていたのが、
ヒルビリー・バップスのベーシスト川上剛(のソックリさん・爆)だった。
The Timers:あこがれの北朝鮮(YouTube)
(了)
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宮城宗典は、絶頂で、不意に消えてしまった。
それも、飛び降り自殺という痛ましいかたちで。
私は、彼らのライブに行ったことは結局一度も無かったし、
それどころか聴いたのは、たった二枚のアルバムだけだった。
ファンを名乗るまでの時間すら、なかった。
ライブでの彼は、どんなシンガーだっただろうか?
どんなステージアピールをし、どんなMCをしただろうか?
彼の周囲にいたバンドのメンバーは、
どんな配置で、どんな雰囲気で演奏しただろうか?
・・・何もかも、想像の世界の中だけで、終わってしまった。
死ぬ直前の頃、宮城宗典に特別に変わった様子はなく、
それゆえにあまりにも唐突な死であったというように、
当時の記事で読んだような、曖昧が記憶があるのだが、
後になって、ファンだった人に聞いたら、自殺前日のライブで彼は、
『春になると、椿の花は、その姿のまま、落ちて終わる』
という意味の、聞きようによっては不気味な話をしていたそうだ。
今となっては、こんな断片的な言葉に、どれほどの意味が、
あったのか、なかったのか、もう知る由もないことだけれど。
88年5月5日、宮城宗典 追悼 ラストギグが日比谷野外音楽堂で行われ、
それには勿論、清志郎やチャボ(仲井戸麗市)も出演した。
「いなくなったヤツより残された人のために」
と言って、清志郎は『BAKANCE』を歌ったということだった。
「いなくなった『ヤツ』」と「残された『人』」。
そういえば清志郎は、86年に岡田有希子が飛び降り自殺したときも、
「バカが」と言っていたものだった。
清志郎は、理由は何であれ自殺という決着の付け方など、
決して認めたくなかったのだろうと、私は勝手に想像した。
その1ヵ月後のRCサクセションのライブに行ったとき、私は、
清志郎が『BAKANCE』を歌うのを、87年のソロ以来初めて聴いた。
もう彼は、この曲について何もコメントしなかったが、
私はヒルビリー・バップスの『バカンス』を思って胸が詰まった。
この一曲だけでなく、本当ならもっともっといろいろな曲が、
これから宮城宗典のために用意されたかもしれなかったのに。
私は、彼の声が、本当に好きだった。
絶妙のリズム感と、切なくたたみかけるような歌い方、
彼の表現する躍動感、それと同居する癒やしがたい孤独感。
彼が自己表現として演技というものを併せ持っていたことも、
彼の歌の世界と、決して無関係ではなかっと思う。
音程表現が正しいとか、声量があるとかいう意味でなら、
彼と同じくらいに巧い人は世の中に多かったと思うが、
宮城宗典のムードを表現できるシンガーは他にいなかった。
彼がこの世から消えたということは、
あの声が、彼の世界が、永遠に失われたということだった。
(続)
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私が集中的にヒルビリー・バップスを聴いていたのが、
正確にはいつ頃だったのか、もうよく思い出せないのだが、
真夏に、仕事の終わったあとアパートの部屋で、
エアコンをかけて『TEAT IT UP』を聴いていた記憶があるので、
多分、熱中し始めたのは87年の夏頃だったのではないかと思う。
気に入った最初から、こんなロカビリーの決定版みたいな歌を
毎日聴いてしまった私は、その後、彼らを超えるバンドに出会えず、
今にして思えば、ツイていたのか、いなかったのか、不明だ(苦笑)。
ヒルビリー・バップス "ビシバシ純情"(YouTube)
今、ネットで調べたところ、ヒルビリー・バップスの結成は83年で、
当初、インディーズのバンドとしてライブハウスで活動していたようだ。
最初から彼らのレパートリーはロカビリーのカヴァーで、
メジャーデビューは86年4月だった。
86年と87年にはそれぞれ深夜枠でのテレビ出演も
レギュラーでやっていたのだが、私は当時は全く知らなかった
(テレビ嫌いがアダになったか、
それとも広島ではそもそもやっていなかったのか・・?)。
87年11月に出た2ndアルバム『HILLBILLY THE KID~DOWN THE LINE』は
情報不足で発売に気づくのが遅く、88年になってから買った。
このアルバムに収録されている『真夜中をつっぱしれ』は、
結果的に宮城宗典の歌った最後のシングルになってしまうのだが、
私はこの曲を初めて聴いたとき、
「やられた~!」
と思ったものだった。
何にヤられたと言って、その歌詞の内容と、宮城の魅力とが、
あまりにもピッタリとシンクロしてしまったところが、凄かった。
この曲は、愛する女性が車で来てくれるのを待つ男の歌だ。
真夜中を駆け抜け、やって来るのは「キミ」だ。
救急車と派手なカーチェイスを繰り広げ、
白バイの目をかすめて危ない橋を渡り、
鮮やかなハンドルさばきで向かって来るのが「キミ」だ。
一方「ボク」は、自分の部屋で、ただ待っていることしかできない。
ひとりじゃ不安定、寒すぎて眠れない。
ムーンライトを浴びて疾走する「キミ」を思い浮かべながら、
あったかい、でっかい、ブランケットで、
早く早く「キミ」を抱きしめたい、
・・・と、「ボク」は、「キミ」をひたすら待っているのだ。
Drivin' Drivin'
Comin' home, My baby
ヒルビリーザキッド 第1話・主題歌『真夜中をつっぱしれ』(YouTube)
(『ヒルビリー・ザ・キッド』は宮城宗典ほかヒルビリー・バップスの
メンバーが主演した87~88年の深夜ドラマ。
劇中でも多くの歌を宮城らが歌い、かつ、様々な形態で演奏していて、
今となっては非常に貴重な記録である)
少なくとも、88年初頭の私の感性では、
これは男女の役割が逆だ、と思った。
ひとりでは何もできない女のところに、
男のほうが車を駆って颯爽とやって来る、
というのが定番のイメージではないか。深夜ならば、なおのこと。
だのに、この曲では、それが反対になっている!
男前なのは、「キミ」のほう。
一方「ボク」は、「キミ」に三日会えなかっただけで不安で、
早くも不眠症になってしまったというのだ。
こんなものを、あの宮城宗典の歌で聴かされた日には!!
どうもこうも、ハマり過ぎて危険ではないか!!
なんというルール違反をやってくれるのだ!!
と私はこの曲と彼の声のあまりの魅力にクラクラ来た。
宮城宗典が死んだのは、私が初めてこの曲を聴いた直後だった。
88年3月29日、初の全国ツアーの、初日公演の翌日、
彼はビルの12階から飛び降りた。
遺書は、なかった。
(続)
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ヒルビリー・バップスの名を知ったのは、
昨日書いた通り私にとっては清志郎絡みだった。
彼がヒルビリーのために書いた『BAKANCE』という曲を、
私はまず87年3月の清志郎本人のソロライブで聴き、
清志郎がこんなにカタ入れする若い子達というのは、
どんなバンドなんだろうかと非常に興味を持ったのだった。
それで、知人が偶然所持していた彼らの1stCD『TEAR IT UP』を
カセットに入れて貰って、聴いた。
その時点で私は、メンバーの名前もろくに知らず、
もちろん顔など見たことがなかった。
ただヒルビリー・バップスというバンド名だけを頼りに、
辿り着き手に入れたCD(の録音・爆)だった。
一曲目が『激的バーニング・ラブ』、
プレスリーにBurning Loveって曲がなかったっけ?と思いつつ、
聴き始めたら、このCDがなんともノリが良くて、
どこか懐かしい感じさえして、これってなんだっけ?と
ウキウキした気分が止まらないまま、一気に聴いてしまった。
ヒルビリー・バップス:激的バーニング・ラブ(YouTube)
(ドラマ『ヒルビリー・ザ・キッド』より)
清志郎の提供した『バカンス』も勿論あったし、
仲井戸麗市のソロ・アルバムにある『ティーン・エイジャー』も
ヒルビリー風にカヴァーされたものが収録されていた。
ヒルビリー・バップス:ティーン・エイジャー(YouTube)
仲井戸麗市:ティーン・エイジャー(YouTube)
また、三曲目の『SUMMER TIME・サマー体育』は、
RCサクセションのCD『PLEASE』に入っている『体操しようよ』を
彷彿とさせるような可愛らしささえあって、
私が彼らを気に入るのは、RCに通じるものがあるからなのかと、
最初は漠然と思っていた。
それから幾度かCDを聴いて、私はハタと気づいたのだ。
この、エイトビートではない、つっかかるようなリズム、
これはロカビリーではないかっ、と(バンド名で気づけよ、遅っっ!)。
こんな若い子が新しい感覚でロカビリーをやるなんて、
しかも、これほどまでの完成度で楽しく聴かせるなんてと、
私はここから俄然、面白くなった
(かなり後になって、ボーカルの宮城宗典は私と同学年だと知った。
87年には22歳かそこらだった。自分もだ(爆)。
だのに『こんな若い子が』って、一体。
私は当時、どうも自分と清志郎が同世代だと勘違いしていたらしい。
単に、ヒルビリー・バップスを知る以前に、
清志郎のファンになっていた、というだけだったのに)。
(続)
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なかなか腰を据えて宮城宗典のことを書く機会がないのだが、
先日、ここで前振りだけしたように、YouTubeには実に貴重な
在りし日の彼の映像がUPされていて、私は今になってこのように
歌い、動き、笑う彼の姿が見られるなんてと、ここ数日、
見たかったものに、ついに巡り会った感激を味わっている。
そしてネットで検索してみたら、今でもずっと、
宮城宗典を忘れないどころか、彼の大ファンで、
彼がいた当時のヒルビリー・バップスを、
最高のロカビリー・バンドのひとつとして、
変わらずに愛しておられる方々が少なくない、
ということが、とてもよくわかった。嬉しかった。
きょうYouTubeで見つけたお宝は、
ヒルビリー・バップス:BAKANCE(YouTube)
だった。
この映像にはタイトルしか出ないけれども、
これは忌野清志郎が彼らのために書いた曲だ。
私がこの曲を初めて聴いたのは清志郎バージョンで、
87年当時のソロ・ライブのときだったと思う。
もっとも、清志郎のはずっとアップテンポだったような気がするが。
そう思って、清志郎のライブ・アルバムを検索したら、
これが入っているライブCDはHAPPY HEADSだとわかったのだが、
収録は中野サンプラザとなっていて、
私はどうも渋谷公会堂で聴いたように記憶していたので、
ちょっと混乱を来してしまった。サンプラザだったっけ???
(清志郎ソロではなく)RCサクセション:BAKANCE(YouTube)
と、それはともかく、宮城宗典だ。
私は彼以降、これほどロカビリーを体現したシンガーに、
まだ一度も巡り会ったことがない。
なぜ、彼が自殺したのか、理由は今も定かでないようなのだが、
私は彼に限っては、「若くして死んで伝説になったのが良かった」
とは毛頭、思わない。
もっと、ずっと聴いていたかった、と痛切に思っている。
(続)
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YOSHIKI重症!世界ツアー無期限延期 (SANSPO)
『人気ロックバンド、X JAPANがパリ、台北、ニューヨークなどを回る世界ツアーを無期限延期することが8日、分かった。リーダー、YOSHIKIが持病の頸椎椎間板(けいついついかんばん)ヘルニアとけんしょう炎を悪化させたため、ドクターストップがかかった』『3月の東京ドーム3夜連続公演でも、医師からコルセット装着を忠告されたが、ファンに元気な姿を見せようと装着せずに激しいドラムプレーを敢行。初日には、機材トラブルで開演が2時間以上遅れたことや、準備で多忙を極めたことでストレスが溜まったのか、自らドラムセットに飛び込み、下半身が血だらけになるけがも負った。』
もしこれが普通の社会人だったら、
「自制心がなさ過ぎる、或いは健康管理が出来なさすぎるために、
契約を履行できなくなった」
という評価になり、周囲の信用をなくすだけだと思うのだが、
ミュージシャンとかアーティストとなると話は別で
自分で自分の身体を徹底的に痛めつけるのは、
純粋な情熱を表現する、美しい行為のように見えるから不思議だ。
ネットで見た範囲では、前者の感覚でYOSHIKI氏を責める感想もあり、
体あっての音楽活動なんだから優先順位を間違えてはいけない、
という意見は、ファンの間からも出ていた。
私も勿論、その通りだと思うので、
私人としてのYOSHIKI氏の行動を全肯定する気には、ちょっとなれないが、
しかし、こういう、判断力が破壊されているような人間だからこそ、
尋常でない音楽を創造することができるのだろう、とも思っている。
その、あまりにも普通でない行動、我々の理解を超えた方向性を
凡人である我々は、ときに鮮烈なものとして肯定したくなるのだ。
常識の枠を遙かに超えた人間だからこそ、尋常でない芸術をやるのだ。
常識内の人間には、常識内のものしか創造できないことが多く、
それは芸術とは呼び難い凡庸なものであることがほとんどだと私は思う。
「疲れるから、このへんで、やめとこう」とか
「このあと○○があるから、きょうはセーブしよう」などと
ごく普通の次元で管理ができるような人間は、多くの場合、
ごく普通の感性しか持っていないわけで、
ごく普通の次元の音楽しか奏でられないとしても無理はない。
勿論、素晴らしい常識人で決してヒトに迷惑をかけず、
どこから見てもお手本のような社会常識を備えたアーティスト、
というものも、絶対に存在しないなどとは言わない。
また、芸術家としての特異な感性が、
必ずしも生活のすべての面で発揮されるわけではないから、
見た目はごくごく普通の人が、芸術の場でだけ非凡、
というのもあり得ないことではないだろう。
芸術家であるためには、まず奇人変人であることが前提、
などと言うつもりではない。
しかし、わが道楽人生を振り返ってみると、
少なくとも、私がこれまで心惹かれた芸術家たちのうちで、
行動が少しも変でないヒト、というのは、どうも思いつかない(逃)。
もともと、おかしな(爆)素因がありそれゆえにユニークなヒトが、
芸術などという危険で異常なものを見つめる日常を過ごしているために、
相乗効果でよけいにヘンになる、というのもあるのではと思う。
ともあれ、どうかこの先も、YOSHIKI氏の破格の感覚に、
彼の体が、ちゃんとついて来られますように、と陰なら祈っている。
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『ケロロ軍曹』の主題歌の『ケロッ!とマーチ』の楽譜が
どこかにないかと娘が言うので、
「テキトーでいい?ハ長調で良いなら書いてみようか?」
と私が言ったら、娘は目をキトキトにして、
「おかーちゃん!天才!ユー・アー・ジーニアス!!」
と私を褒めそやした。
ホメられると天まで昇る私は、気軽に楽譜を書こうとしたのだが、
考えてみたらこの曲は、途中で軍隊ラッパみたいな分散和音が入って
(『きをつけー!目を食いしばれー!』の台詞のところ)
その直後から転調しやがるのであった。
さらに、ワンコーラス終わって、間奏があり、
二番も同じ構成だから軍隊ラッパがまたあって、再度転調(--#)。
私はアタマの中がツェルニー30番で止まっているので、
ハ長調以外の調性は勘弁して貰いたかった。
その程度の素養しかないのだ。
仕方がないからDVDで主題歌のところを聴いて、ピアノで音を探した。
私に絶対音感なんかあるワケないじゃないですか。
幸い、相対音感はアヤシゲながら一応持っているので、
最初の一音を決めて貰えば、そのあとしばらくは、
――つまり、同じ調性が続く間は、歌ってどうにかできそうだった。
それとて、しばしば勝手にズレるので油断はならないのだが。
わかったのは出だしは変イ長調だということだった。♭が4つだ。
(バッハじゃないから嬰ト長調だとは言わないよね???)
マーチだから二拍子、歌の『♪けろっ けろっ けろっ いざ進めー』は
『♪ろっ』が一拍目なので、『♪け』は前の小節の最後から始まっている。
ってことは弱起の曲だなと思ったが、前奏から書けば普通の四分の二拍子。
ああもう、たったこれだけのことで、ほとほとイヤになる私であった。
んー、なんで休符と音符で拍の数が合わないのかなー?
という基本的な算術で幾度もつまづきながら
(買い物をしてお金を出したらお釣りが合ってないといけない、
とポゴ氏がマスタークラスで仰っていたのは、このことだった←違)、
どうにか『♪カレーのライスを炊き忘れ~』まで来た。
転調のあと『♪閉まるドアー 小指挟んだー』からは、
変ロ長調になって♭がふたつ減った。
こういうものはひとつでも減ってくれたほうがいい。
もののない部屋はスッキリして気持ちが良いのと一緒だ。
二番に入っても変ロ長調のまま、音型は一番とほぼ同じ、
二番の転調のあとは、♭がふたつ減る転調だから、
やったっっ!ハ長調だっっっ!!
できた……(T.T)。
素人が、要らんこと、するんじゃなかった。
♪ど疲れさん
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「BUCK-TICK」ギタリストが結婚(スポニチ)
私はこのバンドをきちんと聴いていないので、
音楽については語る資格が全くないのだが、
彼らのデビューから数年の出来事を断片的に覚えていて、
世代的に、なんとなく親しみを感じるバンドではある。
こういう、若いときを知っているバンドが、変わりなく、
というより現在いっそう見事な活動をしているのを耳にすると
彼らがホンモノだったことが、よくわかる気がする。
ご結婚、本当におめでとうございます。
ますますのご活躍を。
**************
で、私が彼らに関して今でもはっきり覚えているのは、
80年代のビクターのCMと、
平成元年の、某氏の麻薬取締法違反によるタイホ事件、
それと、このバンド絡みで交わした、職場の男性との会話だ。
その人は、当時中学生の娘さんを持つ中年男性だった。
男「娘が熱中しとるグループサウンズの男がさ」
私「はぁ(60年代かよ(--#))」
男「マヤクかなんか、やって捕まったいうニュースが、
今朝、出てさ。娘が泣いとったよ」
私「ああ、あの髪の毛が植木鉢みたいな人たちですね」
男「それやそれや」
私「ミュージシャンはヤクとかいろいろある人もいますね。
でもきっとすぐ復帰できますよ。大丈夫ですよ」
男「なんか変わった名前のグループやったな」
私「バ(………クチク)」
男「バックチック、とかいう……」
それじゃスキップしてしまうってば。
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