goo blog サービス終了のお知らせ 
転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



朝から漢詩の会に行ったのだが、80歳超の皆様が
休まずご出席になっているので感服してしまった。
実家の村の高齢者の方々を観察していて、私は常々思っているのだが、
80歳になるまで、何であれ死なないで生きて来られた人間というのは、
どうも、生来の生命力や耐久力が、並みの人と違うのではあるまいか。
弱い生まれの人間は、それ以前のどこかでとっくに力尽きているように思う。

「おはようございまーす。毎日、暑いですねー」
と私の隣人のおばあちゃまは、きょうも、このうえなく爽やかな笑顔だった。
まさか自家用車を運転して来られたとも思えないのに、
どうしてこんなにハツラツとしていらっしゃるのだろう。
私は、この暑さにはどうかすると命の危険を感じるのだが……。

さて、きょうは、頼山陽の漢詩をいくつか読んだ。
頼山陽は終生、母を思う詩を折に触れて作っており、
その篤く細やかな孝心には胸を打たれる、……のだが、
見ようによっては、マザコン?と「どん引き」だ(逃)。
しかしそれは、頼山陽が若い頃に脱藩を企て、本来なら死罪にあたるところ、
頼一族の命がけの尽力の御陰で救われたという経緯があったためで、
儒教的な意味での親孝行以上に、彼の感じていた母への恩義は深く、
本人にとって大変に重要なものだった、ということだ。

頼山陽は、三十代の始めから約二十年間にわたり、
母への思いや、母との想い出を漢詩にしている。
それらの作品では、冷え込む師走の部屋で読書をしながら、
母はどうしているだろうと思いを馳せたり、
母を伴って嵐山に出かけ、枕を並べて満ち足りた夜を過ごしたり、
母をかごに乗せ自分はそのそばを歩いて吉野を旅したりと、
それはそれは微笑ましく温かい母と息子の風景が詠まれている。

中でも、母と二人で久しぶりに月見をしたという、
文政7年、頼山陽45歳時の『中秋、無月、母に侍す』は切ない。
せっかくの月見だったのだが、この夜は月が顔を出さなかった。
しかし息子としては、それはかえって幸運だった、と言う。
なぜなら、自分の白髪頭を、老いた母に見せなくて済んだから。

『恨みず 尊前に 月色の無きを 
看るを免れる 兒子 鬢邊のいとを』

頼山陽は52歳で没した。
江戸時代の終わり頃で、『人生五十年』の時代であったから、
寿命に関しては、特別に不遇であったとは言えないだろう。
しかし、これほどに細やかに敬慕した母を失ったのは
一体、何歳のときだったのだろう。
孝行したくとも母はない、となったとき、頼山陽は、
自分の後半生が閉ざされたかのような思いになったのではあるまいか。
そのことを詠んだ詩は、あるのだろうか。

……などと、想像した私は、甘かった(汗)。

なんと、彼の母親は84歳になるまで長生きした。
頼山陽を生んだのは20歳のときだったから、
彼の死去の時点で、母親は72歳で健在だった。
息子を送ってもなお、十年余もの余生があったのだ。
母・静子は自身も梅颸(「ばいし」。「し」は<風思>)という号を持つ文人で、
女だてらに(←当時)酒も煙草も嗜み、大変進歩的な女性であったということだ。


頼山陽史跡資料館 (我が家から割と近いところにある)

Trackback ( 0 )




朝から漢詩の会に行った。
きょうは魏呉蜀の三国時代について改めて習い、
高校のときやったのに全然覚えていなかったと反省した。
杜甫の敬愛する諸葛孔明が、蜀の名相であり、
彼の生きた三世紀頃の日本と言えば、
『魏志倭人伝』に記録されている卑弥呼の時代だ、
……という流れで、「天下三分の計」などの話になった。

一方、杜甫本人が活躍したのは8世紀頃だから、中国は盛唐、
日本は平城京の時代で、古事記や日本書紀が成立したあたりだ、
ということを、改めて確認した。
今更こんなことを言うと殴られそうだが、
私はこの漢詩の会に通うようになるまでは、李白や杜甫を、
平安時代くらいのヒトだと勝手に誤解していた(爆)。

源氏物語が世界最古の小説のひとつで、
あのような長編の散文作品が11世紀に成立していたのは凄い、
と、私が中学のとき歴史の先生が仰っていたが、
それを言うなら、孔子なんて弥生か縄文あたりの思想家だろう。
やはり中国の古典は底無しに奥が深いのだ。

『身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり』
と紀元前五世紀にもう言われていて、それが記録されていたのに、
21世紀の今、やはりピアスや茶髪などが日常的に存在している。
人間は昔から、こうして戒めなければならないほどに、
すぐフラフラと自分の身体を毀傷しては、悦に入っていたということか。

ちなみに孔子によると、「孝の始め」は「体を傷つけないこと」だが、
「孝の終わり」のほうは「立身出世」であるということになっている。
それは「他人より有名なエラい人になってお金を稼ぐこと」ではない。
孔子の説く「立身出世」とは、まず「身を立て道を行う」ことであり、
その結果、天下に名を轟かせる有徳の人物になれる、という順序だ。
「身を立て道を行う」ことをしなかった、つまり道徳的に駄目な人間は、
そもそも、出世のスタートラインに立つことさえできないわけで、
上昇志向の意味も現在とは段違いだったのだ。

こうしてみると、人生の規範となり得ることはすべて、
数千年昔には、既に言い尽くされていた印象さえある。
『論語』や『孝経』などは今読んでも、大昔の世迷い言ではなく、
むしろ我々の日常生活において、普通に通用する話ばかりで、
……そうすると人間というのは、つくづく、懲りない生き物だ、
ということではないかな、と思ったりした。

Trackback ( 0 )




午後に長野着。
川中島古戦場を見学。

***************

「川中島」頼山陽

鞭聲粛々夜過河
 べんせいしゅくしゅく よるかわをわたり
暁見千兵擁大牙
 あかつきにみる せんぺいのたいがをようするを
遺恨十年磨一剣
 いこんなり じゅうねんいっけんをみがき
流星光底逸長蛇
 りゅうせいこうてい ちょうだをいっすとは


川中島の戦いは幾度もあったので、
この詩の前半(奇襲のため、夜、静かに馬で川を渡った話)と、
後半(長蛇を逸し残念の極みであったと述べた話)は、
実は、それぞれ別の戦いのエピソードである、
……という話を聞いたことがあるのだが、
私の記憶は、正しいだろうか?

Trackback ( 0 )




北海道のオミヤゲを渡すのに実家に寄ったついでに、
高校生のとき使っていた部屋に行って、本棚の奥まで探し、
二畳庵主人先生の『漢文法基礎』を見つけ出した。

漢詩の会に通うようになった今、もう一度読みたいと
先日来、思い続けていた本だったのだが、
復刊以前の『新々英文解釈研究』と同様に、幻の名著で、
ここ何年も、容易に手に入らなくなっていたのだ。

高校生当時、この本はざっと目を通した程度で、
『新々』ほどしつこくやる熱意も時間もなかったのだが、
大人になった今、改めてひもといてみると、
日本の文学の中での、漢文の位置づけが、
入門編の文章からして、既にとてもよく理解できて面白い。

ちなみに、覆面の『二畳庵主人』としてこの本をご執筆になったのは、
実は加地伸行先生だったのだと、先日、某氏が教えて下さった。

Trackback ( 0 )




きょうは、警報が出るほどの大雨の中、漢詩の会に出かけたら、
さすがに出席者が少なく、十名ほどだった。
体調を崩されている方や、雨に負けた方(笑)、
ほか、おうちのご都合がおありの方々等々、
いつになく大勢、お休みになっていた。

と、それはともかく。
カイロがどうのこうの
と、先日来、ここに書いていたら、
なんと今回習った漢詩の中に、えらく近いところの作品があった。
明治時代の日本人・中井桜洲の七言絶句で、
西紅海舟中(にしこうかいしゅうちゅう)』、
アラビア海を行く舟の中で作られたという一編だった。

煙鎖亜羅比亜海
雲迷亜弗利加洲
客心遙在青天外
九萬鵬程一葉舟

煙は鎖(とざ)す アラビアの海
雲は迷う アフリカの洲(しゅう)
客心(かくしん) 遙かに晴天の外に在り
九万の鵬程(ほうてい) 一葉(いちよう)の舟

もやが、アラビア海をとざす煙のようにかかっていて、
雲も、アフリカ大陸がどこにあるのかわからないほど濃い。
旅の身である自分は、日本からどれほど遠く隔たったことか、
鵬が旅するという九万里の道のりを越えてきたのだ、
この一枚の葉ほどの船で。

……というような意味合いだそうだ。
中国の故事に出て来る「一里」というのは、2キロほどだそうだが、
そうすると九万里というのは、……(大汗)、
いや、大事なのは計算ではなく、
そのように表現するのが相応しいくらい、遠く遠くまで来た、
という雰囲気、表現の迫力のほうなのだ。

作者の中井桜洲は、1838年鹿児島生まれ、
ということは、この人が誕生した当時はまだ完全に江戸時代で、
歴史で習った「天保の改革」よりも前だ(爆)。
明治維新後には中井弘の名で開明派として活躍したそうだ。
ジェット旅客機など想像もつかなかった頃に、舟で海外に出て、
実際にアラビア海へ、アフリカ大陸近くへと旅したというのは、
どれほど大きな出来事であったことだろうか。
平成生まれのうちの娘ですら「遠すぎる」と言う紅海の彼方だ。
その風景を、目の当たりにしたときの、
中井氏の受けた深い感銘は、察するにあまりある。

Trackback ( 0 )




この10月から漢詩を習いに行っていることは以前書いた。
なんで唐突に漢詩を始めたんだと言われると、
一応、天中殺だから決めました、というのが直接の答えなのだが(汗)、
漢詩を読む、という勉強は、「いつか、やりたい」ものとして
私の中に長年あったのは本当だ。

漢詩との出会いは中学2年か3年のときだった。
国語の時間に、教科書の「古典」の単元で出てきた、
『黄鶴樓送孟浩然之廣陵』という李白の七言絶句に、
私は一目惚れしてしまったのだ。


黄鶴樓送孟浩然之廣陵
 故人西辭黄鶴樓
 煙花三月下揚州
 孤帆遠影碧空盡
 惟見長江天際流

黄鶴樓(こうかくろう)に
孟浩然(もうこうねん)の 廣陵(こうりょう)に之(ゆ)くを送る
 故人 西のかた 黄鶴樓を 辭(じ)し、
 煙花(えんか) 三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に 下る。
 孤帆(こはん)の 遠影 碧空(へきくう)に 盡(つ)き、
 惟(た)だ見る 長江の 天際(てんさい)に流るるを。


友人の孟浩然が広陵(揚州)に行くのを黄鶴楼で見送った、
という、唐の時代の李白の詩なのだが、
日本語で書かれた文学にはあり得ない言葉遣いや韻律に、
私はろくに意味もわからない段階から強烈に惹かれた。
今まで読んだこともなければ、勿論書いたこともない種類の言葉で、
文語調の日本語として知っていた響きとも違い、衝撃的だった。
けぶるように美しい春霞の光景を「煙花」、
ぽつんと遠くにひとつだけ見える帆掛け船の姿を「孤帆遠影」
と表現する漢字の威力にも感銘を受けた。

何より最後の「惟見長江天際流」、
「惟(た)だ見る」のは単に長江の流れる様を見るのではなく、
ましてや友人の乗った船の姿を見続けるのでもなく、
船の影が消えてしまった=友人が行ってしまったあとを
ただ、見ている、……という描写の余韻に私は畏れ入った。
姿が見えなくなっても、友人の行く先となったであろう方を
ずっといつまでも見つめ続ける李白の、断ち切れぬ思いが、
「天際流」という語に込められていると思った。


がつがつ勉強なんかして何になるのか、と問う若い人や、
学校の成績なんか意味がない、と仰る識者の方もいらっしゃるが、
私は少なくとも、公立の学校の、普通の授業で教えて貰ったことが、
四十歳を過ぎた今でも、こうして自分の中で大きな意味を持っている。
全く実用的でなくとも、社会に出て直接使えることでなくとも、
私を変えた出会いのいくつかは、教科書の勉強の中に、確かにあった。

国語の時間に習わなかったら、私は、
このような種類の文体の美しさや、中国文学の見事さを
知る機会が、もしかしたら無かったかもしれないのだ。
そうした教科書を使い授業で漢詩や漢文を勉強した御陰で、
私はこんなオバさんになっても、心震えるような瞬間を持つことができ、
それらを習った十代の日々のことをも、懐かしく大切に思い返している。
教科書にも、授業をして下さった先生にも、学校にも教室にも、
私は今でも、とても感謝している。

Trackback ( 0 )




この秋から通い始めた漢詩鑑賞の会で、きょうは忘年会があった。
小規模な会なので、あまり詳しく書くわけにいかないのだが、
ここの会員さんは80代の方々も少なくない、
と、今回の宴席で喋っていて発見し、私は驚愕した。
60~70代の方々が中心だろうと思っていたのだが、甘かった。

何人もの方が、昭和ヒトケタ前半生まれで、
子供の頃は世界恐慌の真っ最中、
五・一五事件だって二・二六事件だってリアルタイム、
満州事変はともかく日中戦争からはバリバリ実体験。
旧制中学や女学校の頃は学徒動員や疎開で授業にならず、
空襲で幾度も死ぬ思いをしたそうだ。
南京陥落を祝っての提灯行列をしたという、
うちの母なんかとは、ひどく話が合いそうだった。

この年代の方々が、戦中戦後を生き延び、現在80歳を超えて、
曾孫も何人かある境遇になり、ご自身のお仕事も自営なら現役で、
同時に、こうして趣味の漢詩の会に来られたりしているわけで、
一回の人生が、これほどに、世の中の変革とともにあったなんて、
昭和初期世代って凄いかも、と私はひたすら感心してしまった。

それに加えて、生物学的な成長曲線は一定のものがあるにせよ、
老化のスピードは完全に個人差なのだ、ということを、思い知った。
きょう来られていた方々は、実年齢は確かに80歳を超えておられたが、
全くご老人でもご隠居さんでもなく、
ごく普通に「社会人」である、という以外のなにものでもなかった。
とにかく話の反応が速くて柔軟なことに私は畏れ入った。
中年以降、トシを取ってないとしか思えなかった。

アンチ・エイジング、ここに極まれり(O_O)。


追記:今日もうひとつ驚いたことは、年齢層の高い宴会なのに、
喫煙者が皆無だったことだ。半数は男性だったにも関わらず!
煙モウモウを覚悟して行った私にとって、あまりに嬉しい誤算だった。

Trackback ( 0 )



   次ページ »