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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



目下、一人暮らしをしている。
娘の話ではない。私がだ。
三日限定だが(笑)。

というのは、主人が昨日、仕事の後そのまま東京に行ったからだ。
ご本人によれば、きょうは朝から西洋美術館でラファエロを観て、
ついでに午後には六本木ヒルズでミュシャ展を眺めたそうで、
明日は娘を呼び出し、ふたりで一緒に昼食をとる、と言っていた。
御蔭で私は、実質的に昨日の朝から、家でひとりきりだ。
テレビの音など全くしない。静かだ。自由だ。素晴らしい。
独身だった二十年前までは、
ずっとこんな暮らしをしていたのだなぁ……(遠い目)。

**************

それでまず、昨日は、昼から頼山陽史跡資料館に出かけて、
特集展『頼家の甘味(スウィーツ)~江戸時代の菓子文化~
をゆっくりと観て来た。
帰宅時間を気にしないで、こういう展示を見ることができるなんて、
絶えて久しくなかった幸せだった。

今回のテーマは、頼山陽の母・静子(号は「梅し」=「ばいし」。「し」は<風思>)の
日記を中心に、頼家関係資料に記録されている「菓子」に関する記述を取り上げ、
頼家の生活における菓子文化を紹介する、というものだった。
ちょうど今、ひろしま菓子博2013開催中で、
この特集展は、それに合わせ、全国菓子大博覧会広島実行委員会の
協力のもとに行われたものである由、紹介されており、
羊羹や焼き菓子の再現例も写真で展示されていた。
菓子博期間中は、(私は買わなかったが)再現菓子「そら豆羊羹」も
史跡資料館内で、数量限定で販売されているとのことだった。

頼家では、山陽の父親・春水の時代に、
儒教作法に則った祭祀が定められ、
年間を通じて、時祭や忌祭などが数多く行われるようになったのだが、
その献立の記述を見ると、当時どのような菓子が供されていたかを
今でもかなりの程度、知ることができる。
羊羹、餅菓子、かすていら、果物、等々、
祭礼のたびに、様々に趣向を凝らした菓子が用意されていたことが、
家での作り方とか、注文した菓子屋の名なども含めて
それなりに具体的に判明しているのだ。

以前、見延典子氏の梅し評伝『すっぽらぽんのぽん』を読んだときに、
儒教家庭の主婦生活がどういうものであるかを、
私なりに想像したものだったが、
こうして、献立の解説や再現菓子の写真などが並んでいるのを見ると、
改めて、主婦・頼静子の生活史が感じられ、
彼女が儒教思想に従って、家祭を丁寧に取り仕切ったことが、
はるか遠い時代になった今の私にも伝わって来るような気がした。

また、春水が旅先で「そら豆羊羹」の作り方を聞いてメモしていたり、
春水の弟・頼杏坪が、ある年の時祭の折りに、
手作りの羊羹を供えたという記述があったりして、
主婦のみならず男性たちも、当時の菓子文化には
結構、積極的な関わりを持っていたことが想像できる記録もあった。

**************

……ということで、昨日は、ひととき、
私は江戸時代後期にタイムスリップして、
当時の生活記録や菓子の変遷などを辿ったあと、
穏やかな夕方前の陽射しの中を、歩いて繁華街の真ん中に戻ってきた。
それから、友人のお嬢ちゃんの中学入学祝いの品を選び、
自分の翌日朝食用にパンを買って、
本屋をハシゴしたのち、更に歩いて家まで帰った。
時間に追われず、気の向くまま存分に歩き回ることができ、
素晴らしく開放感があって、満ち足りた良い午後だった(殴)。
夜も、翌朝の準備など気にする必要がなかったので、
パソコンで遊んだあとは、夜更かしして読書した。

これは昔から自覚のあるところなのだが、
私は、自分に肉体的な苦痛があるときは別として、
そうでなければ、「構ってちゃん」にはほど遠い人間だ。
私は、周囲から構われず、放っておいて貰うことが、かなり好きだ。
ひとりで思い通りに行動できるとき、私は最も精神的に解放される。
今時の学生が「ぼっち」が怖いなどと言っているのを聞くと、
「なんで、ひとりでメシも食えんのか」
と内心、せせら笑うような心境さえ、私にはある。

しかし勿論、私は天涯孤独になりたいと望んでいるわけではなく、
自分に繋がる人たちには、少し離れたところに存在して貰って、
かつ、それぞれが幸福でいて欲しい、とは思っている。
つまるところ私のは、「家族、元気で、留守が良い」という、
どこまでも、手抜きで得手勝手な願望であるわけだ。
普段、自分が家族からして貰っていることが多々あるということや、
家族が居ればこその幸せだってある、ということもまた、
言うまでもなく、よく承知しておりますとも(^_^;。

さて、そういう次第で、二日目のきょうはきょうとて、
友人某氏が誘って下さったので、
宝塚OGによる『DREAM LADIES』の広島公演を観てきた。
これまた、実に楽しかった。
感想については、多分、また明日(笑)。

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頼山陽史跡資料館の平成24年度企画展
菅茶山の文人ネットワーク――黄葉夕陽文庫を中心に――』
を、一昨日、ようやく見て来た。
例によって、展示期間の終盤ぎりぎりになってしまった(汗)。
菅茶山は江戸時代後期の儒学者・詩人で、
頼春水(頼山陽の父)・春風・杏坪の三兄弟と親交篤く、
脱藩事件を起こし廃嫡になった山陽が、一時期、身を寄せたのも、
この茶山の開いていた私塾だった。

頼山陽趣味の私としては、頼春水の珍しい楷書体の軸装作品
『新様楷書』を見ることが出来たのが、とりわけ感銘深かった。
今回のは1790年の作、中年期の春水の楷書ということで、
本当に貴重であったとともに、菅茶山からの書状への返礼として、
この書体を選んだ春水の心情は、いかなるものだったかと
様々に想像させられた。

ほかに、葛子琴の七言律詩や、岡本花亭 賛の『菅茶山肖像画』、
谷文晁が菅茶山の古稀を祝って贈った『磻渓跪餌図(はんけいきじず)』
(菅茶山を太公望に見立てたユーモラスな肖像画)、
山陽の恋人であった平田玉蘊の筆による『万歳図』などがあり、
私自身、名前や逸話を記憶している人達も数多く登場し、
大変興味深く観ることができた。

菅茶山は、学問によって世の中を良くしようとの理想を持ち、
貧富の差なく、志ある者は皆が学べるようにと
私塾を開いて教育活動に努め、差別のない世の中を願った人だった。
現在のように交通機関や通信手段が発達していたわけでなく、
書簡ひとつの往復にも日時のかかった時代に、
菅茶山の交友がこれほど各地に広がっていたのは驚くべきことで、
友人知人が彼を描き、彼のために贈った作品の数々からも、
その思想や実践に共鳴する人達が多かったことが感じられ、
この人の精力的な人生と、魅力的・社交的な人柄とが伺える気がした。
また、ここに記録されていなくとも、人生の一時期を菅茶山に学び、
それを糧に、地域や家族に貢献をして一生を過ごした無名の人達も、
きっと数多くあったことだろうと想像した。

**********

その関連で書いておこうと思うのだが、昨日はピアノの稽古帰りに、
前々から気になっていた『頼山陽 煎餅』のお店を訪ねてみた。

 

数年前、姑が天満町の病院にいた頃、私はよくこのあたりを歩いていて、
テレビ新広島『TSS味なプレゼント』で「むさし!土橋店!」と
宣伝していた『むさし』が、こんなところにあったかと知ったりしたのだが
TSS味なプレゼント「むさし」(YouTube)→超ローカルな話題だ(^_^;)、
この、頼山陽煎餅本舗『藝陽堂』も、実は、その一角にある店なのだった。

頼山陽煎餅本舗 藝陽堂(食べログ 広島)

頼山陽像では最も有名な、大雅堂義亮の画をもとにした、
藝陽堂の『頼山陽先生画像』のしおりや、
『日本外史』を紹介したパンフレットなど、何点か頂いて来た。
頼山陽煎餅は、小麦粉と卵がベースになった甘い素焼きで、
強いて言うなら、神戸の瓦せんべい風の味わいだと思ったのだが、
堅焼きでもなく、風味のある柔らかい感触が、良い感じだった。
家に帰ってお茶を淹れて食べたら、なかなか美味くて、
うっかり完食してしまい、写真を撮り損なった(殴)。

**********

もうひとつ、最近の頼山陽関連の話題というと、これだろう。

頼山陽の詩碑再建へ募金訴え(中国新聞)
『江戸時代後期、儒学者頼山陽が訪れて漢詩を詠んだ大分県中津市の渓谷・耶馬渓(やばけい)で、山陽を顕彰する詩碑が7月の水害で流され、地元中津と広島の有志が再建に乗り出した。募金活動に協力を呼び掛けている。』『耶馬渓は奇岩が連なる景勝地。山陽は1818年の九州旅行で絶景に感動し、当時の地名「山国谷」にちなんで「耶馬渓」と名付けた。1960年代に地元製材業者が山陽を顕彰しようと高さ約7メートルの詩碑を建立。裏面に渓谷美を詠んだ山陽の漢詩を刻んでいた。』『川沿いにあった詩碑は7月の豪雨で流失した。住民が捜しても見つからず、小説「頼山陽」などがある作家見延典子さん(57)=広島市佐伯区=や、NPO法人中津地方文化研究所の近砂敦副所長(59)たちが再建を計画。約40人でグループ「燦々(さんさん)プロジェクト」を10月中旬に結成し、300万円を目標に募金活動を本格化させた。』『耶馬渓の石を使って来年12月の完成を目指している。広島では頼山陽史跡資料館(広島市中区)に募金箱を設置した。』

こういう活動は、特定の作品や地域に愛着を持つ人達で
力を合わせる以外には、なかなか実現が難しいことだと思う。
漢詩趣味から、頼山陽にご縁が出来たことなので、
私も継続的に、ささやかながら協力して行きたいと思っている。

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漢詩の会、最後の日だった。
先生が、最終講義のためにお選びになったのは、
李白の代表的な詩二十編ほどと、
白居易の『慈烏夜啼』、それに『燕詩示劉叟』だった。

『燕詩示劉叟』(燕(えん)の詩 劉叟(りゅうそう)に示す)
は我が子の巣立ちを見送る親を描いた詩だ。
つがいの燕が、四羽の雛たちを懸命に育てるのだが、
言葉を覚え、羽根が生えそろった雛たちは、あるとき、
天高く飛び立ち、親が呼んでも帰って来なくなってしまう。

燕燕爾勿悲
爾當返自思
思爾爲雛日
高飛背母時
當時父母念
今日爾應知

燕や燕 爾(なんじ)悲しむ勿(なか)れ
爾(なんじ) 當(まさ)に 返って自(みずか)ら思ふべし。
思へ 爾(なんじ)の雛(ひな)爲(た)りし日,
高く飛んで 母に 背(そむ)きし時を。
當時の 父母の念(おもひ)
今日 爾(なんじ)應(まさ)に知るべし。

……身につまされますな(爆)。
うちの娘も今、高校を出たらどこかに行くと言っているし、
それはまさに、私も主人もかつてして来たことで、
子を送り出す親の心情というのは、
その立場になって初めてわかることもいろいろとあるものなのだ。
まあ、でも、進学や就職で家を出るのは、むしろ喜ぶべきことで、
少なくとも文字通りには「背いて」出て行くわけではない、
というのが救いかな。
新しい生活に夢中になって、あまり後ろを見なかったのは確かだが、
でもまあ、自分たちも昔、「行くな」と止められたのではなかったし、
今の私達にしたところが、娘を全然、止めてないし(^_^;。

そのあと、場を移して、近所の料理屋さんでお別れ会の昼食会をした。
何しろ、メンバーの年齢層が高いので(^_^;、
盛り上がると、幼年学校校歌、海軍兵学校校歌、の世界だった。
「岩崎嶽東の『国体篇』を読んだら、右翼になりますか?」
と一人の男性会員がユーモアを交えて質問されると、先生は、
「いいえ。右翼が、わかるように、なります」
とお答えになった。

こういう場を、今後失ってしまうのは、私にとって大きな損失だと思った。
この会には、単なる素養としての漢文の知識だけではなくて、
日常生活では私が決して得ることのできない、「古き良き」ものがあった。
この文化を肌でご存知だった世代の先生から、直接お話を伺えなくなるのは、
私のような者には大変残念なことだ。
しかし時の流れは止まらず、若者は巣立ち、
人は誰しも年齢を重ね、世の中は変わる。
年年歳歳花相似(年年歳歳 花あい似たり)
歳歳年年人不同(歳歳年年 人同じからず)
と劉希夷も言っていると、この講座で幾度も習ったではないか。

先生の、ますますのご健康をお祈りし、一本締めで閉会となった。
長い間、本当にありがとうございました<(_ _)>。

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2008年10月から、某所で漢詩鑑賞を習ってきたのだが、
このほど、来月いっぱいでこの会が解散することになった。
理由は、これまでご指導下さっていた先生が、
ご高齢(数え年で87歳)のため、引退をお決めになったからだった。

先生は、いつもとてもお元気そうで、
私にとっては初めてお会いした四年前と今とで、
少しもお変わりになったようには見えないのだけれども、
先生ご自身、大きな声が出にくい等の体力の衰えを感じていらっしゃり、
また、夫人や娘さんたち御家族も、とてもご心配になっているとのことで、
定期的に指導に出て来る生活には、申し訳ないが区切りをつけたいと思う、
というお話が、きょう、あった。

私たち生徒のほうも、そのようなお話があっては、
もう、何を申し上げるということもなかった。
寂しくは思うけれど、先生がお考えの末に決定されたことではあるし、
先生の御年齢を思えば、よくぞここまでご指導下さったと、
心から御礼を申し上げなくてはならないと思った。
先生とともに長く勉強して来られた生徒さんが多くいらっしゃる中で、
私などは、ここ、ほんの四年ほどの関わりに過ぎなかったが、
大変多くのことを教えて頂いたと思うし、大いに啓発され、
漢詩の世界への手ほどきを実に丁寧にして頂けて、幸せだった。

「漢詩を読んだり、漢詩を作ったりする勉強は、
これから家にいても出来るので、続けて行きます」
と先生は仰った。そして、
「皆さんも、ときどきはプリントを取り出して、思い出して下さい」
とも。
実質、まだあと二回はこの会が開かれることになっているので、
その時間を、より大切に過ごしたいと思った。
来月の最後が、先生の最終講義になると同時に、
私たち全員にとっても、その日が互いのお別れ会になるのだ。

それから、先生はいつも通りに、李白と杜甫のお話をして下さり、
更に、漢詩をやったと言うにはこれをしなくては、と
白居易『長恨歌』を解説して下さり、全員で読んだ。
帰り際、私の前の席のおばあちゃま(この方も80歳超でいらっしゃる)が
ウフフと振り返って、小さな紙片を私に下さった。
開いてみると、美しい手書きで、

『ひとり去り ひとり往きなむ 現世(うつしよ)に
 一期一会の 思いは深し      ――読み人知らず
(あなたに会えて幸せです!)』

と書いてあった。

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午前中ピアノのレッスンに行って、帰り道に頼山陽史跡資料館に寄り、
第114回展示「頼山陽の書~その見方と見分け方~」を見た。
きょうもとても暑かったし、昼を過ぎていて食事もまだだったのだが、
もうあと数日で展示自体が終わりだったので、
後回しにして機会を逃してはいけないと思い、頑張って行った。

この資料館は、ひとつの展示が一か月前後は続くので、
期間中いつでも行ける・余裕じゃないか、
と特設展の内容が新しくなるたびに思うのだが、
そうやってのんびり構えていると、毎回すぐに最終日が迫って来てしまう。
前回展示の「平清盛と“平家”の人々~頼山陽からみた~」など、
5月半ばから、ちょうど一か月しか開催されていなかったせいもあって、
ポゴレリチ来日騒動で私が狂っていた間に、簡単に終わってしまった(T_T)。
だから今回は、どうしても見逃さないようにしたいと思ったのだ。

この展示では、山陽の書の、年代別の特徴が解説されていて、
青年期の終わりから晩年に至る作品を追いながら、
彼の書体の変遷がわかるように、鑑賞ポイントが説明されていた。
若い頃の山陽は、父・春水に倣った頼家らしい闊達な筆遣いで、
力強い書を残しているのだが、中年に差し掛かるにつれて、
そこに、彼らしい構成感を生かした、躍動的な面が加わって来る。
右肩上がりの、動きのある配列で、文字に生命力が溢れてくるのだ。
そして晩年(と言っても50代だったわけだが)になると、
更に、文字全体のシルエットが丸みを帯びてきて、
独特の柔軟さが現れて来るようになる。

山陽がもっと老年になるまで生き長らえていたら、
彼の書は、どうなっていただろうか……、
ということも、とても興味深く想像させられた展示だった。
この人の書は、文人画の素養も相まって、
紙の上での空間を構成する感覚に優れており、絵画的な魅力が見える。
細い線にもしなやかさや勢いがあり、
字画の多いところも、塗りつぶされたようになることが決してなく、
文字と文字の間隔にも、絶妙な配慮がなされているのだ。
ゆえに、贋作との見分け方も、そのあたりにポイントがあって、
今回は有名な贋作もいくつか、比較のために展示されていたが、
線が弱々しかったり、墨を付けすぎて重くなったりしているものは、
ほぼ、偽物と思って間違いがない、という意味のことが書かれていた。

それにしても、漢詩の会での頼山陽との出会いが縁となり、
私は(前回展示は見損ねたが)二年近く前からだいたい欠かさず、
この資料館の特集展を観に通って来るようになったので、
かねて心配していた通り(^_^;、どうも、ついに顔を覚えられたようだった。
受付の方が、きょうは常設展や特集展などの説明はなさらずに、
「もう、おわかりですよ、ね?」
と笑顔を見せられたのだ(汗)。
は、はい。
既に常設展までは見なくて良いくらいの常連に、なりましたです(^_^;。

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かなり以前の話になってしまったが、1月11日の昼に、
頼山陽 史跡資料館の第110回展示
女筆~頼山陽をめぐる女性たち~』を観てきた。

頼家の女性たち(山陽の祖母・母・妹・叔母)、
山陽の妻(最初の妻の淳と、二度目の妻・梨影)、
そして山陽周辺の女流画家たち(平田玉蘊・江馬細香・上田琴風)、
……と、大まかに分けて三部から成る、合計32点の展示だった。
これまで頼山陽関係の展示は気をつけて見に来るようにはしていたが、
今回は私にとって、実物を見るのは初めてというものもいくつもあり、
その存在さえ全く初めて知った作品もあった。

まず、頼家の女性たちの書を見ながら、頼家にとって和歌というものが、
とても大切なたしなみであったことを感じた。
私には、頼山陽と言えば漢詩、という印象が刷り込まれていたのだが、
山陽自身も様々な場で和歌を詠んで書き残しているし、
祖父の惟清・父の春水・叔父の杏坪らの作品もいくつもあり、
祖母なか・母の静子もいずれ劣らぬ和歌の名手であったことが伺われた。
また、妹の三穂、杏坪の妻・玲瓏(ゆら)らの手になる歌が残っていたことは
今となってはかなり貴重な史料なのではないだろうか。

貴重と言えば、山陽の最初の妻・淳が、息子の聿庵に宛てて書いた手紙は、
かなり最近になって発見されたものだそうで、
歴史の表舞台に登場することのない、こうした女性の残したものが、
ひっそりと今日まで伝えられてきたことの不思議さや有り難さを感じた。
淳は山陽とは離縁になったため、自分の手で聿庵を育てることは出来なかったが、
交流は途切れず、成人した聿庵は淳のもとを幾度も訪れていたようだ。

山陽が京都に出てから出会った梨影は、後に彼の再婚相手となるが、
彼女の読み書きは山陽が教えたものだったということだ。
残されている彼女の筆跡はふくよかで生命力があり、
資質に恵まれ、努力を怠らなかった女性であったことが感じられた。
梨影は聿庵に山陽の最期の闘病の様子を書き綴っており、
山陽と梨影の間に生まれた息子たちも末尾には名を連署し、
ともに暮らしたことのない聿庵を「兄様」と呼んでいたことが印象的だった。

平田玉蘊は頼山陽の恋人だった女性で、画家として自立した存在だったが、
このほど展示されていた彼女のいくつかの書状の宛先は、
例えば女流画家の上田琴風や、菅茶山の妻の宣らで、
皆、頼山陽につながりのある人々であり、
当時の著名人同志の交流が伺え、興味深いものだった。

江馬細香は、玉蘊と別れたあとの山陽の人生に登場した女性で、
彼女もまた書画で名をなし、女性としてだけでなく、
学問的にも芸術的にも山陽を魅了した存在だった。
ただ今回の展示では、細香の作品は『重陽の図』一点のみで、
あとは、山陽と梁川星巌との合装で細香の漢詩がひとつ出ていただけだったので
(私の記憶に間違いがなければ)、私としては少々残念だった。
細香の漢詩には、山陽の指導を受けたものがかなりあった筈で、
叶うことなら、そうした二人の交流の跡を、もう少し見たかった。

それにしても、いつも思うことだが、こうした展示を見ると、
私が活字の中だけで知っていた頼山陽とその周辺の人々が、
本当に生きて活動していたことを感じることができ、やはり興奮させられた。
何より、現在とは比較にならないほど、物質面で限られた生活をしながら、
人の寿命も短い中で、彼らがこれだけ精力的に書に打ち込み、
創作活動を行ったことは、今の脆弱な私などからすれば超人的なことに思われた。
こうした貴重な史料が保管され、現在に伝えられていることに感謝するとともに、
これからも、彼らの呼吸を感じられるような場には
できるだけ機会を逃さず、足を運びたいものだと思った。

ときに、去年は門玲子・著『江馬細香―化政期の女流詩人』を読んだので、
今年は是非、池田明子・著『頼山陽と平田玉蘊―江戸後期自由人の肖像』を
読み通したいと思うとともに、可能ならば彼女の足跡を辿って、
尾道に出かけてみたいと考えたりしている。

平田玉蘊(尾道市立美術館『尾道の表現者たち』)

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書いておこうと思いながら、かなり日数が経ってしまったが、
頼山陽の関連で、こういう事件が昨年暮れに発覚していた。

頼山陽の掛け軸が盗難 竹原(中国新聞 2011年12月2日)
『江戸時代の儒学者、頼山陽にゆかりがある国重要文化財の春風館(竹原市本町)で、山陽の書を含む掛け軸約30点がなくなったことが1日、分かった。竹原署が窃盗の疑いで捜査している。』『同館は山陽の叔父春風の旧宅。個人所有で一般公開していない。竹原署や市によると、掛け軸は蔵に保管していた。11月17日に文化財の耐震診断で訪れた市職員たちが、内扉の鍵が壊され内部を荒らされているのに気付いた。引き戸が開かないよう固定した入り口の鎖も切られていた。』『掛け軸は文化財指定ではない。被害額は不明で、同署は盗難品の特定を進めている。』『同館は町並み保存地区の路地にあり、メーン通りの本町通りより人通りは少ない。竹原町並保存会は防犯対策を記した緊急文書を配布。市は同署、保存会と連携し警戒を呼び掛ける。』

私の頼山陽趣味は、2008年10月に漢詩の会に通うようになって以来で、
特に、頼山陽が母・静子のことを歌った詩があまりに印象的だったことが
直接のきっかけだった(篤い孝行心に打たれたという意味でも、
あまりのマザコンぶりに「どんびき」したという意味でも・笑)。
その後、広島市内の頼山陽史跡資料館の各企画展を覗いたり、
見延典子・池田明子・門玲子、各氏の小説や評伝を読んだり、
また昨年は、頼山陽の祖父の家がある竹原市にも行ってみたりして、
ここ数年で随分と、頼山陽とその周辺の人々への理解が深まり、
山陽の詩も、身近に感じられるようになったと思っている。

記事にある春風館は、山陽の叔父・頼春風の旧宅であり、
内部は非公開で、観光客は外観を眺めることができるだけなのだが、
昨年、その家の蔵に保管されていた掛け軸約30点が盗まれたということだ。
年末年始を挟んで、この事件は何か解決に向けての進展があったのだろうか。
頼山陽を読む者としては、こうした貴重な史料が失われることは
取り返しのつかない思いだし、なんとか戻って欲しいと願わずにいられない。
それと同時に、今のようなご時世では、こうした文化財的価値のあるものは、
可能な限り、公的機関に管理を任せたほうが良いかもしれないな、
という印象も持った。

頼山陽ネットワーク通信(PDFファイル)
上記『頼山陽ネットワーク通信』でも呼びかけられている通り、
もしも、小さなことでも何かご存じの方がいらっしゃいましたら、
頼山陽通信、あるいは頼山陽史跡資料館に宛てて、情報をご提供下さい。
よろしくお願い致します。

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頼山陽史跡資料館開館16周年記念企画展ということで、
先月15日から、頼山陽の長男・頼聿庵(らい・いつあん)の書が
展示されていて、きょう、それをようやく見に行くことができた。
一ヶ月以上続く展示なので、当初は、期間中幾度か行けるかな、等々と
とても気楽に考えていたのだが、案に相違して時間が取れず、
もうあと数日で展示終了という今の時期にまでなってしまった。

さて、その聿庵の書なのだが、期待以上だった。
頼家の人々は皆、能書家として知られており、書は頼家の伝統であったが、
聿庵の書は、その中でも異彩を放つ存在ではないかと、今回の展示を見て思った。
一年前に見た山陽の書よりも、私にとってはきょうの聿庵のほうが強烈だった。
私自身は書道の技法などほとんど知らないし、
書の世界における頼聿庵の位置づけというものも全くわからないが、
見る者を圧倒する力が漲っているような空気を、聿庵の書から強く感じた。

頼聿庵は、本来は頼山陽の長男なのだが、彼が誕生する直前に、
山陽が脱藩騒動を起こして幽閉の身となり、妻・淳子と離縁したため、
聿庵は、淳の実家で生まれるとすぐに頼家に引き取られ、
山陽の両親(聿庵の祖父母)である頼春水・静子の子として育てられた。
頼静子の日記を見ると、聿庵は十分な教育を受けて順調に成長したことが伺えるが、
やはりその複雑な生い立ちは、彼の心に重い陰を落としていたことも感じられる。
静子の日記には、成人後の聿庵の度を超した深酒への心配や、
彼と妻の「お国」との不仲の様子などが、折に触れて綴られているのだ。

若い頃の聿庵は、そのときどきの、気持ちの高揚や不条理への憤りを、
ひとり、書と向き合うことで昇華させようとしたのだろうか。
そして晩年になるほど伸びやかに自由になって行く書体を見ていると、
聿庵の、良い意味での諦念と解放が表現されているようにも思われた。
芸術の大きな高みに立ちつつも、一面では偏狭で気難しそうな聿庵の人物像を、
書を見ながら、私はひととき、いろいろと勝手に想像させて貰った。

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朝は、いつもの漢詩の会に出かけた。
8月はこのあとお盆が入るので、会も月末までお休みだ。
今年度前半は李白と杜甫をやって来て、きょう最後に先生が、
「敗戦でそれまでのすべてがすっかり違ってしまったと思ったとき、
私を励ましてくれたのが、『春望』だったもんです」
と、ふと仰った。

詩聖・杜甫といえども、自分の五言律詩が、遙か後の20世紀になってから、
日本の陸軍幼年学校出身の少年に力を与えることになろうとは、
夢にも想像したことなどなかっただろう。
そして21世紀の今、高齢になった、そのかつての少年に指導されて、
私のような一般人のオバさんがまた、杜甫の世界に思いを馳せている、
などということがあろうとは。
こういう作品が時代を超えて伝えられてきたなんて、全く偉大なことだ。
文字の文化に感謝しなくては。

そして今年度後半からは、もうひとり、日本人の心に大きな影響を与えた詩人として、
白楽天の作品をいくつか取り上げようと思う、とも先生は仰っていた。
秋から、また楽しみだ。

**************

会のあと、八丁堀で昼食のパンを買い、炎天下を歩いて一旦帰って、
午後からは今度は、近所の音楽大学の大学院修了演奏会を聴きに行った。
大学院の修了演奏会ともなれば、既に立派なリサイタル形式で、
演奏技術だけでなく、自分の持ち時間を演奏会としてどう構成し、
聴衆にどこまで聴かせることができるかをも、問われる内容だった。
きょうは友人知人絡みもあって、打楽器専攻の方の演奏を聴かせて貰ったのだが、
多彩な選曲のうえ、一曲ごとのムードの切り替えも見事で、聴き応えがあった。

私はパーカッションなど全く知識が無く、自分で演奏できるものも無いが、
マリンバはピアノとよく似た面があるのだなと聴きながら思った。
叩いた瞬間が最大音で、あとは減衰に向かうという特性も似ているし、
旋律線の際立たせ方、内声の彩りなどの、音の組み立てへの感覚も、
マリンバにはピアノに通じるものがあり、聴いていて面白かった。

……暑い中、午前も午後も出歩いたら、夕方には疲れが出て眠くなった(殴)。

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午前中から舅姑の墓参りに行き、舅宅の様子を見に行き、
市街地まで戻ってきたら、思ったより時間が早かったので、
前々から考えていた頼山陽史跡資料館に行ってみることにした
(写真は、頼山陽21歳時の脱藩事件のあと、
およそ3年間幽閉されていた、自宅「離れ」の復元。
資料館の前庭にあり、現在では史跡として「頼山陽居室」と呼ばれている)。

今回のテーマは「頼山陽の書」で、山陽自筆の書簡や、
旅先での揮毫(きごう)の際に仕上げた書など、
年代順に多くの手紙や原稿、作品が解説つきで展示されていた。
私は書を見て何か言えるような素養は全くないのだが、
全体の印象からすると、若いときより中年以降の山陽の書のほうが、
緩急のバランスが見事で、生き生きした感じがすると思った。

最近は、私なりに本も読み知っている逸話が増えたので、
出ている解説を読めば、その前後の出来事に関して思い出せることもあり、
山陽が実際に生きて、こうした執筆の生活を送っていたのだということが
いっそう強く実感を持って理解できる気がした。

また、頼山陽の弟子で女流詩人だった江馬細香の漢詩もあったが、
読んでみたら、それは以前、漢詩の会で習ったことのあるものだった。
漢詩の先生は、そのとき江馬細香について説明して下さった筈なのだが、
当時の私はまだ頼山陽をよく知らなくて、
詩の断片は記憶に残っても、彼女の名までは覚えていられなかったようだ。
女性である細香の、山陽への視線には、弟子という以上の独特の愛情があり、
今になって読むと、漢詩の情感もまた改めて味わえ、とても良かった。
随分前から、実は私は頼山陽の周辺に人にも出会っていたのだな、
ときょうは感慨深く思った。

それにしても、平日の昼だからか、こじんまりした史跡だからか、
きょうは私のほかにもうひとり男性が見に来ていただけで、
帰るときになっても、それ以上誰も来なかった。
来月には母の梅颸(「ばいし」。「し」は<風思>)に関する展示があり、
見たいと思っているのだが、これから足繁く通うようになったら、
事務局の方々に顔を覚えられそうな感じだった(笑)。

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