終戦後3年・・海から豚がやってきたのである。
1948年ハワイを出発した豚が、9月27日、うるま市勝連のホワイトビーチに到着する。戦争で14万頭いた豚はおよそ3千頭に減ったという。食料が不足し、食を支える豚も激減した。
そんな状況で立ち上がったのはハワイのウチナンチュ2世達だった。「ハワイ連合沖縄救済会」は寄付を募り(寄付はウチナンチュだけでなく、日本人・アメリカ人・中国人など様々なひとからだったようだ)550頭で繁殖させれば4年後に200万頭に達すると、一等室に豚を乗せ、船底から餌を運び、死なせず必死の船旅だったらしい・・・豚が育てば、餌を作り、フンが肥料になる・・畑の再生にもつながったのだ。
天晴だなぁ・・・!!
ゆかりの、うるま市市民芸術劇場(ここに来るのはレンタカーしかないかもしれない・・俺は途中までハンタ道を歩いたので、料金は4000円ほどで済んだ・・つまりは那覇からタクシーなら万を超えるな・・)の庭に、鎮座している。目のかわゆい、戦後沖縄の食を救った豚さんたちである。
豚は全島の市町村に配られ、3年後には10万頭になったという。
あのハンタ道の山の中。クロアゲハのような蝶が乱舞。同じ黒ながら、模様が微妙に違う。館林で見かけるクロアゲハよりもちと小ぶり。はて?何という名前だ?と、写真。
沖縄で唯一紅葉する「ナンキンハゼ」!と、写真を撮っていたら、反対側の木になにやら、気配を感じた。(実際は風もなく、その物体はじっとしているのだが)、確かに気配を感じたのだ。
見たこともない、巨大なコウモリ!わしゃ、たじろいだ。はて、島は新しい景色を与えてくれるものだ。それにしても「あなたは誰?」
方東街道は、バス停の近くに琉球大学がある。まず大学なら、バスが近くのゆいレールの駅「てだこ浦西」に行くのもあるだろう、そうするとバスで戻るより30分は短縮できる。
そして、良さげな博物館も見てみたい・・と、ハンタ道の帰りは、タクシーで「海からやってきた豚」を見学し、そのまま琉球大学までお願いしたのだった。
博物館はほとんど窓のない(空調管理でだな)、威厳のある建物だった。入館はご自由にであった。「風樹館」という名だ。
大学も、今は(コロナの時は違ったろうな)出入りは自由だ。食堂も自由。
疑問氷解!オリイオオコウモリってんだな!絶滅危惧種らしいぜ!ご丁寧に剝製は、触ってみて!だと。それはそれは、柔らかい毛がびっしりで、確かに哺乳類を感じた。
蝶々も氷解!オスやメス毛で紋様が違うらしいぜ!
沖縄で産出の岩石・・・すべて持って帰りたかった!!
第一回入学式は、ボンベで出来た鐘を鳴らして、戦後の最高学府の授業は始まった。1950年5月22日のことだ。これからの沖縄を担う人材が、今も学んでいるだろう・・「学ぶとは希望を胸に刻むこと」だ青年たちよ!無念のうちに亡くなった「若き知性たち」を思いながら、俺はそんなことを思っていた・・・
1時半・・・・学食でカレーを食った。
3日目のメイン企画。ゆいレールで古島の駅に行き、少し歩いて、この交差点にやって来た。
通称「パイプライン通り」・・・!現在の県道251号線・・古島の環状2号線交差点から、宜野湾の伊佐、県道81号の交差点までである。総延長7500mを途中まで歩くのだ。
元は占領下、米軍の油送管が敷設されていたわけさ~~県民の強い要望で1985年に返還され、パイプラインも撤去され、現在は西の大動脈58号線に平行に南北を繋ぐこの道路は、沢山の市民によって使われているのであった。
あんた?こんなところどうして歩くの?であろう・・・
そう・・ここは、戦前「沖縄軽便鉄道・嘉手納線」が走っていたのだ。少し、軽便鉄道を調べ始めた所だし、パイプライン通りそのものも、歩いて感じたかったのさ。やはり、軍事施設だったから、まっすぐで、広い通りだと・・実感できたよ。
安謝川にかかる「宇久増橋」は、軽便の車輪のデザインだぜ。
暫く進むと・・・歩道なんぞ、何するものぞ!おばぁの八百屋はドンと店を開いている。
しかし、普通の蜜柑なのに、袋は県産パパイヤの袋だ。
このテーゲーさこそ、沖縄だったりするのだ。アハハ!
これを写したかった。工事で発掘された軽便の枕木。今はレプリカだろうが、軽便が走っていた印のオブジェが鎮座していたのであった。
パイプライン通りは、そのまま那覇市内に向かうと、県立博物館に行きつく。写真に収めたいものがあって、立ち寄る。
収めたいものは、常設展示だが、特別展も面白そうだったので、特別料金を払って入館。
明は倭寇に悩まされ、自国の船の貿易を規制する。その時琉球は属国として明から、船までもらって、貿易の権利を得るのであった。
明は、貿易をこうして、属国にやらせ、利を得ていたのだ。その琉球は様々な危険を覚悟しながら、三角貿易で美味しい思いも沢山して、経済が回っていたのだ。
海の邦・・海洋国家の面目躍如だね。
ヤコウ貝は1つのシンボル。琉球商人たちは、ヤコウガイを磨いて、螺鈿にする方法を明に学び、貿易産品にしていったのだ。
この貝が欲しくて本土日本の商人たちは、琉球と貿易をする。正倉院御物にも、琉球産ヤコウガイ(夜光貝)だ。
それまで縄文のような暮らしだった琉球は突然12世紀に入って、城(グスク)を構えた按司という支配者が群雄割拠する時代になる。
この大きな引き金は、鉄・鉄器なのだが・・・話が長くなるので(すでに十分長いがぁ・・・)割愛。
この錨のの大きさで、貿易船の大きさもわかる気がした。
さて、写したかったもの。琉球の人々への「皇民化」の道具である。子供たちは、ウチナグチ(琉球方言)を学校で使うと、この札を首から下げられた。
文献では写真を見たが、大きさがね・・現物を見るとすごい。厚さは2センチほど・・大きさはA4に近い。
さぞ重かったであろうな。
しかし長い・・・ここまで読んだ方の忍耐をわしゃ褒めたい。あんたはエライ!