館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2024・おばぁスナック組の沖縄・夜の沖縄。

2024-07-11 04:05:17 | 旅は続く
これにて、前回島旅の記録は終了。7・8月は暑くて・・9月は台風シーズン・・・
さて、次回はひとり旅になりそう・・・おぼろげに、行程は定まる・・・俺の頭の中は、すでに沖縄?







初日夜は、店を変えようかと思ったが、休みだった。結局名護だとここ「金太郎」だ。
お通しのとうがんが美味かったな。





島だこ、秀逸なり。チーズカツは及第点。





もつ炒めは、奇をてらわずのお姿ながら、モツそのものが美味しかった。セイゴウちゃんは、モツは苦手。
ミッキーはなんでもござれ!まさに「鉄の胃袋」「割り勘負けしない男」のあだ名がついた。
金太郎しゅうまいは、それなり・・・・





トウフチャンプルーは期待しなかったが、旨かったなぁ・・・・ゴーヤチャンプルが食いたかった。
季節なのに、行った店のどこにもメニューが無かった。
エビノサクサク揚げは、秀逸だった。
こうして、初日の夜は暮れて行ったのだが、3人組はこれで終わるはずは無かった・・・・

行くなら場末にしろと言っておいたのに、俺の忠告も聞かず、繁華街のスナックに行ったもんだから、少しお高い名護の夜になったらしい・・・



2日目の夜の伊江島は、すっかり俺が気に入っている「よしの屋」。
料理は美味いし・量も多く、そして安い。



やつらはまずはビールで乾杯なのだが、まだ俺の泡盛が来ていないので、テーブルの観葉植物で乾杯!



来たねぇ・・・・今帰仁の「美しき古里」で乾杯だ!





揚げ豆腐(島は厚揚げでなく、頼むと豆腐から揚げるので、あーちこーこで旨いったらない。
イカ焼きも秀逸。





何故かピザ!
そして、刺身の盛り合わせが美味い。これで、1500円だぜ!





豚さんの炒め物。セイゴウちゃんとミネさんは、肉男なのだ。かならず肉!
イカゲソ揚げは、幸せな味だ。美味い!
こうしてボトルを飲み干し・・・伊江島の夜は、僕は終わったのだが・・・3人、またまたスナックへ・・・
内地からの移住者の若いママの店だったようだが・・・まぁ、島ではぼられることはないさ・・・





3日目の夜は、タンパラヤ。せいぼーに挨拶しなければいけないのだ。





昼間っから呑みっぱなしで、おなかもあまり空いていない。せいぼーは察知したか、お通しは2人前でいいよな・・などと配慮のお言葉。
実際そうだった。



ミネさんへたり気味・・・とりあえず乾杯!



塩やきそばを注文したが、セイボーは大盛にしてくれた。これを4人でつまんで、最後の夜は暮れて行った・・はずだった・・・いや?予定調和か?



結局、3人は、民謡酒場「むんじゅるー」に向かっていったのだった。



民謡酒場から、こんな写真が送られてきた・・・・
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2024・おばぁスナック組の沖縄・朝飯昼飯。

2024-07-10 04:03:53 | 旅は続く




保守的・・・・初日の羽田の朝飯。やっぱり美味い。いよいよ与太記事突入!



機内はビールが必須。





2日目、朝のホテルの無料朝飯バイキング。1枚目は俺、2枚目はセイゴウちゃん!クブイリチー(昆布の煮付け)が薄味で、素材のうまみで美味しかった。



3日目伊江島は、素泊まり・・・あてにしていたマルイストアは日曜日で休み。ファミマのこんな朝飯。



4日目のホテルのバイキング。不発・・・・あまり美味しくないんだよな・・・米が。





初日の昼飯。高速バスの発車までの時間に那覇空港のロビーで食べる。弁当やとか食堂もあるが、朝羽田で買っておいた「ヨシカミのカツサンド」だ。
高速バスは途中伊芸SAで休憩するので、そこの美味しいアメリカンドッグは必須・・実に美味しいのだ。必ず食べる。







2日目昼飯。伊江島「すずらん食堂」。ミッキーの焼きそばと俺の「ハンバーグ定食」美味しかった。
ミッキーはあちこちで焼きそばだった。やきそば男と認識。沖縄の焼きそばは沖縄そばの麺を使うのだが、まじ美味しいよ。



伊江島の午後・・・部屋呑み。1時間ほど反省会の後、皆昼寝した。





3日目の昼飯は「せんべろ」・・最近の物価高でついに沖縄の文化「せんべろ」は「1200べろ」になっていた。
千円でべろべろ・・・このまま行ったら、2千ベロかも?





せんべろでメニューを見たら、こののんべいの4人ならボトルキープのほうが安いと分かった。
各々食いたいつまみが続く。





この青菜の胡麻和えは必ず頼む。







4日目は、ウナギが食いたいの声に、那覇では有名な「彦」という店をチョイス。
皆、ウナギ付きの「彦定食」だったが、俺はさっぱりと「天ざる蕎麦」だった。
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2024慰霊の日の沖縄・・・おばぁスナック拾遺物語。

2024-07-03 04:10:46 | 旅は続く




6月23日・軍のトップたちが腹を切って(切る前に、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべしなどと、のたまい、多くの犠牲者を出すんだから、どうしょもない輩なのだが・・)日本軍の組織的戦闘が終わった日だ。
慰霊の祈りが、島中を包む。
僕らも式典の黙とうの時間に、黙とうした。



23日の新聞、そして翌日の新聞と、平和祈念式典の記事が新聞の紙面を埋めているが、自衛隊の配備への危惧が、同じような量で占められている。
自衛隊の施設では、牛島の軍服が展示されていて、抗議を受けたり、あらんことか「大東亜戦争」と表現され、抗議であやっまたりと、ひどい話(ほとんど本土の新聞では報道されないだろう)が紙面にある。

沖縄でもさらに貧しい、八重山の島々は、お金で自衛隊を受け入れる。原発も、基地も、片方の天秤には札束が乗っている。悲しい、かなしい現実だ。



これは、マニアックな、俺だけのメモとして・・・戦前黒麹が東京大学で発見されたのは1998年6月22日。



沖縄の伝統的な行事の1つに「旗頭(はたがしら)」がある。まあ、神輿を担ぎ練り歩く祭りのような物と考えよう。旗頭で使われる「幟(のぼり)」は、竿の長さは21尺(約6.3m)が基準とされていて、先端に付けられる「とぅーるー(灯籠)」、その周囲を囲う「ごう」と呼ばれる輪、旗ととぅーるーを区切るように「さんまー」が付けられ、この「とぅーるー」の部分まで含めると、実に24尺(7.3m)だ。

大人の旗頭もあれば、子供の旗頭もある。毎朝、徘徊する緑が丘公園では、大人たちの指導で、子供たちに「のぼり」の扱いを教えていた。竿に古タイヤで、重さは多聞実際ののぼりを模した竿か?腹帯で重さを支え、操るのは、俺のようなじいさんには無理だな。



花の季節到来の島。アリアケカズラがひと際美しい。



ユウナ(オオハマボウ)が、あちらこちらに咲いていた、1日限りの花だ。笠木さんの沖縄の花だ。





綺麗で鮮やかだったなぁ・・・オオバナサルスベリ。



蕾がみえるかな?さて、なんでしょう?



こちらは、その花と、熟し始めた蕾。ドラゴンフルーツとは、サボテンの実なのだ。サボテン科ヒモサボテン属のサンカクサボテン等の果実。



ホウオウボクのオレンジが咲き始めていた。



本土で飲んでもさほど美味しくないオリオンビールだが、何故か沖縄の気候で飲むと美味しい。
羽田のセブンで必ず「品川巻」を買う。沖縄のセブンでは売ってない。ビールに合うのだ。



今回の島ネコ。脱力系。



今回のシーサー。日本で一番大きな、焼き物(やちむん)で出来たシーサー。モデルは、大きな3人。



お疲れさまでした・・・・・!

ここまで、長い駄文を呼んだ皆さまも・・・お疲れ様でした。
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2024・おばぁスナック組の沖縄・その3「街中ぶらり」。

2024-07-02 04:25:08 | 旅は続く


名護の名木。「ひんぷんガジュマル」・・推定樹齢300年という国指定天然記念物のガジュマルの木。高さ19mの大木は、隣に立つ「三府龍脈碑(さんぷりゅうみゃくひ)」の形がヒンプン(屋敷の門と母屋の間に立てるついたて)に似ていることからそう呼ばれるようになる。覚えにくい碑については、説明が長くなるのではしょる。





徳田球一の生まれ故郷名護には、こんな碑も存在する。







那覇にある「てんぷら坂」。
1946年から51年の戦後カオスの沖縄。生きてゆけるだけの生活物資が配給されたわけでなく、人々は米軍キャンプからありとあらゆるものを盗み(盗品を戦果と称した)、砲弾・薬莢など拾い集め、それらが与那国を起点に台湾へ、台湾から沖縄に無いものが持ち込まれと・・・沖縄密貿易が盛んな時代があった。人々は「景気(ケーキ)時代と呼んだ。その戦果のモービルオイルで揚げたてんぷらがは食料不足の時代ごちそうだったという。今も、一軒だけ店がある。さすがにモービルオイルではない。







俺の憩いの場。彼らを連れてゆくのは初めて。露店のコーヒー屋「ひばり屋」。コーヒーにこだわるT県出身の佐知子さんのコーヒーは本当に美味しい。
真夏の島で、歩いた僕らは、アイスカフェオレが沁みた。





観たかった映画がかかっていた。観た!監督の挨拶付きだった。沖縄県に住む具志堅隆松さん(65)は自身を「ガマを掘る人」という意味で「ガマフヤー」と呼ぶ。30年以上にわたり遺骨収集ボランティアとして、家族の元へ返す取り組みを続けている。南部荒崎の遺骨がまだまだ混じる土を、辺野古の埋め立てに使うことに、強烈な抗議活動を続けている。そんな中身が、映画になっていた。組織を頼らず、彼が1人立ち向かう姿はに共感。



ずいぶんと、観光客が戻り、コロナで閉鎖されていた中国人目当てのドラッグストアも、また開いていたが、あのけん騒はなはだしい、中国人観光客はそれほどでもなく、日曜の歩行者天国は、歩きやすかった。



最終日は、奥様への買い物ツアー!



俺の御用達、乾物屋の「松本商店」。今回も鰹節・切り昆布・刻みキクラゲなど大量購入(10月いっぱいもたせなければならないのだ)。
初めて、泡盛の購入をしなかったな・・・



最終日、冷房の利いた楽園カフェで一息。

終日天気に恵まれ上等!

雨男ミネさんも、晴れ男ミッキーに勝てずだった。
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2024・おばぁスナック組の沖縄・その2「伊江島」。

2024-06-28 04:09:49 | 旅は続く






7時35分、職安前バス停で本部港目指し出発。9時のフェリーで伊江島を目指す。島の真ん中に「城山(ぐすくやま・あるいはタッチューと呼ばれる)」の伊江島とすぐわかるシンボルが近づいてくる・・・もう、ワクワクだ。





島上陸!1948年8月6日、伊江村の波止場で起こった米軍爆弾処理船LCT爆発事故。連絡船の入港と重なり船員や下船中の乗客、出迎えに来た村民を巻き込んだ102名の犠牲者を出す大惨事の慰霊碑が出迎える。



民宿を変えた。初「民宿かりゆし」・・・良い民宿であった。まずは荷物を預け、レンタカー屋さんに向かう。



ここからは、ツブクチョイスの見学が始まる。
アーニー・パイル・・・第二次世界大戦に従軍記者として同行し、1944年にピューリッツァー賞を受賞するなど、第二次世界大戦期のアメリカの従軍記者を代表する存在の1人となったが、翌年4月に従軍先の沖縄県伊江島にて戦死した。
このアーニー・パイルの功績を忍び、米軍は銀座と那覇に映画館を作る。那覇の「アーニーパイル国際劇場」これがあった通りが、国際通りと呼ばれるようになる。島には記念碑が建ち、米軍によって綺麗に整備されている。





有名なガジュマル。昨年の台風で2本とも倒れてしまった。それがどうなっているかは、今回の最大の関心事だった。
無残だった・・・村が何とか再生を試みているが、とっても悲しい姿だった・・・・



これが昨年、倒れる前のガジュマルだ。





伊江島の慰霊碑を訪ねる。伊江島の慰霊祭は「占領宣言」がなされた4月21日に行われている。兵士およそ2000人・住民1500人(実に住民の3分の1だ)が合祀されている。



島は晴れると化ける。海の青も空の青も、島でしか見られない青さだ。



村営金融機関だった「公益質屋」おびただしい砲弾の跡が、語るものは多い。解体せず残す思いがすごいのだ。







島のシンボル、城山には初めての方には必ず登ってもらう。急峻な階段の連続で、やっと登った頂上からの360度の眺めは見事としか言い表せない。
島中の畑・・耕作放棄地など無縁な、沖縄で特別に肥沃だった島がよくわかる。実は、この日は俺は登っていない。もう何度も登っているので、いいかな?って感じ。写真は、峯さん。



登山の後には、かき氷のご褒美が待っている。







阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんと「伊江島土地闘争」・伊江島住民は占領後すぐ慶良間諸島に強制移住させられる。2年後に返されたときには実に島の67%(現在も32%は占領されている)が米軍基地になっていた。ここから「伊江島土地闘争」が始まり、窮状を琉球民政府に訴える那覇への行進が始まる。着の身着のまま、カンパを助けに行われた請願は、「乞食の行進」と呼ばれたが、やがてこの行進が全土の闘争の起爆剤となり、沖縄の土地闘争が始まるのだった。
写真の、見事な、非暴力の「陳情規定」を読んで欲しい。





次に村民およそ150人が集団自決したガマを訪ねた。





こんこんと真水が沸く海岸・離島は「水」の確保が大きな課題だ。本部から海の中を通る送水管が出来るまでの、島の貴重な水源地は、また絶景でもあった。





そう・・・竹やりで突っ込むようなゲリラ戦を、わずかな軍隊は夜な夜な仕掛けたらしい・・・戦の愚かさの象徴のような碑だ。



土地を奪ばわれた中心地「真謝地区」に保存された団結道場。ここに人々が集まり、協議し、米軍に理性で立ち向かった場所だ。



伊江島補助滑走路。今も米軍の施政下にあるが、通行は黙認・周辺の畑も黙認耕作地となっている。

軍隊は人を殺し、文化を奪う。

伊江島は補助飛行場を受け入れることで国から莫大な交付金や助成金を引き出してきた。基地反対運動は影を潜め、「アメとムチが人の声をも奪って」今に至る。
「国がぶら下げるアメを、次は拒めるか?」・・・・・戦争体験者はもうすぐ人口の1割を切ると言う。語り部が居なくなって、戦争の物として残る「戦跡・資料」が大事になって行くと言う声もある。現地に立つと、その重要性が僕はわかる気がしている。現場主義!
お金でふさがれた「声」・・・・さて、どうする?







最後にやってきたのはこちら。海からは入り口が見えず、多くの住民の命を救った。
風光明媚にして、ガマからのハートの光が素敵なのだ。

県議選は惨敗に終わった。沖縄の選挙は、寄せては返す波のように、いつも右へ左へ揺れる。このまま自民公明が続くことは無い(と、僕の沖縄20年は教える)。
寄せては返すのだ。




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