館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

あかんべ山報告集・ロストなど。

2011-04-19 06:10:00 | あかんべ山ログ
昨日日記

1・大企業の生産は、始まったが、およそ半分ほどの稼動で、今後を色々考えて1日が終わった。

2・今、新緑が綺麗で、なんだかいいのだ。

3・冬越しの「春菊」が「花が咲く前に食べて~~」と、言っていたので、肉を奮発し、すき焼きにした。ワインも買ったよん!

4・ロストは新曲を一挙に3曲練習し始めたのだが、そのアレンジなど考えながら、ワインを飲んだ。



で、最後の「あかんべ山」記事のアップだ。

PS・恵みの雨が降っている。畑がおおよろこび!



ドキュメントあかんべ山。

いよいよ原稿も集まって、さいごのあかんべ山の「報告集」を発行した。

これにて、終了だ。本当の終了だ。

皆、力の入った感想文や記録であった。

とある4月の土曜日・・・印刷と、折る作業が行われた。

1時から実に5時まで作業はかかった。120ページを越えるページ数は過去最高の枚数であった(実際、かなりの枚数と終盤判明し、記録の部分で来年向けで必要だった部分は、来年が無いので相当削ったのだった)。



ももの木保育園に印刷機を借り、ゆりやようこも動員しての作業であった。

写真・印刷物を折る、ゆり・ようこ・アバウト。

原稿は、笠木さん・増田さん・佐藤さんも寄せてくれた。




保育園の午後3時過ぎには、土曜保育のきゃわゆいのが、お昼ねから起きて、おやつであった・・・なんだか、なつかしい風景だ。




わりわりにも、おやつの、おすそ分けがあった。




さて、翌々日の月曜・・・折られた印刷物は、ページごとに組まれ、大きなホチキスを打ち、木工用ボンドを背に塗り、表紙を張る作業が延々と繰り広げられた。

これらは、乾いた後、ビッグバンTによって、公民館の裁断機を借りて、綺麗に裁断されて、翌月曜に配布となり、終了するのだった・・・まあ、1日では発行まで至らないのさ。





完成品!





ちょっとロストも記す。

あかんべ山以降、長い長いお休み(各自充電期間)であった。

いよいよ、4月2日に2011年度の最初の集まりを持ったのだった。

いつもなら、何となく、ダラダラと始まるのだが、今回は「コンサート」の企画から始まり、もう、真剣勝負だ。

テーマのあるコンサートなので、新曲が突然3曲。

さて、さて、間に合うか?

俺も、こうして目の前ににんじんがぶら下がると、ギターなど毎日触り始めるのであった。

さて、しっかり音楽だ!
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あかんべ山余話・・これからが問われている。

2011-02-16 06:51:46 | あかんべ山ログ



まったく知らされていなかった。実行委員は実質7人・・女房も知らなかったと言うから、たぶん5人ほどで図ったのだろう。

やられたと思ったのだったが、うれしかった。

30年で、1度も本番を外さなかったのは僕と、音響の関口氏。
ロストのユッコは、病気だったか・・1度出なかった。
関口氏はロストのメンバーであった。脱退を聞いたことは無いので、本当は今でもロストなのだが、2足のわらじは履かない意思がある。
ずっとその音響を守り続けてくれた。館林でコンサートと言えば、一緒にこなしてくれる。よしだよしこさんのコンサートも、太鼓叩きのコンサートも、皆彼にお世話になっている。よしだよしこさんは、そのナチュラルな音作りが好きで、いつも気持ちがいいと話す。

その3人に・・・・感謝したいと、メンバーが大きなペンダントを作って、本番、ステージ上、沢山のお客さんの前で、表彰式であった・・・。

メンバーに抱きしめられるすごさ!分かるかい?





沢山の花も、手渡された。

ずっと支援してくれた、喫茶店のマスターが楽屋まで持ってきてくれたのには驚き、まだ、本番前なので、不覚にはならなかったが、「ちゃんとステージを務めねば・・と、ピンと背筋が伸びた。

そして、ロスト本番が終わって・・袖に向かおうと・・・

もう10年以上も前に、「もう歌えない」と、ロストを去ったSベーベーが、花束を抱え、僕をめがけて進んでくるではないか!!

こちらは、不覚にも、不覚であった・・・・

やめるもののせなかをなんどもみおくってきた。

やめる意思・続く意思・その固い固い意思を溶かして、交わらせる力が、音楽、音楽という文化には有ったのか!うれしかった。

武力に武力で臨んで、平和が訪れた事実が、今の時代・・僕らの生きた時代に有ったか?
差別や、貧困や、弾圧に、非暴力と文化で対峙することを学ぶべきだ。
あのマーティン・ルーサー・キングが黒人差別に、非暴力と音楽と言う文化で対峙し、やがて黒人の大統領を用意する土台を作ったようにね。




これも、参った!参りました!

大人がやっと抱えられそうな大きさの板に、「あかんべ」と丁寧に掘られた、木製のプレート。
大方片付いた会場で、大きなイーゼルに載せられ、会場に残り、最後のコンサートの最後のバラシを黙々と行なうすべての人を見つめるように、南の端にあった。
どうしたの?誰が?と問うと・・・PAの田島君が、記念にと、僕らに贈ろうとしたものらしい・・・
裏方!その裏方たる、土台を支える「プロの仕事」の心意気を見た。

20回を過ぎて、さらに大きくなったあかんべ山は、彼の仕事無しには、正直続かなかったかもしれない・・・

音のクリエーターでもあった彼は、つつましく、決して表に出ることを望まなかったが、このプレートも、彼らしく、そっと僕らに手渡された。

その場で、皆が名を刻み・思いのたけを綴った。
まだまだ、刻むべき人がいて、これから数ヶ月・・持ちまわって、刻んでもらおうと思っている。

あらためて、彼には、感謝したい!

その関口氏とのコラボで生み出された音に、どんなにか、僕らは助けられ、酔いしれただろうか。
僕らロストは、他のコンサートで歌わせてもらうことが時々ある。今だ、あかんべ山の音響を越える、オペレートに出合ってはいない・・・・




あかんべ山の焼印

磨いて、あかんべ山の資料と共に、物置整理し、仕舞った。

沢山の友人に・隣人に、僕らあかんべ山の出演者、スタッフは褒められ、賞賛され、惜しまれたに違いない。

恩返しは、僕らが、この地で、音楽を続けることだと思うのだ。
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それぞれのあかんべ山2011。

2011-02-13 06:52:00 | あかんべ山ログ
しばらく、このページは表紙になります。日々の更新は、次のページからです。





写真・前日にピカピカに磨いて、弦を張り代えて出番を待つ俺のギター・・・・

いつもは3時間・・・今回は特別なコンサートだったので、予定3時間30分のコンサート。

どのグループも名残が惜しく・終わりたくない想いが押し寄せる。語りつくせないものを語ろうと、歌も曲数など欲張って時間が伸びる伸びる!そのことを、誰も止められなかったし、それで良いと思った。

会場は大きなストーブが2台も壊れ、寒い。ロストはトリだった・・・もはや4時間の果てのステージに立った。
帰らない満席の人々。その目が「最後まで見届けるから・・」と迫ってきた。油断すると「不覚にも溢れそうだな」と、高ぶった。


ネットをうろつくと、お客様・出演者と、文を編み、載せていた。

感動は胸に刻み、自分達の足跡は、しっかりと「文字言語」で残そう!
それが、あかんべ山のスタイルだったし、そうした仕業がこのあかんべ山の人間関係を深め30年という歳月に僕らをいざなったのだからさ。

みなさん!もう・・・書き始めましたか?

このページはしばらく、そんなネット上のあかんべ山を紹介します。

たかこ日記その1
まりん日記1
ユキとチエ日記
こーたろーさんと言う方のブログです。
initial.kさんのブログです。
寺猫さんという方のブログです。
ホタルさんと言う方のブログです。
まりん日記その2
ぐんじさんのブログ
min*783*さんのブログその1
たかこ日記その2
taishihoさんのブログ。
新聞の記事です。僕が委員長だったり事実誤認などありますが、まあ愛嬌。

2月5日追加

まりん日記その3
min*783*さんのブログその2

2月6日追加

min*783*さんのブログその3
たかこ日記その3

2月7日追加

たかこ日記その4

画像発見!!!

宅急便・ユキとチエ
Ru shining Biue・ユキとチエ
太陽サン・ユキとチエ




順次、発見し次第アップします。こんなのがあったよ~と、気が付いた方がおりましたら、お知らせください。まし。

なお、このページはしばらくここに居座ります。新しい記事はこの下からです。
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あかんべ山2011・そして笠木透。

2011-02-09 06:23:31 | あかんべ山ログ


笠木さんの出演が決まって「こりゃ~お客さんへのすごいお礼が出来るな」と思った。

ウィキの中の笠木氏

このコンサートの中心人物。

出演を知らせたら、人の波がもっと押し寄せ、コンサートは収拾がつかなかったとおもう。
最後なの?と、今まであまり来なかった人まで、コンサートに関心を寄せ、チケットの問い合わせがすでに配券して程なくの12月には舞い込んできた。

すぐ、あちこちに電話して、販売の感触や状況を聞いた・・

お客さんを立ち見で聞かせることは、避けたかった。長いコンサートになるのだ。

客席を通路など狭め広げて30か・・・
まあ、最悪は、出演者は出番が終わって聴く場合、立ち見・・と告げれば合計60は増えてもOKだが・・・・

そんな状況で、笠木さんの出演はくれぐれもオフレコ!と伝達した(まあ、関係者には知られるだろう・・とは思ったが)。

12月の末には「無理してチケットを売らないように」各グループや配券先にお願いする。
僕のブログでは、新年早々「前売り完売」と表紙に載せた。

その後も、問い合わせは続いたが、何とか少しの立ち見だけで済んだ。



僕が笠木さんに初めて会う下りは、笑えるのだ。もう、20年以上も前の話だ。

その昔、ある学童保育所が設立の10周年記念に、そのレセプションに「笠木さんに来て歌って欲しい」と頼んだ。
どうも、笠木さん(彼は、岐阜県中津川市に住んでいる)を呼ぶお金はあったが、バックのミュージシャンを付けるお金は無かったようなのだ。そりゃ、ん十万だもなぁ・・

で、(多分笠木さんの提案と僕は今もってにらんでいるのだが・・)楽器弾きは現地のアマチュアを調達で良いとなったようである。

で、主催者から、その友人へ、はたまた、僕の知り合いへ・・と「素人楽器弾き」探しが回り・・「ロスト」にお願いはやってきたのだった・・・
若いというのは、向こう見ずでもあった。そして「ロスト」は笠木さんの歌は大好きで、コンサートなどでも歌っていたのだった・・・

弾くことになった・・・・で、1ヶ月前に「やる曲・楽譜(読めないのでお守り)・キー」があれば、頑張れると伝え、それらが届いた・・・。

必死に一ヶ月練習しただよ。

で、当日。

笠木さんは1時間ほど前に到着。早速楽屋で打ち合わせが行なわれた・・・

まずは、自己紹介・・「館林ロストの**ですぅ~~」。

「何?ロスト!ロストシティーランブラーズか!(この場合僕らが、名前をパクッた、本家ニューロストシティーランブラーズを指す・・・彼は、本家ロストやその周辺のアメリカの古い民謡などのメロに載せ、彼のペンなる詞をかなりレパートリーにしているのだった・・・)」
「ロストじゃ、この曲も出来るだろう!」「あの曲も出来るな!」

と、まあ、一ヶ月は吹き飛んで、およそ70%の曲はその場で変更になってしまったのだった・・・・

その、僕らの演奏・・・・どんなにひどく、どんなに恐ろしい状況だったかは、皆さんも想像がつくであろう・・・穴があったら入りたかったが、大きな穴が僕らには必要であった・・・

やがて、僕らの仲間が、彼のコンサートを主催し、手伝ったり、前座を務めたりした。ここ数年は、お呼ばれのコンサートで同じステージに立ったり、関係は深まって行っていたのだった・・・。

その彼が、「ギャラはいらんから、俺をあかんべ山に呼べ」と言う。
すごい!俺は冷静だったが(と、書いておく)皆は、舞い上がった。

条件がついた・・・「ゆっくりツブク君と話す時間・・」だった。

酒はドクターストップの体の笠木さんだったが、飲んだ。今の笠木さんには無くてはならない楽器弾き(多分・色んな交渉ごと・・マネージャーの様な仕事も彼が面倒を見ていると拝察している)の増田さん、そして運転手フラット・のんべいアバウトと、僕の5人で、個室の飲み会が前日始まったのだった。

話し上手・聞き上手の笠木さんと増田さんに乗せられ、沢山話をした。
「俺の質問に答えて欲しい」・・・と、沢山のインタビュー(尋問)も受けた。

やがて、興ものり、話は佳境に・・・・

「あかんべ山にお願いが3つある」と言う。

1つは

*あかんべ山は全国的にも大事なコンサートだ。ぜひその1回1回を、もう1度皆で思い出し。話し合って、「あかんべ山の30年」を一冊の本にして欲しい。(僕は沢山本など出してきたので、安く出来る術は知っている。必要ならすべて教える)

2つは

*皆、自分達で歌を作ってきたのだろう。そのオリジナル、それを楽譜にし、一冊の楽譜集を作って欲しい。

3つは

*その音源も残っているだろう。是非それをCDにして欲しい。

であった。

これは、そのまま、関係した皆さんに、ここで伝えておきます。



写真・うれしい事に、何故かツーショット・・・・・♪

前日余話を2つ。

リハーサルにやって来た笠木さんと、増田さんは、ステージのロケーションを見るなり2つの注文をつけた。

1つは、ステージは舞台を背に客席と同じ高さの床にフラットに作られる。その背にする舞台下は、椅子の収納庫になっている。その扉、張られた板がはげ、穴まで空いていた。そこを何とか隠すべきだ!というのである。

そしてもう1つ。ステージの両袖はパーテーションで楽屋や袖への通路となり、裏側を見せないように仕切ってある。そのパーテーションの仕切りが足りない、あと2枚足せということだった。

仕上がっていると思っていたが、半分「しょうがね~なぁ・・」と、何とか繕ったのだった・・・

やってみると、不思議である。良い!

「お客さんを如何に、ステージ・演者に集中させるか。意識せず、自然と集中してもらうか・・だよ。」とおっしゃった。なるほどである。


フォークは時事を歌うのが好きである。

政治も、経済も、食いつく。

反戦も歌うが、反戦を実践するのは難しい。
反原発を歌うが、電気を消費し続ける暮らしを、少しでも少なくと、日々実践するのは難しい。

海や山の美しさ、自然の大切さを歌うが、生活の中で、それを大切にする生活をすることは難しい・・・。

笠木さんは、そんなことを、歌い、それを生活の中で実践しているように思う。

その笠木さん・・・最近は「歌った以上、そのように生きろ!」と、コンサートなどで叫んでる。

頭の痛い、テーマを突きつけるものだと、わりわりは思っている。

だが、言われてしまうと、僕らロストは、歌いながらも、その言葉が頭をよぎったりしてしまうのだった・・・・

すでに74歳であろうか。最近大病など患い、心配した。

まだまだ、全国のアマチュアを鼓舞し続けてほしい存在だ。

こんな出会いが出来て、僕らは幸せ者だった・・・・・・・・・・・・・。



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あかんべ山2011・忘れられない日になったな・・本番。

2011-02-05 07:34:52 | あかんべ山ログ
昨日に続いて、出演者・スタッフ・お客様に向けた記事が続く。ブログ仲間の皆さんには暫くご容赦。斜め読みを・・・・

昨日より、さらに、長いのだった・・・・




ピンと背筋が伸びる当日がやってきた。

大道具・小道具、設営された会場の最終の化粧、心を込めパンフが並び、半券代わりのペンダントが並べられる。
会場までの道路には「あかんべ山会場→」の看板が電柱に括り付けられ、「あかんべ山コンサート」「歌わずにいられない」の真っ赤な旗が風にはためいた。

調理室では女たちが、供すべき愛情を器に注ぎ、お客さんに振舞うジャガイモが湯気を上げている。

ステージではリハーサルが行なわれ、あかんべ山の音が調整されてゆく。

三々五々弁当を食べる姿が、当日を物語っていた。

準備はすべて整った。足りないのはお客さんだけだった・・・・
そのお客さん・・出足が早い。開場は12時。既にその10分前には、かなり長い列が出来ていた。



音響の関口氏は僕と共にこのコンサートを最初に作った1人だ。すでに30年・30回、その30回にすべて関わってきたのは2人だけとなっていた。
館林に「和太鼓」を持ち込み、グループを作り、今も活動を続けている。
その彼・・・裏方だが、今回はお客様に「芸」でお礼したいと「鬼剣舞」を舞った。
この嗜好は一部の人間にしか知らせては居なかった。
「悪魔を踏み鎮め、場の気を整える」その舞に込められた祈りの如く、会場は一瞬にしてステージに釘付けになった。たいしたもんである。



コンサートは1984年に石垣りんさんの「地方」という詩に出会う。
その詩・・・まるでコンサートの精神のようで、僕らはすっかり気に入って、パンフレットに掲げて、今も続く。10回のコンサートには、まるで夢のように、コンサートに石垣さんはやって来て詩を読んでくれた。その詩、29回出演のロストのユッコが清楚な朗読を行い、拍手が沸く。

そして、いよいよ音楽。

館林太鼓達和会が、見事な獅子舞や太鼓を聴かせ、1部が進んでいったのだった。
(僕はこの後、会の広報なので、2つの取材など受け、必ず1つの演目は聴いたが、写真など手が回らず、写せなかったグループなどあるのが、残念であった)



2番手は空とぶこんぺいとう。隣町のグループで、大学の歌声サークルの面持ちで、続いている。あかんべ山では、スタンダードなフォークを歌うので、お客さんも良く一緒に歌う。

そして、写真・さのっこ・・・・・・・・。

歌いたくてストリートに立ち、それも昨年300回を区切りに、歌の場を他に求めて活躍している。最若手の初々しさはそのままに、大人への変化もうれしい。
ちょっと不遜かもしれないが、あかんべ山で育った気がする。僕ら年寄りを拒絶せず、そこから学びたいと、あかんべ山を大事にしてくれた。


このあと、コンフントクラカケス!
南米のフォーク「フォルクローレ」で、完成度の高いパフォーマンスで魅了している。
自己主張が強いチームなのだが、その主張、耳を傾けるに価値有るもので、委員会も論議を交わす。それで、鍛えられてゆく。主張の引き時も心得、あかんべ山を守り続けた1つの力であった。
リーダーの半田君が、終わるあかんべ山の名残を惜しみつつ「親離れしろ!ってことですよね。その答えは僕ら自身がこれから出さなければなりません」と語って、ステージを終えた。
そうなのだ・・・皆、どのグループも、自分で歌う場を作り・お客さんを呼び寄せる力があるのだ。1つのコンサートは余韻の中にある。皆が、歌をやめなければ、また集う機会もあろう。「歌うことをやめるな!」「お前が歌わず、誰が歌う!」と僕は、今だから吼えたいと思っている。

半田君は、最後に今はグループを脱退している仲間を客席に見つけ、ステージに上がれと促す。30年の間には、止める者、加入する者と人の移動もある。リーダーとは、そんな人間関係を必死に支え続ける存在でもある。促され、ステージに上がり、一緒に歌った元メンバーも天晴れ!

1部最後は、ゴスペルの「ソウル・ジョイ」だ。昨日記事で、グループへの感想など書いたが、メンバーも少しずつ増え、勢いのあるグループである。きっと5年前は、軽い気持ちであかんべ山に立ったに違いない。それがまあ、しっかりあかんべ山を愛して、嬉しい限りである。


****************


休憩・お茶や蒸かしたジャガイモの、あかんべ山のシーンが休憩を豊かにして、第二部が始まった。

2部は「ユキとチエ」!
若いのである。僕の子供でも可笑しくない彼女達が、パフォーマンスで客を魅了するのだから、「何か持ってる」のである。






2部2番手。

あかんべ山にブルーグラスあり!しかも、極上のブルーグラスなのだ(上の写真のグループである)。
この筋では、ちった~有名な、アリソン・クラウスのナンバーも板について、快演。
こちらのリーダー若田部氏はマンドリンの名手。ミスした場面を僕は1度も見たことが無いが、今回は初めて、イントロのミスを聴いた。きっと、最後のあかんべ山の緊張なんだな・・と、僕は思った。



そしてウッドランド。彼らもまた、30年の集大成のように、過去の彼らの名曲から選りすぐりでステージを繰り広げた。選曲の妙に唸った。
「ありがとう!あかんべ山!」と長谷川氏の叫びに、客席は拍手で応える。




そして笠木透と雑花塾!
さすがだ。前日のインタビューのような、酒を酌み交わしながらの懇談で、あかんべ山について笠木さんの思うところのあかんべ山を掴み、お客さんに語りながら、あかんべ山に関わるすべての人に、メッセージを発信し、うなずかせる。
長い語りなのに、内容に圧倒され、長さを感じない。

その歌は、聴くものの体を、熱しながら突き抜ける。

幸徳秋水没後100年。このあかんべ山の地は、田中正造が戦った地である。
その田中正造が天皇に出した「直訴状」は幸徳秋水か書いたのだ。

彼の作った「新曲」はそれを扱った曲なのだが、ちゃんとあかんべ山とその地に合わせて選曲するあたり、まったく彼らしくてすごいや!と、思ったのだった。





そして、我が館林ロストシティーランブラーズ。

リハーサルでは、ボーカルは見事に破綻をきたしていた。その破綻を本番では何とかカバーし、まあ、今の実力なりであった・・・

お客さんにも、関わった皆さんにもお礼が出来て幸せだった。

このグループあっての、僕の音楽人生なのだ。ありがとう!ロストなのだ。



最後の曲を終え、未練をステージに残さないようきっぱり去ろうと思っていた。
どうだろう?全く知らされていなかった・・・・
メンバーから、贈り物をされるやら、ベーベーが花束など抱えて僕に向かってくるやら、まずい状態が起こっているではないか!涙腺は意志の力では操作できないのか?

この余談は、後日記す。20回辺りで、ロストを去った、Sベーベーからの花束、その感触は一生忘れられないだろう。



不覚のまま、袖に入る。アンコール(もらえるグループではないが、最後のコンサートなのであるかもしれないとは、覚悟していた)の手拍子が響く。

前日のリハで、笠木さんから、「最後のステージはどう描いている?」と質問があり「淡々と終わるつもり・・」と答えた。
すかさず「それはいかん!最後は出演者皆で、何か1曲やって盛り上がって終わるべきだ!」と・・・すこし悩んだが「それでは、私に人生と言える物があるならで終わります」となった・・・

当日、主だったグループや全体打ち合わせで、その旨伝え、現場施工のフィナーレだ。

前日のロストのリハが終わってすぐ、ユキちゃんがやってきて「歌をうたってる(僕が詞を書き、ディランのメロを拝借)、は、やらないのですか?やってほしい!」と言われた。

そんなこともあって、アンコールはまずロストで、「歌をうたってる」を歌う。
その後、例の曲を、「皆ステージへ!」と呼びかけ、フィナーレが始まった。

やられた!

まったく、やられたと、思った。

笠木氏がコールし、ステージで歌が始まる。楽器も、徐々に沢山加わって賑やかしくなる。この名曲を知る人は、驚くほど多い。あかんべ山の様なフォーク中心のコンサートなら、お客さんの多くは知っている。

いつしか、ステージ・客席と大合唱になってゆく。僕は、もう不覚になるまいと必死よ。

曲の間に、突然笠木氏が話し出す。

「このコンサートは終わってしまうんだが、誰も終わってしまうと思って居ない!」


「僕はね・・かなり前からツブク君と会っているんですよ。で、誰かに似ていると思っていたが思い出せない」
「そしてね、昨日思い出したんですよ。江戸時代に会ってる!」
「べろだしチョンマ!」
「べろだしチョンマはね~~・・・」と一くさり、説明をして・・・

「そうだ!皆で最後にあかんべ~をしよう!」
「今から、練習するよ!あっかんべ~~」(客席からは大きなあっかんべ~が響く)


「これでもう、集まるのは止めるのかい?(あっかんべ~)」
「もう皆で、歌うことを止めるのか?(あっかんべ~)」
「もう、人を信ずるのは止めるのか?(あっかんべ~)」

笠木氏がこうして、お客さんに語りかけながらも、ステージでは、「私に人生」の演奏が続いている。

とんでもない盛り上がりや、今までどこでも経験したことの無い一体感が、1つの小屋の中に充満し、はちきれそうだった。

やられた!と、すべての人に、頭を下げたい思いだった。

最後に司会の金子君が、お礼とあかんべ山の終りを告げる。
感極まり、涙が溢れ、言葉にならない。
客席から「がんばれ~」と盛んに声がかかる。

あらゆることが、「惜しまれて、そしてコンサートに終止符が打てる」そんな高みを作ってくれた。そう、思った。



会場を後にするお客さんに、出口で挨拶をして、自分の荷物をまとめる頃には、すっかり会場はバラシが終わって、残ったすべての関係者が、3本締めで終了。

会場を、ずっとコンサートを支援してくれた「茶房・万里」に移し、打ち上げが行なわれた。

皆、あかんべ山にお礼の様な感想を漏らしつつ、別れが少しつらい打ち上げだったか・・

「皆が、歌い続けていないと、また、集えない!」祈り・吼えた。




我が家に移って「打ち上げ2次会」が始まった。

大きな物を、あかんべ山から貰ったような、溢れるものを持て余すかのように、皆上気しているようだった。



酒も進む・当然「歌」はてんこ盛りだった。

幸せってのは、こんなことを言うのだなと、思った。


1つのコンサートは、終止符を打った。

このコンサートから、引き算をして、新しいコンサートが生まれても、それは「あかんべ山コンサート」では無いだろう。

精神

精神は、生きている。

あの小屋から放たれた、魂のような空気は何だった?
貴方が言葉にした、心の塊は何だ?
貴方の心の中で、脈打つ、ほっこり温かいものは何?
会えば、同じ時代を、共に生きたと手を握り合うに違いない
懐かしく、やさしくなれそうな
仲間という人間と、貴方の間にあるものは何だ?

それは、「あかんべ山の精神」だと、僕は思うな。

だからさ、「歌うことを止めるな!」「街に出よう!ギターに弦を張って!」

あかんべ山の精神を抱いて、僕らが音楽を発信しないで、どうするのだ!

貴方の歌を聞きたい人は沢山いるのだ。








     地方    石垣りん

 私のふるさとは

 地方、という所にあった。

 私の暮らしは

 首都の片隅にある。

 ふるさとの人は山に木を植えた。

 木は四十年も五十年もかかって

 やっと用材になった。

 成人してから自分で植えたのでは

 一生の間に合わない

 そういうものを植えて置いた。

 いつも次の世代のために

 短い命の申し送りのように。

 もし現在の私のちからの中に

 少しでも周囲の役に立つものがあるとすれば

 それは私の植えた苗ではない。

 ちいさな杉林

 ちいさな檜林

 地方には

 自然と共に成り立つ生業があったけれど

 首都には売り買いの市場があるばかり。

 市場ばかりが繁栄する。

 人間のふるさとは

 地方、という美しい所にあった。
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