館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2024冬の沖縄・街中ぶらり。

2024-02-29 04:18:56 | 旅は続く






不屈館の、賛助会員になっている。この時期会費を納めに行く。カメさんが出迎えてくれた。
今回は目的が他にもあった。
ヤマト世からアメリカ世へ・・・そのアメリカ世に入ってすぐの5年間ほどは、頼るものはなく、生きる糧を自分で切り開く、力強い時代でもあった。
「戦利品」と称し、基地から色々手を尽くし物品を盗む。おびただしい数の、転がっている薬莢や放置された車や戦車。それら鉄くずを集める。
そうした品々が、与那国を経由し、台湾を通って、大陸と「密貿易」活気を極めた時代があった。ある意味「ウチナー世」の数年間かもしれない。
人々はたくましかった。驚くほどたくましかった。この密貿易は、当局も黙認・軍も「自分たちで食わせられないから放置」。この驚くべき数年は、「県史」などにほとんど書かれていない。
書くことがはばかれる事態と、自分たちの加担もあるのだから、書けるわけがないか・・・・

この時代に「密貿易の女王」と呼ばれた「夏子・ナツコ」を書きたいと、調べているのだが、代表的なルポ本1冊しかない。そこには亀次郎への活動援助などが出てくるのだが、そこらの真相が知りたくて、不屈館の館長さん、ちひろさん(亀次郎さんの次女)に聞きたいと思って今回のとなった。当時の亀次郎の日記などに出てこないので、はっきりとは言えないが「らしい」と言って、写真の記事など見せてもらった。





観光客は戻ったというが、あの狂乱の中国人爆買いの頃の喧騒は無い。他の国の客は、群がらないのかもしれない。
天気は毎日上等だった。



最近良くゆく古本屋「ラテラ舎」・・・実に良い。ちはや書房もそうだが、沖縄本はまず品ぞろえが上等なのだ。







今回探す、昭和女学校の「梯梧学徒隊」の配属壕「識名の壕」。
その彼女たちの学びやがあった場所を探した。写真とここら・・という住所が頼り。
川沿いに校舎・・・安里川の側にあった。この安里川、首里の高台から流れ出し、この場所は数百メートルで海にそそぐ場所だ。



こういうものが残される沖縄はすごいなぁ・・・・



こんな衣装で、島を徘徊している。









メインの企画は午前中、遅くても1時ぐらいに終わる行程。午後は気の向くままなので、ある意味行き当たりばったり(疲れて、行き倒ればったりもある)。こちらは、3日目の午後。「末吉宮」・・・かなり前、探したが行きつけなかった場所だ。
琉球8社の1つで、首里の北に位置する。南には識名宮・・・宗教的北の守りだったか?明治になって、日本政府がかまわず、経済的にも支えず、信仰含め無残な状態になる。さらに戦争で破壊される。
現在の建物は1972年の復元の物である。管理は沖縄で一番大事にされている「波の上宮」が行っているらしい・・・

ゆいレールの市立病院前が最寄りだ。駅から山の中の末吉宮の場所を見定め、目指した。それなりに道しるべがあり、ほぼ迷わず到着。



思ったより、立派!来てみてよかったぜ。





コーヒーは良く飲む。喫茶店は、一服の涼だ。やちむん通りにある、育陶園の経営する喫茶店。







露天で、屋台でコーヒー。ガイドブックにも載ったので、観光客が良く来る。この場所は3度目の移転先なんだが、俺は最初の店からずっと通ってる。
何故か?コーヒーが美味いからさ。彼女はコーヒーにはこだわりがあって、さすがに美味しい。野外(危うい屋根はついているのだが・・)だから、たばこも吸えるしね。
ちなみに「ひばり屋」って名。





最終日はいつも、コージー。いつもホテルの無料朝食は米がまずいと、ぶーたれてるが・・・・・昔は、無料朝食が無いホテルだった。
朝飯は、ここともう一軒、モーニングを食べていた。今のホテルから歩いて5分。今度からは、メニュー見て美味しくなかったら、ここに来ると決めた。
それほどおなかがすいてなければ、トーストセット・・がっちりなら「洋食セット」だな。昔から比べると100円値上がりしたが、仕方ないか。





カムイサウルス(のレプリカ・・たって、2000万円だが・・)が沖縄にやって来た。
最終日朝に新聞で見て県立博物館にやって来た。無料公開中。そのうち、特別展開くらしい。





開館は9時・・・ちょいと前だったので、博物館の無料区域(庭だけど)見学。
アメリカ軍が戦利品で持って行って、NPO法人が頑張って取り返したって鐘はこれだったか!!



この石・・・・欲しい!!!





かっこいい!!!!



発見された当時は「むかわ竜(発見場所の地名)」だが、今は「カムイサウルス」になっていた。
実は2019年に俺は、科博(国立科学博物館・上野)でこの「特別展」で現物を見ている。
レプリカも、たがわぬ出来栄え。しかも科博と違って、見学者も少なく、じっくり見れたぜ。


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菜園準備の買い物など・・・拾遺物語。

2024-02-28 04:56:56 | 僕の菜園


畑&きのこ準備の買い出し。
じゃがいもは今年も1キロ。ジャガイモはおよそ1キロが順調に育てば、8キロほどになるから、大したもんである。





しいたけは、春子と秋子があるのだが・・・・秋子はいわゆる早生。春子は「どんこ」だ。
半々欲しかったが、秋子は1パック(100個)しかなく、春子が3パックとなった。
他、短木はエノキタケにしたかったが、駒が無く、クリタケにした。クリタケは10年ほど前に作ったが、比較的簡単にできる。





他、今年の作付けで、不足している種を購入した。
老夫婦2人になって、作付け・・・・種類はあまり減らさないが、作る個数を減らした。
ナスなど5本がやがて4本になって、今年は3本にしようと思っている。同様、他の野菜も、かなり減らす予定。



ところで、数日前にスーパーで発見。198円に目がくらんで、ついつい購入。
しかしまぁ・・・198円。本当にフェアトレードであろうか?
悩みつつ食べ・・・た。(ヘタは当然鉢に植え・ヘタからのパイナップル!)



やや甘めが少なかったが、普通に美味しかった。





ま・・・当然ヘタは、乾燥させ、やがて植木鉢へ。


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ロスト定期練習・・2月

2024-02-27 04:32:43 | ロスト シングアウト


6月のギグに向け、通しの練習。

そして、4月に決まった、「反原発映画」上映の、前座の演目の練習と続いた。

ささくれは、お父様が亡くなり、欠席。

彼が居ない分、彼のパートも俺のギターの練習と、同じフレーズながら弾く。毎日ギターを触っているので、最盛期の7割ぐらいには復活したかも?

ささくれの弾く、ドブロギターは音量含め、演奏を支配するのだが、彼が居ないと、ベース・サイドギター・リード&オブリのギターの基本的な構成になる。
必然とギターが良く聞こえる訳だが、ボーカルども「そんな細かいギター弾いてたんだ」とか「何だかギターが良いなぁ」などとのたもう。
普段演奏を聴きながら、歌ってないだけなんだよ!ったく!!!

指が動くようになると、楽しくもあり、また欲が出て、もう少しシンコペーションや連符を使いたい・・・などと思うのだが、そううまくは行かないのだ!!



アツコは、クイーン命なのだ。

札幌まで行って、観戦だったらしい・・・・・アハハ!



ミホから義理チョコも配られた・・・・

相変わらず、食っているロストの練習日なのだ。
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2024冬の沖縄・・真玉道を歩いてみる。

2024-02-26 04:27:50 | 旅は続く






沖縄で有名な名勝「金城石畳道」。戦火を逃れた、琉球王朝時代からの石畳は、歩くと別世界に誘われる。途中には、これまた戦火を逃れ、巨木となった「大アカギ」も威風堂々、パワーみなぎるお姿だ。

その石畳・・・王朝時代の軍用道路であった。那覇港は、幾多の貿易船の玄関口で、見張り台・倉庫・乗組員の一時停留所など、様々な施設があった。貿易立国琉球の重要拠点で、そこで何かがあれば、首里から軍隊が駆けつけるのだが、その軍用道路が「真玉道」なのであった。そこを金城石畳から、那覇港が見える辺りまで歩いてみるが、2つ目のメイン企画であった。那覇港まで行かないのは、戦争で破壊されたり・開発で埋め立てられたり・今は米軍の基地になっていて入れなかったりと、真玉道の痕跡が残っていないからだ。
4キロほどだと思うが、かなりのアップダウンで、平坦な場所は無いと見た。



石畳の中間点、「金城村屋」・・今は休憩所や集会所になっている。石畳は驚くほどの急な坂で、何人も案内しているが、大アカギを見て、この休憩所で引き返す。下まで下り、また登ってくることを想像すると、「ここで戻ろうよ・・」と、どこからともなく声が聞こえてくるからだ。あれは空耳だろうか・・・?





とにかく下った。下りの終点は安里川、車の通りが多い、県道にでた。







「重修金城橋碑文」・・洪水で流された橋の架け替えうんぬん・・のようだ。碑は戦争で破壊され戦後再建。破壊された残った台座と碑の残片が写真右に残されている。
ここは「カナグシクバシとシチナンダ」の案内。金城橋とその先は「識名坂」ですよ(現代語訳・俺)。







見事に長く・急峻で・途中休憩しなければ登れない名勝であった。数週間前TVで沖縄の坂を紹介した番組があったが、まさにこの金城石畳と識名坂がメインであった。
登った辺りは、前日歩いた繁多川だ。



繁多川4丁目には、こうした砲弾のカラで作った半鐘のようなものがぶら下がっているのだ。調べたが不明。今度地元で聞いてみるかな?



識名に入る。広大な・ただただ広く、墓が大きい「識名霊園」に入る。



そして、前日おじいが教えてくれた「光明寺」までの道。ランドマーク識名警察官詰め所。この斜め前が光明寺と識名の壕。





直進すると、第一尚氏最後の王、尚徳の墓跡。第一尚氏は家来に征服され、そこから第二尚氏の時代に入るので、敗者の墓は、みすぼらしいのだ。この碑では立派に見えるが、実際はここに墓があったかは、怪しいものである。





普通に読んだら「あしんみお・・」だが、「お嶽」はおたき・・うたき・・「御嶽」だ。

「あしんみ」+「御嶽」。「あしんみ」は安次嶺(あしみね・地名)の古い読み方だから、この御嶽は安次嶺御嶽ってこと。今も地元で拝まれている拝所(はいじょ)のようだ。



あしんみを過ぎると、ほとんど文化財は無く、面白くもない道が続く。





迷うような5差路・・・・地図など確かめ進む。ここまでの行程、ここ含め3か所迷いそうだった。一番急な坂が正解だった。



ランタナなど咲き誇る季節。沖縄で見るランタナはひと際きれいだ。つまらない道に、一服の涼であった。







終点まじか。国道507号線に出る。「軽便鉄道の痕跡・線路跡」発見!小さな川を当時も跨いだか?しっかりしたレンガの土台がある。
国道と平行に走っているようだ。ってことは、この国道507は当時も主要道だったに違いないな。
那覇から与那原に向かう「与那原線」の一目橋橋梁の跡らしいと、後日調べる。





やっと終点、真玉橋にやって来た。立派な山口の五橋のような造りの石の橋だったようだ。ここは、レンタカーやタクシーで良く通るのだが、近くで見てみると迫力があり、まだ江戸だった時代の琉球の土木力がすごいと思った。





終点に着いた安心か?少し疲れが出て、行動食。朝3000歩歩いたから、真玉道は1万歩ってこと。平坦の道ならなんてことない歩数と時間だが、ほとんどアップダウンの繰り返しは、侮れなかった。







川向う、豊見城にも遺構がのこっていると、さっきの橋の解説にあったことを知った。
早速橋を渡る。漫湖というラムサール湿地にかかる橋だ。マングローブが岸辺に茂っている。



豊見城側の方が保存状態は良いようだ。



沖縄戦で破壊され・・・と、あるが、なんてことはない、日本軍が撤収の折、米軍の進軍の時間稼ぎに、爆破したんじゃないか。

戦争は、憎しみや悲しみは産むがそれ以外何も生まない、破壊だけだ。

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2024冬の沖縄・繁多川の新壕・県庁壕をもう1度確認・・そして初めての識名壕。

2024-02-25 06:17:17 | 旅は続く


2月18日日曜日・・・はや、1週間前か・・・・

女房は2日早く沖縄入り。辺野古で座り込みだそうだ・・・そして俺の一人旅(だったはず・・)に合流してきた。
企画は、一人旅だった(はず)なので、俺マターで決めた。2つのテーマで行程を作った。
その1つ「繁多川を散策しながら、4年前に必死で探した2つの壕と、新たな1つの壕を見つける」だ。
8時35分、てんぶす館前から5番識名牧志線で繁多川へ向かった。

かなり、長い記録になる・・・・興味のない方は、パス・・よろしく。





識名宮という名所を抱え、自治会がしっかりしているらしく、街の名跡・文化財が案内看板も良く、見どころ満載だった。
沖縄の豆腐作りの街でもある。今でも、繁多川の豆腐は、ブランドである。
識名宮は病気回復・健康祈願か?清楚で、静かさが素敵だった。





豆腐作りが盛んというのは、良い水に恵まれていること。あちらこちらに「ガー(井戸のこと)」がある。





神村酒造は手狭になって、うるま市1999年移転する。当時ニッカと業務提携していて、それがヒントになり、樫樽貯蔵の琥珀色の「暖流」など秀逸な泡盛を作っている。
その跡地が、名所として残してあるあたり、繁多川立派!







ここは、翌日の企画「真玉道」を歩くの一部でもある。首里の金城石畳道を下ると、安里川、そして急で長い有名な「識名坂」となる。
その識名坂の頂上から、金城石畳道をかかえる首里城の遠景だ。



やがて、少し戻り路地に入ると、大きな豆腐工場にでる。「永吉豆腐工場」だ。従業員氏にちょいと取材したが、那覇のほとんどの大手スーパーに卸している。沖縄豆腐の10%程度のシェアらしい。
暖かい豆腐を県民は買うので、1日の3・4度配達するようだ。出来立てを食ってみたかったが、何故か、繁多川には食べられる店は無いのだった。







やがて、コースに入っている墓・・沢岻親方成理(たくしウェーカタせいり)の墓地。尚真(しょうしん)王(1477~1526年)の三司官として国王をよく助け、その功績として国王から与えられた墓地である。こんこんと流れ出る首里城の龍桶、その頭の龍を中国から持ってきた方だ。ヒンプンを持つ立派な墓だが・・・場所が見つけにくかった。次の写真のおじいに助けられた。







さて、繁多川散策を終えて、4年前にやっと探した「新壕」「県庁壕」の場所をもう1度確認すべく向かう。
44年の10・10空襲という、まあ、東京大空襲のような空襲で那覇は焼け野原になり、県庁も県警も県の行政は、壕の中で行われる。
荒井退造県警本部長(1943年7月13日着任)島田叡知事(1945年1月12日着任)。
警察も県庁も「新壕」と「県庁壕」で執務だ。

その「新壕(ミーゴウ)」4年前は小さな看板があったが、無くなっていて、少しあせるが、木の生い茂る場所は記憶を呼び覚ました。
近くにいたおじいに壕を確認・草刈りや木の伐採があり、行政の手が加わっていた。ここは、残すつもりかもしれない。
小さいころ壕に入って遊んだというおじいは、その「様子」や、どこまで壕は広がっていたかなど、教えてくれた。
このおじいとの出会いはラッキーだった。(実はおじい2人に今回はかなり助けられた)



ハブ捕獲機が鎮座。



識名霊園と言う広大なお墓群が繁多川の隣にあるのだが、つぎに目指した「県庁壕」はその墓の中だ。
白い覆いで覆われた「建設途中の首里城」がくっきりと見える。









4年前はここを探すのに2時間はさまよった。今回は新しい場所の資料を見つけたので、記憶と相まってすんなり探せた。
最後の「市町村会議が行われた場所」で、ここから軍の南部撤退に合わせ、島田叡や荒井退造そして部下たちも南部に移動する。
移動する前日の「県民とともに奮闘している」という打電など・・・・・





移動する彼らは、やがて糸満の「轟の壕」にたどり着き・・・そこで「県庁・警察警備隊の解散」を宣言する。そして部下たちに「生きろ」と言うのだった。



道3分の2か・・・・行動食補給。





繁多川を過ぎると、ひたすら街中を歩くだけ・・・・次に目指したのは、俺も初めて、そして私有地なので、細かい場所など資料がほとんどない「ガマ」を目指した。わずかな資料は、近くに「光明寺」という寺があること・そしておよそこの辺りという詳しくない地図・壕の写真だけだ。



途中、識名霊園の端っこで散歩中のおじいに出会う。光明寺を訪ねると、「この道ではダメだ」と、道案内をしてくれた。まったく反対に行こうとしていたようだ・・・俺たちは。





たどり着いた光明寺。ここからガマを探すのだ。
「識名分室壕」・・昭和女学校・・梯梧学徒隊は、南風原の「ナゲーラ壕」そしてこの識名分院に配属となる。彼女たちの初の犠牲者、さらに2人が砲弾で犠牲になる。梯梧学徒隊・・動員数17名・・犠牲者9名であった。









およその見当が、当たった。入り口の写真(青い車の止まっているやつ)もほぼぴったりだった。壕の前では、生き残った方が、語り部として体験を語たり継いできたが、それもつい最近亡くなって、途絶えたようだ。



ガマの入り口のコンクリートの構造物は、建物の柱・・・基礎だ。私有地・・・・・



壕の真上の私有地は、古い建物の解体と新しい建物の建設が行われていた。

壕が見学慰霊できるのも、風前の灯か???

コメント (2)
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