出発ロビー・羽田。わくわく!
糸満、峯さんレンタは、時間が余ったので、皆が行っていない「山城・陸軍病院本部壕」に連れて行った。ランドマークになるようなものがなく、ひたすら農地の中なので、俺の記憶と地図で行ったが、何と、途中に道しるべが設置されていた。俺が訪ねるのも10年余ぶりであった。ぽっかりと空いた(写真がボケているが)壕の入り口はそのまんま。年に1度慰霊祭が行われる広場は、整備されていた。
元々は,山城集落の避難壕だったが、日本軍の南部撤退にあわせて、元いた住民は追い出され病院壕として本部の機能が置かれる。そこには南風原から激しい砲弾を潜り抜けたひめゆりの少女14名もいた。山城本部壕での彼女たちの主な任務は各壕へ指令を伝令することだった。
1945年6月14日の爆撃で病院長が戦死したため,陸軍病院本部は伊原アブチラガマ(第一外科壕)やチブラーアブ(第三外科壕)などに分散されることになってゆく。
10年の歳月。探すのも困難だった壕は、駐車場も整備され、トイレもあった。
壕からほどなく、水の確保が困難だった沖縄。水を豊富にたたえた河川が無い。
そこに、地下の石灰岩の中をくぐる水脈に「地下ダム」を作ったのだ。
有名な「米須地下ダム」
ったって、こんな場所を見学する観光客は皆無。立派で、誇らしげな姿だぜ!
地下ダムからくみ上げる以上にあふれた真水は、やがて海へ流れる・・・
この地下ダムから100mあまりの海岸の水は飲んでみると真水。
皆に、呑ませた!
昼飯に向かいながら、通り道なので、これも有名で、良く壕を囲む米兵と、やがて壕から出てくる住民の映像で目にする「轟(とどろき)壕」も見学した。(彼らは前日石川の資料館でその映像を観ている)。県知事島田叡と県警本部長荒井退蔵が最後に立ち寄った壕で、一緒に行動してきた県職員を前に「県行政の解散」を告げ、「生き残れ」と告げる。
自由時間に古本屋。遅ればせながら「水滴」を読もうと購入。
お決まり最終日は、帰って家のみのつまみ購入。
墓がでかくて、高いぞ!
4月は思いのほか花は少ない沖縄。火焔木が咲いていた。
自生したハイビスカス。
今回のシーサーは、農連プラザ。何故、服を着ているかは不明。