館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

旅から帰って・・せいごうちゃんのための島ラッキョウの塩漬け講座。

2024-06-30 04:16:41 | 生活雑感




梅干は塩漬けが終わっていた。





パッションも受粉など行ったようである。



こ奴は、すでに咲いていたが、これは数日、夜は閉じて、日中また開くので、美しいお姿を見ることが出来た。

加工済みの塩漬けラッキョウは、美味しいが高い。生を買ってきて、自分で漬けると、市場とおんなじ味が再現できる。
せいごうちゃん、あのラッキョウは、これでGOODだ!





根の付け根は、切る。皮が剝きやすくなるだよ。







しなびた皮を、上から剥いてゆく。剥く過程で大きな球が2つか3つに分かれる。そう!あの塩漬けの店の大きさになる。



4分割して、先の部分は捨てる。(やや筋張ってるから)





塩梅は、薄塩。小スプーン1杯弱。
これでもみもみして、タッパーで一晩。翌日から食べられるが、3日目ぐらいが馴染んで上等。
鰹節など振って、どうぞ。

買った、一パックを4回ぐらいに分けて、食べたくなると作る。新聞に包んで冷蔵庫で3週間は保つね。



美味しい!


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続々ぞく・夏野菜・・・虫も発生が始まったね~~。

2024-06-29 03:58:48 | 僕の菜園




19日・オクラ初収穫。醤油でコネコネして、粘りを出して、熱々のご飯が好き!



19日・ニンジン初収穫。ショウガが影になってしまうところだけ、収穫。







20日・イチジクの越冬果初収穫。まだ、本来の甘味が無いかな?ヨーグルトなどに入れて食べる。



ナスは順調。暑くなると、さっぱりと茹でナス・ショウガ醤油が美味い。



6月20日・ツルムラサキ初どり。2株しか植えてないが、多分これから口が追い付かない。



シンプルにお浸しで。



ツマグロヒョウモンの幼虫。グロテスクなお姿だが、刺さない。まぁ、この幼虫、もう丸2日はこの三色すみれを食べている。
ツマグロの大繁栄の理由は幾つかある。まずは温暖化。1980年代までは、ツマグロの生息域は近畿以西とされていたようだが、温暖化で北方へと勢力を拡大した。なので、この蝶は気候変動調査に重要な生物と考えられているらしい。まぁ、すみれしか食わないからそのまんまさ。


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2024・おばぁスナック組の沖縄・その2「伊江島」。

2024-06-28 04:09:49 | 旅は続く






7時35分、職安前バス停で本部港目指し出発。9時のフェリーで伊江島を目指す。島の真ん中に「城山(ぐすくやま・あるいはタッチューと呼ばれる)」の伊江島とすぐわかるシンボルが近づいてくる・・・もう、ワクワクだ。





島上陸!1948年8月6日、伊江村の波止場で起こった米軍爆弾処理船LCT爆発事故。連絡船の入港と重なり船員や下船中の乗客、出迎えに来た村民を巻き込んだ102名の犠牲者を出す大惨事の慰霊碑が出迎える。



民宿を変えた。初「民宿かりゆし」・・・良い民宿であった。まずは荷物を預け、レンタカー屋さんに向かう。



ここからは、ツブクチョイスの見学が始まる。
アーニー・パイル・・・第二次世界大戦に従軍記者として同行し、1944年にピューリッツァー賞を受賞するなど、第二次世界大戦期のアメリカの従軍記者を代表する存在の1人となったが、翌年4月に従軍先の沖縄県伊江島にて戦死した。
このアーニー・パイルの功績を忍び、米軍は銀座と那覇に映画館を作る。那覇の「アーニーパイル国際劇場」これがあった通りが、国際通りと呼ばれるようになる。島には記念碑が建ち、米軍によって綺麗に整備されている。





有名なガジュマル。昨年の台風で2本とも倒れてしまった。それがどうなっているかは、今回の最大の関心事だった。
無残だった・・・村が何とか再生を試みているが、とっても悲しい姿だった・・・・



これが昨年、倒れる前のガジュマルだ。





伊江島の慰霊碑を訪ねる。伊江島の慰霊祭は「占領宣言」がなされた4月21日に行われている。兵士およそ2000人・住民1500人(実に住民の3分の1だ)が合祀されている。



島は晴れると化ける。海の青も空の青も、島でしか見られない青さだ。



村営金融機関だった「公益質屋」おびただしい砲弾の跡が、語るものは多い。解体せず残す思いがすごいのだ。







島のシンボル、城山には初めての方には必ず登ってもらう。急峻な階段の連続で、やっと登った頂上からの360度の眺めは見事としか言い表せない。
島中の畑・・耕作放棄地など無縁な、沖縄で特別に肥沃だった島がよくわかる。実は、この日は俺は登っていない。もう何度も登っているので、いいかな?って感じ。写真は、峯さん。



登山の後には、かき氷のご褒美が待っている。







阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんと「伊江島土地闘争」・伊江島住民は占領後すぐ慶良間諸島に強制移住させられる。2年後に返されたときには実に島の67%(現在も32%は占領されている)が米軍基地になっていた。ここから「伊江島土地闘争」が始まり、窮状を琉球民政府に訴える那覇への行進が始まる。着の身着のまま、カンパを助けに行われた請願は、「乞食の行進」と呼ばれたが、やがてこの行進が全土の闘争の起爆剤となり、沖縄の土地闘争が始まるのだった。
写真の、見事な、非暴力の「陳情規定」を読んで欲しい。





次に村民およそ150人が集団自決したガマを訪ねた。





こんこんと真水が沸く海岸・離島は「水」の確保が大きな課題だ。本部から海の中を通る送水管が出来るまでの、島の貴重な水源地は、また絶景でもあった。





そう・・・竹やりで突っ込むようなゲリラ戦を、わずかな軍隊は夜な夜な仕掛けたらしい・・・戦の愚かさの象徴のような碑だ。



土地を奪ばわれた中心地「真謝地区」に保存された団結道場。ここに人々が集まり、協議し、米軍に理性で立ち向かった場所だ。



伊江島補助滑走路。今も米軍の施政下にあるが、通行は黙認・周辺の畑も黙認耕作地となっている。

軍隊は人を殺し、文化を奪う。

伊江島は補助飛行場を受け入れることで国から莫大な交付金や助成金を引き出してきた。基地反対運動は影を潜め、「アメとムチが人の声をも奪って」今に至る。
「国がぶら下げるアメを、次は拒めるか?」・・・・・戦争体験者はもうすぐ人口の1割を切ると言う。語り部が居なくなって、戦争の物として残る「戦跡・資料」が大事になって行くと言う声もある。現地に立つと、その重要性が僕はわかる気がしている。現場主義!
お金でふさがれた「声」・・・・さて、どうする?







最後にやってきたのはこちら。海からは入り口が見えず、多くの住民の命を救った。
風光明媚にして、ガマからのハートの光が素敵なのだ。

県議選は惨敗に終わった。沖縄の選挙は、寄せては返す波のように、いつも右へ左へ揺れる。このまま自民公明が続くことは無い(と、僕の沖縄20年は教える)。
寄せては返すのだ。




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2024・おばぁスナック組の沖縄・その1「名護」!

2024-06-27 03:55:22 | 旅は続く


今年も「おばぁスナック愛好会」3人のガイドツアーが21日から行われた。羽田待ち合わせ・弁当購入・・もう、心は島だ。



11時半着、12時30分の「やんばる急行バス」発車まで、那覇ロビーで昼飯を食べ、高速道路を一路、名護へ。
14日は、100年に1度の大雨だったらしく、各地で被害があったようだ。高速から見えるダムも満水だった。





数年前、学徒碑の「三中学徒の碑」を見学すべく、名護から本部・・八重岳に向かったがガイドの俺が八重岳への入り口を間違えて、遠回り。
その時は、豪雨で、八重岳を少しさ迷った。碑は拝め、さらに、予期せず「なごらん学徒隊(第三高女)」の勤務した「八重岳野戦病院跡」に出くわしたのだった。
今回はその追体験、しっかり地図で場所を確認し、案内できるように場所を頭に叩き込む、が、まずこの日のテーマだった。

間違えず、沖縄県立第三中学校「三中鉄血勤皇隊」の慰霊碑に立った。動員363名、犠牲者43名。碑からこぼれる無念に手を合わせた。







その先に進み、舗装道路から右へ折れる砂利道を入ると「野戦病院跡」にたどり着く。
道しるべや、案内板が新しくなっていた。良いことだ。
なごらん学徒隊・・・動員数10名、犠牲者1名。
元々、北部は(国頭支隊)は伊江島守備隊の第一大隊と本島守備隊の第二大隊その他鉄血勤皇隊やら、今なら小学校高学年などを集めた護郷隊などの約4000名の少なさで、いわば南部の戦線の本格的戦闘の補助的かく乱の任であり、病院も小規模であった。
伊江島は4月21日には早々と「占領宣言」が出され、大隊は壊滅状態にすぐなった。第二大隊も1か月ほどで壊滅状態。山に避難していた住民も、隠れて避難していた故に多大な犠牲を出した。軍人・住民1700余名が亡くなっている。





残された石垣などで、兵舎や、病院の建屋が想像できる。



病院跡の少し先には、米軍施設が現存、使われている。米軍通信所・・・沖縄と日本本土を結ぶ重要な通信機能を担っていたが、現在は沖縄県内の米軍施設を結ぶマイクロ中継タワー施設として利用されているようだ。

これで、いつでも、請われれば案内できる。







次にやってきたの、第三高女、そして第三中学校が前身で、今は「名護高等学校」になっている高校を訪ねた。
中学校時代の校歌の碑と高女時代の校歌(写真は忘れた)の碑が鎮座。
僕らは南燈慰霊之塔に向かった。





南燈慰霊之塔、中学校と高女の合同の慰霊碑だが、多くの学徒碑は当時在校生で犠牲になった学徒、その時教師などが刻まれるが、この慰霊碑は、2校の出身で、沖縄戦で犠牲になった方々が、皆刻まれている。ある意味珍しい。
綺麗に芝生が刈られ、2日後の「沖縄慰霊の日」の式典に合わせ、在校生たちがテントを運んだり、準備に頑張っていた。
現存する学校には必ず学徒碑がある。戦争で無くなってしまった学校はゆかりの地に学徒碑が建つ。
学校にある学徒碑は「同窓会」が管理している。



受付で、こうした見学を申し込む輩は少ない。受付中にロビーでちらちらと俺たちに目をやる方が居た。
見学して、札を返すと1人の方が、「どのような方々か?」と声をかけてくれた。何と!同窓会の副会長で、元はこの学校の校長先生であった。
色々話が聴けて、有意義な出会いだった。現場に立つ凄みは、こうした出会いも用意するか?
僕の書いた年金者新聞の「沖縄記事」など送ろうかと考えている。





最後にやってきたのは「白い煙・黒い煙」の碑の見学だ。名護城址の入り口にある。
戦前も戦後も、貧しく職が少ない沖縄は本土への出稼ぎ含む移民の仕送りが、経済を支えた。
幼い乙女が那覇から船に乗り、鹿児島を入り口に本土に向かう・那覇まで見送りに行けない両親は名護湾を通過する船に向け柴をたく。
船から娘は立ち上る白い煙を見つめ、両親は汽船の吐く黒い煙を眺め、乗っている乙女を見送る。





実話が碑になっているのだ。きっとここから汽船を眺めたか?
こうして、初日の旅は終わったのだった。
ホテルに行き、露天風呂で汗を流し、しばし部屋呑み。7時集合で、行きつけの居酒屋に向かい名護の夜は過ぎて行った。



翌朝4時30起床・海岸を散歩・・3本のインターバル速歩をこなした。
少しだけ朝焼けの海岸は、いつも誰か釣りをしている。
10分ほど見学、小さな(リリースサイズでリリースしていた)魚が上がった。

さていよいよ65番線のバスでまずは本部港・・そしてフェリーでいよいよ伊江島だ。
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今年は咲いた~~など・拾遺物語。

2024-06-26 04:39:12 | 生活雑感




19日開花!昨年は蕾は出たが育たず、こ奴は毎年俺が沖縄に行っている間に咲くのだが、今年は大輪を拝んで、島に向かった。



もう1つ、蕾があるのだが、さて?咲くか?



こちらのサボテン君も、蕾が膨らみ始めた。





石垣島のパインを女房が購入。当然、ヘタを育てるつもり。



梅雨で、キノコがあちこち目立つ。夏キノコ・・・・そろそろ偵察してみるか。
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