4月には、佐野のBIPをご案内して、島に行く。色々取材して、希望も聞いて、彼が行った場所の点と点を繋ぎ、「南部戦線・ひめゆりと白梅の足跡をたどる旅」そして「集団自決の島・渡嘉敷島を訪ねる」の2本をメインに据え、市場(マチグァー)散策と夜の那覇のゆったりとした企画も入れて、ほぼ、計画が定まった。
レクチャーや、「ここを、こうした視点で見るのもいいよ~」との思いで、選んだ3か所の講釈を語る記事が今回だ。これから4月まで、まずは3つ。ネタ切れの週には1つ2つ挿入するかもしれないのだった・・・・ミネさん!たのしみだねぇ!
荒崎海岸・・・・・遠景に摩文仁の丘・平和祈念堂が見える。
1945年3月26日・・・米軍は座間味島、渡嘉敷島、など慶良間諸島に上陸、2日でひとなめにして、「集団自決」の惨状だ。
4月1日に読谷村に上陸、北部と南部に侵攻し、飛行場の制圧をまず目指す。日本軍は、「いかに時間を稼ぐか・本土決戦の用意ができるまで、沖縄にとどめておくか」の捨て石作戦を繰り広げる。
やがて、沖縄戦最大の組織的戦闘がおこる。日本軍は、牧港(西海岸)・嘉数・我如古・和宇慶(東海岸)のラインに強大な陣地を築き、そこに米軍がさしかかると、猛烈な反抗が起こる。
4月8日から40日に及ぶ攻防が始まり、これが、最大の組織的戦闘と言っても過言では無いのだった。
沖縄大本営は首里城にあって、ロジスティックなど行うが、この40日の戦闘で、80%の兵力を失うのだった。上記ライン陥落後惨禍を極めることになる。首里陥落はほとんど時間を要せず、5月27日には、南部摩文仁の丘への撤退が始まったのだ。
首里大本営の後方支援・病院機能は、南部南風原の置かれ、3月24日には、ひめゆり222名がすでに「南風原陸軍壕」に召集されていた。上記撤退に伴い、5月25日の南部搬退命令により病院が搬退、壕を捨て、動けない患者は青酸カリを飲ませ、皆が訪れる「ひめゆりの塔(外科壕の周辺にある)」などへ必死の夜間撤収が続くのだった。
敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令、6月23日(22日の説もある)時の日本軍最高司令官、牛島中将の自決で日本軍の組織的戦闘は終わりを告げる。
守る軍(もともと守らなかったけど・・・)の居なくなった戦場では、ひめゆりも、しらうめも、住民も、背後は迫りくる米軍の火炎放射・・・南へ南へ逃げるしかなかった・・・
やがて、行き場のない、絶壁の海岸にたどり着く・・・そこから見た海は、米軍艦隊に埋め尽くされ、雨のように降る「艦砲射撃」だった。
絶望のあまり身を投げるもの、わずかな岩の切れ目に身を隠すもの、あるいは集団自決するもの・・・
その場所こそ、写真の「荒崎海岸」であった。
ここにたどり着いた人々は、せめて靴は履いていたろうか?古琉球石灰岩の海岸は、まるでガラスのようにとがり、ささくれているのだ。
おそらく、はだしで1歩2歩あるけば、生身にささり、皮を貫き、肉をえぐるだろう・・・・億年波に洗われ、侵食され続けても、この岩は滑らかにはならないのだ。
僕は、この海岸に初めて立った時、その鋭さと、眼前の絶望に、戦慄し、息をのんだのだった。
ここは、その岩場をぜひ歩いてほしいと思っているのだ。