館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

送別会だった。

2017-02-28 05:31:18 | グルメだ!


先週の送別会の話。



まずは乾杯!!




お仕事でのお付き合いながら、とっても近くにいた彼は、まだまだ、僕よりはるかに若い。

いよいよ海外に転勤・・・・まあ、お隣?一党独裁・・一筋縄ではいかないお国に行く。

4・5年は帰れないだろう・・・

写真・・海鮮てんこもりの鍋は旨かった。



遅れて登場の方などくると、またまた乾杯!



キスの天ぷらがうまかった。

単身赴任らしい・・・が、それもまた良しではないかい?いろんな経験が大事な年頃かも?



まじめな男で、がんばりやな感じ?その調子で頑張れば、道もつながるさ。



最後は赤城山の燗!

皆で、エールを送っただよ!

これから仕事で位置を確かにする若者・・・・仕事をどのように収めるかと、終章の最後に近いページをめくるもの・・・

あんたに出会えてよかったよ!
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「春だいこん」種まき・2月25日の百姓の記録。

2017-02-27 05:16:38 | 僕の菜園


例年なら3月初旬・・・

でもきっと、マルチ敷いて、ビニールの覆いをして、寒冷紗などかければ、かえって塔立ちの少ない、旨い春大根が出来るのではないか?

と、2月の暮れに大根を蒔いてみた。




耕して、根の当たらない部分に肥料を入れ、マルチを敷いて、種をまいた。

左右8か所、16本だ。

マルチは使いまわしで・・・そろそろ、新しくしていいんでないか?



寒冷紗で覆った・・・

この後、これをまた、適当なビニールで覆う予定・・・・

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荒崎海岸・観光コースでない沖縄スポットその1。

2017-02-26 06:23:02 | 旅は続く
4月には、佐野のBIPをご案内して、島に行く。色々取材して、希望も聞いて、彼が行った場所の点と点を繋ぎ、「南部戦線・ひめゆりと白梅の足跡をたどる旅」そして「集団自決の島・渡嘉敷島を訪ねる」の2本をメインに据え、市場(マチグァー)散策と夜の那覇のゆったりとした企画も入れて、ほぼ、計画が定まった。
レクチャーや、「ここを、こうした視点で見るのもいいよ~」との思いで、選んだ3か所の講釈を語る記事が今回だ。これから4月まで、まずは3つ。ネタ切れの週には1つ2つ挿入するかもしれないのだった・・・・ミネさん!たのしみだねぇ!



荒崎海岸・・・・・遠景に摩文仁の丘・平和祈念堂が見える。

1945年3月26日・・・米軍は座間味島、渡嘉敷島、など慶良間諸島に上陸、2日でひとなめにして、「集団自決」の惨状だ。
4月1日に読谷村に上陸、北部と南部に侵攻し、飛行場の制圧をまず目指す。日本軍は、「いかに時間を稼ぐか・本土決戦の用意ができるまで、沖縄にとどめておくか」の捨て石作戦を繰り広げる。
やがて、沖縄戦最大の組織的戦闘がおこる。日本軍は、牧港(西海岸)・嘉数・我如古・和宇慶(東海岸)のラインに強大な陣地を築き、そこに米軍がさしかかると、猛烈な反抗が起こる。
4月8日から40日に及ぶ攻防が始まり、これが、最大の組織的戦闘と言っても過言では無いのだった。

沖縄大本営は首里城にあって、ロジスティックなど行うが、この40日の戦闘で、80%の兵力を失うのだった。上記ライン陥落後惨禍を極めることになる。首里陥落はほとんど時間を要せず、5月27日には、南部摩文仁の丘への撤退が始まったのだ。

首里大本営の後方支援・病院機能は、南部南風原の置かれ、3月24日には、ひめゆり222名がすでに「南風原陸軍壕」に召集されていた。上記撤退に伴い、5月25日の南部搬退命令により病院が搬退、壕を捨て、動けない患者は青酸カリを飲ませ、皆が訪れる「ひめゆりの塔(外科壕の周辺にある)」などへ必死の夜間撤収が続くのだった。

敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令、6月23日(22日の説もある)時の日本軍最高司令官、牛島中将の自決で日本軍の組織的戦闘は終わりを告げる。

守る軍(もともと守らなかったけど・・・)の居なくなった戦場では、ひめゆりも、しらうめも、住民も、背後は迫りくる米軍の火炎放射・・・南へ南へ逃げるしかなかった・・・

やがて、行き場のない、絶壁の海岸にたどり着く・・・そこから見た海は、米軍艦隊に埋め尽くされ、雨のように降る「艦砲射撃」だった。
絶望のあまり身を投げるもの、わずかな岩の切れ目に身を隠すもの、あるいは集団自決するもの・・・

その場所こそ、写真の「荒崎海岸」であった。

ここにたどり着いた人々は、せめて靴は履いていたろうか?古琉球石灰岩の海岸は、まるでガラスのようにとがり、ささくれているのだ。
おそらく、はだしで1歩2歩あるけば、生身にささり、皮を貫き、肉をえぐるだろう・・・・億年波に洗われ、侵食され続けても、この岩は滑らかにはならないのだ。

僕は、この海岸に初めて立った時、その鋭さと、眼前の絶望に、戦慄し、息をのんだのだった。

ここは、その岩場をぜひ歩いてほしいと思っているのだ。

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RCサクセション・僕の育った音楽Rの仲間たちその12。

2017-02-25 05:12:34 | 僕の育った音楽
土曜は音楽だ!!!

で、女房が昨日からいないのでらくちんだ。

今日は「春大根」を蒔く・風呂に行く・あとは、早めののんだくれだな・・・





日本のロックらしいロックのバンドであったな!!

清志郎が有名になったから、清志郎のバンドのイメージかもしれないが、ここはトータルに素晴らしいし、メンバーの個性や技量も実に良かったぜ!

ベースの林小和生(リンコワッショー)・ギターの仲井戸“CHABO”麗市・ドラムスの新井田耕造・キーボードのゴンタ2号(G2)とみんないい味出してたぜ!!

そして、ライブではいつも、JAZZ界の大物・つわものである、梅津和時と片山広明がブルーデイホーンという呼び名で、ステージを闊歩し、バンドを鼓舞していたぜ!

こんなバンドはしばらくこの国では現れないだろうな・・・・

ちょいと、清志郎が「政治的主張」を繰り広げ、原発はいらね~~と、大ぴらになってから、ぎくしゃくした気もするが、それでも、このRCの残したものは揺らがないな。

いいバンドだった・・・清志郎が生きてりゃ、まだまだ、健在に彼らを聞く機会があったかもな。

しばらくぶりに聞いてみっか!!


PS・そういえば、「原発はいらね~」と、アルバムを出そうと思ったら、所属レーベルの東芝EMIから圧力がかかって、発売できず、インディーズから出したっけな。その東芝・・原発にしがみついて、生れの果てが、今世間をお騒がせする事態だ。この国の大企業は、どっかおかしくなってるねぇ・・・原発は安い電力でも、安いインフラでもないんだねぇ・・・ここら、いい加減に学ぼうぜ!
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「大山」・鶴岡の名酒・・・ある日の晩酌テースティングノートその332付き。

2017-02-24 05:17:15 | グルメだ!


極上の「ちりめんじゃこ」を頂いた。

僕は、長ネギとじゃこのかき揚げがことのほか好きである。



さつまあげとちくわの煮たの・・・・・言わなくてもわかるか・・・



畑のコウサイタイが、カキナより一足早く、とう(花芽)を恵み始めた。

さっとゆでて、油は捨て気味に、シーチキンと合わせる。



こちらは、知人からもらったのだが、大根の溜まり漬け・・・・・いい味で、毎日ちびりちびりと食べた。




激戦、山形・・といつも書くが、山形は蔵も多いが、どれもうまくて、激戦である。

鶴岡の名酒「大山」だ。

軽快でほのかな吟香、やわらかい口当たりと調和の取れた旨みと形容するに、ぴったりのお酒である。
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