館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

本番寸前のロスト!仕上がったかぁ?

2018-06-30 04:42:04 | ロスト シングアウト
本日本番だぁ!!!!ぐわんばるのだ~~~

さて・・・仕上がり具合は?



沖縄から帰った日・・・ロストの本番前最後の練習日だった・・・・

土産のタンナファクルと亀甲せんべい・・・・



もずくのてんぷらが食ってみたいという、あつこのリクエストで、てんぷら・・・生ライチとゆっこが持ってきたサクランボもでる。


これでは練習してると思われない・・・・



したぜ!練習。

まぁ・・・8割程度に仕上がったか!!!

「ひとつぶの涙」はこのメンバーで初めてだろうか?
かなりの仕上がりだ。

8月は今のところ3つオファーがあって、すべて受けることにした。

まぁ・・・声がかかるうちが華よ!

コンサート・・・ウッドランドと2グループのみでって、初めての試み。

ウッドランドに、すべて美味しいところを持っていかれないようにしないとな・・・・!!!
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6月のあれこれ・・・モグラのその後付き。

2018-06-29 04:46:56 | 生活雑感



今年も咲いてくれた。

島に行く前に(時々、帰ったら咲き終わっていた)咲いてくれた。

2日でしぼんじゃうのだ。



まったくだが・・・・

まさに、「県民が追い詰めた」・・・のであって、「国民が」追い詰めたのでない悲しさ・・

僕では言葉が見つからないほどの、惨状に立ち尽くしたであろう、福島県民が、「受け入れてきてしまった原発」を深く悔い、「その電力は首都東京の物であった」事実と向き合い、「もう原発はまっぴらだ」と、怒りに拳を握りしめ続けているからこそ、福島を諦めざるをえないと、表明したのだろう。

(と・・・・これを書いている最中、「初期微動の極めて短い大きな地震が起こっている?」(震源・・・すごく近いな・な?)

県民と程遠く、他県の国民は、あのことを忘れてしまったかのように、沈黙し、他の立地自治体では「経済・・けいざい」と、相変わらず、命より地球より「金」と、選択をする。

東電は「新潟は別です・・」とすかさず言っている。その新潟の選択は、自公の結局原発を認めたい勢力だ。

国民が追い詰めたのでない悲しさ・・・・




例の数週間前に仕掛けたモグラ捕獲機・・・周辺に痕跡が無くなったので、もしやと・・・

かかっていたぜ!





サツマイモの場所に、モグラのトンネル・・早速、また仕掛けたぜ。
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2018梅雨明けの沖縄その2・国頭方西街道を歩く(よれよれと・・)。

2018-06-28 04:52:05 | 旅は続く
琉球王国の時代には王都の首里城を起点として宿道と呼ばれる公道が延びていた。2018年2月にその1つ、「中頭方東街道(首里から勝連城まで・・)」の復元整備された部分を浦添から首里まで歩いた。比較的平坦で、市街地を通るので、5・6キロだったが、楽しく散策した。

その好印象で、今回読谷村喜名から名護を通って本部までの「国頭方西街道」の部分、恩納村に復元整備(????????????・・?の意味は後でわかる)された、歴史の道を歩く企画を2日目に組んだ。




ホテルからほどなくの一番近いバス停から名護西線に乗る。1時間30分のバス旅出発。



やがて仲泊で降りて、さっそく起点の「一里塚」を見学。のっけから、やや道に迷い‥やな予感がした・・・てーげーなんだよ・・目印。





一里塚そのものには、看板は無し。小高い木々に覆われた盛り土がそれであった。



歩いて5分で道の駅「恩納の駅」につく。
きっと、疲れると甘いものが食べたくなるに違いないと、、普段は食べないサーターアンダーギーをねえねから購入(これはいい選択であった)。



川を挟んで恩納村博物館がある。特別展(こちらの記事は後日)の拝観と、これから行く歴史の道のコースの(ちゃんとした、しっかりした地図がどこにも無いのだ)確認のために学芸員氏にレクチャーを受けるべくやってきた。




庭には、指定文化財の「唐人の墓碑」をチェック。これは1ど見ている。



疑問点を確認し、いよいよ地図の左端の真栄田の一里塚までの徒歩での散策の出発であった。



ここは、数年前に見たくてやってきた「仲泊遺跡」ここから歴史の道が始まる。
海洋博・・その開発で58号線の整備過程で見つかった貴重な遺跡で、その保存運動で58号線は大きく海岸寄りに道を変え、この遺跡が守られることになったのだった。
海洋博・・・その開発は、経済振興の背中合わせに、かなりの負の遺産を生んだようである。
僕は、あのウルトラマンの生みの親、金城哲夫も(彼は海洋博のコーディネートを任されるのだが)海洋博での軋轢で神経をすり減らし寿命を縮めたと思っているのだ。




当時を想像できる状態がいい。




いよいよ遺跡から続く、石畳を出発。見事に急こう配の山沿いの道が続く・・・



広くて1・5m、細い場所は1m程度、しかもU字の掘り状態の道・・・・どうやって注意する?



イユミーバンタ(魚群を発見する物見高台だべ)。



ほとんど平らな場所は無いのね・・・・登っては下り、右に左に曲がって・・・こんな、石畳・土むき出し・ごつごつの岩が土から突き出た道・・
そんなのが、しばらく続く・・・

なめてました・・・

俺・・なめてました・・ごめんなさい!

中頭方東街道の印象のまま、なめていた自分に、うすうす気づき・・・




しばらく山中を歩いた後(まだ行程の10分の1だんべ・・)一旦、58号線に出る(街道は基本58号線をなぞるのだ)。
かなりホッとする・・・



58号線をしばし歩くと、この目印・・・また、山の中に入れと・・・




階段・切通し・・斜面のヘリの1m程度の道(反対側は結構な崖)などまたまた歩き・・・・




やっと、やっとマークの文化財「ヤーガーのいしばし」に出る。





ほどなくして、歴史の道からの寄り道スポット(本線には戻らねばならない)久良波大主の墓が出現。少し悩んだが、2度目は無いので寄り道する・・・
さて久良波さん・・・ほとんど資料は無いが、まだ、琉球が統一される前あたりの在野の豪族と拝察。



元の道に戻り、わずか区間だが、舗装された緩やかな下り坂にほっとしながら、目印にやってきた。



ホッとする間もなく、またまた、山の中に入れと矢印が・・・
写真じゃわかりませんが、このお山への道・・斜度が70度はありましから~~




最後は中城城で果てた、築城の名手護佐丸はここ山田城辺りが拠点で、名をあげ、やがて読谷の「座喜味城」を作り、琉球統一に貢献した武将であった、ここに祖先の墓があったんだねぇ・・・



やっとお山を抜け出したころ・・・すでに3本持ってきた水は2本なくなり、大正解だったサーターアンダーギーが美味かった。
気温は33度程度だが、梅雨明けの湿気は80度を超える湿度と、天気予報が言っていたが、もう、よれよれだった。

なめてました・・わし・・ごめんなさい!!



歩くこと1キロ?救いは舗装道路・しかも緩やかな下り・・・行程の3分の2を歩いて、人気のある場所にやってきた。



と・・・・目印がまた・・・




寺川橋という、遺跡の場所だが、今は復元でもなく、架け替えた橋となっている。



ここから、さらに奥地へ歴史の道は続くのだが・・・・(たぶんあと1キロ程度)・・・このまま行ったら、熱中症?
見事に、疲れ果て・・・




歩くこと5分?テーマパークの「琉球村」があるのは知っていたので、ここで方針変更。
出発時の学芸員とのやり取りで、次の3つの文化財までは遠回りで車で行けることを確認しておいたので、琉球村のタクシーの待機所に向かい、電話番号が貼ってあったので、たくしーを呼び向かった。運転手氏も行ったことない場所らしく、いやそうだった・・・




1つ目の文化財。




2つ目の文化財。



3つ目はこの先なので、車では無理そうなので、あきらめる・・・



テーマパークの不味い昼飯を食って、がっつり水分を補給し・・・バスを待った。が


へとへとだった・・・・

最後を歩けなかったこと・・・3か所目が車で行けず残っていること・・これは、これから必ずリベンジだ!!
なめず・覚悟してリベンジだ(たぶん残りは1キロなので、なんてことない・・とおもう。登りだけどさ)

しかし、旅は、これからが面白い・・・・



バス停で待っていると、1台の個人タクシーがやってきた。

運転手「どこまで行くの那覇?」
俺「那覇」
運転手「バスだと1500円くらい?客待ちしてたんだけど(ほとんど中国の方なので、乗らないわなぁ・・・)捕まらないので、1000円でいいから乗らない?」

おもしろいねぇ・・・これぞ沖縄!普通にタクシーなら5000円ほどだ。冷房の利いた車中で那覇まで行けるとは・・・

三線が積んであるタクシー・普段は流しはしてない・今日はツアー会社の企画で片道だけ修学旅行生を運んできていた。
宮古の出身で、八重山民謡の師範で教えている・・・・そんな経歴だった。

民謡の話やら、沖縄のよもやま話やら、歌ってくれるやら、GOOD体験のタクシーだった。

山の中を頑張った俺への贈り物か?

「安里屋ユンタ」の含蓄・・・琉球から送られたいわば代官に支配される先島諸島・現地妻になることを拒んだあっぱれな安里屋のクヤマ。その心意気を天晴!と、隠語を使いながら(代官批判と分からないように)皆でおしゃべりするように歌った歌。島でおしゃべりを「ゆんたく」というが、ユンタはまさにゆんたくなのだと・・・

この島唄タクシーはお金出しても乗りたいたくしーだった。

運転手氏も僕を気に入ったらしく、名刺をくれ、機会があったら、電話して使ってくれと・・うれしいお言葉だった。旅は、これぞ醍醐味だねぇ・・・

降りるとき、2000円渡した。



ホテルに戻り、どっぷりシャワー!!!その後ワインを放り込み、うとうとした・・・



気力回復し。欲しかった沖縄産「生ライチ」を物色に。目星をつけた店で、1パック500円で購入できた。



ホテルでマッサージを頼み(このネーネは上手で、ネーネ話はそのうち出てくる)疲れを癒し、夜の那覇。

コマネチなのだが・・あるミッションが入っていて、ここに来ねばならなかった・・(ミッションは成功した)。



お通しがマグロなんだけど、生なので美味いったら、旨い。



定番、クーポンを使うと10本450円の串揚げも旨い。



お代わり・・・


  

これまた、定番の冷やしトマト・・


さすが、本日は疲れ果てたらしい・・・・

2軒目はどうしようかと思ったが、体の声に忠実に・・・

コマネチでやめて、爆睡した・・・・

まったくなぁ・・・


なめてたぜ!国頭方西街道!

残り、そのうちリベンジだ!


この長い、駄文・・・・興味のない方は、あきれた放浪記(しかも途中でへたる・・)最後まで読んだ方には、猛烈なハグと頬ずりを、わしゃしたい!

PS/な・・わけで、コマネチグラス・・・入手したぜ、海坊主殿!


















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2018梅雨明けの沖縄その1・学徒の碑をめぐる。そして大バカ者牛島中将終焉の壕も見たさ!

2018-06-27 04:58:20 | 旅は続く


俺はダメな男だ・・・今度こそ新しい空弁を・・と決意しつつ、やはり「しゅうまい弁当」・・・



11時半に那覇・・いつもの砂川タクシーと待ち合わせ、まずは糸満で昼飯。




検索で見つけた店。これが、当たりで、見事にミニカレー&蕎麦が美味い。いわゆる進化系の蕎麦だが、今のところ3本の指に入るな!



本日のメイン企画。
数か月前、BSで「ひめゆりからHIMEYURIへ」という番組を見た。それはひめゆり祈念館がここまできたあゆみと沖縄戦の体験がない新しい語り部たちの話がメインだった。
そのひめゆりの慰霊塔の敷地の隣に、昭和高等女学校の慰霊碑「梯梧の塔」がある。
番組で、その生き残りの学徒のおばぁが「ひめゆりには多くの人が訪ねるが、ここにはほとんどやってこない」とぼそりと語る言葉に、俺は唖然とし、立ち尽くした。
まさに・・・俺だって、片手に足りないほどひめゆりには来ているが、「梯梧」には手を合わせていないではないか!!とさ。

それそれから、「戦場に動員された学徒隊」について調べ始めた(今頃かようぅ・・・)。

宮古・石垣・・・・それから今回、嘉手納・名護・本部は無理としても、回ってない南部の碑・那覇の碑はすべて回ろうと思い立った。
那覇以南は全部で、12の学徒隊の慰霊碑がある。その半分6しか回っていなかった。

21の学徒隊(ひめゆりは沖縄師範女子部と第一高女でできていて、慰霊碑は1つなので、慰霊碑は20だ。
宮古・石垣に5校・嘉手納・本部・名護で3校・せめて南部12校を回ろうってことさ。

な・・わけで、ここ「沖縄水産高校」にやってきた。船乗りのエリートを育てる有名な学校だ。



少しのっけから長い話になるが、ここを過ぎれば、写真と小解説になる・・・

学校なので予約がいるとは思っていたが、タクシーの砂川さんが入れていてくれた。(ここは同窓会が管理していて、同窓会の許可なしに学校で判断できないらしく・・)
許可まで結構苦労したようだ・・・ありがとう砂川さんなのだ・・

(ちょいと偉そうに)教頭先生が出てきて、やがて同窓会担当の先生に引き継ぎ・・・慰霊碑の前に立つことができ、手も合わせられた。




ひめゆり会館の敷地続きの、先の「梯梧の塔」にやってきた。心の中で「きましたよ!」とつぶやいて、手を合わせた。



梯梧から車で5分?「平和創造の森」にある「開南中学」の塔がこちら。





摩文仁の丘の行政が作った「国立戦没者墓苑」・・事の始まりは、ここなのである。ここは是非訪ねてほしい場所だ。
翁長助静・・・歌人にして、立法院の議員も務めた、翁長知事のお父さんの碑がそばにある。魂魄の塔の命名者でもある。知事は3男だそうだ。

和魂(にぎたま)となりてしずまるおくつきの み床の上をわたる潮風・・・(おくつき・・・お墓の意味・・注は俺)

悲惨な戦争犠牲者のめい福を祈るとともに、とくに最後の「潮風」の中に、「これからの沖縄にはもっと厳しさが襲ってくるだろう」という思いを込めて詠んだつもりである。(私の戦後史 翁長助静 1981年3月~4月 沖縄タイムス連載)



沖縄戦で一番兵士の死が多かった北海道・・・・その慰霊碑もこちらにある。



子供たち・太陽・飛ぶ鳥たち・・・なんだか、軽やかで、この広島の碑は好きだ。




本日のもう1つのセッションのために、「平和祈念堂」に向かった。3日後の慰霊の日の式典の仮設のテントなど整っていた。




各県の慰霊碑・国立戦没者墓苑のある、摩文仁の丘を目指し坂道を登る。やがて登りきると右にカーブ。
ここからは、関西の県が多い・・・




靖国ではない、こうした施設こそ、今こそ大事だんべ?あそこ靖国に戦犯と一緒に祭られている間は、真の隣国との未来志向の関係はありえないだろう。



突き当りに来ると、坂を右に登る結構急な階段がある。前ではおばぁが花を売っている(かなり強引に買わされるのだが・・)。
ここは、あの32軍司令部の終焉の地。最高司令官のお馬鹿・・牛島中将が「皆、最後まで戦え(戦って死ねだわさ・・)」と言って、自分はさっさと自決した壕があるばしょだ。

何度も摩文仁に来ているのに、所在は知っていたが、来る気になれず来なかった場所だ。やはり、歩いて・見ておくべき・・と、やってきた。これで、ここ摩文仁はたぶん見るべき場所は回ったことになるだろう・・・



階段の突き当りには「32軍司令部将校・軍属600人の慰霊碑だある。



左を見ると、絶壁の崖・・・太平洋・・・ここに彼らがおびただしい数の軍艦が並び、艦砲射撃を浴びせられたとき・・あの時の絶望が、それだけはわかる気がする。



下りの階段が続き・・・階段を下ると、急に左へ続く階段に分岐する。分岐の先には、壕らしき入り口が見える。




おばぁから買った(買わされた)はなを手向ける気にならず・・



また、階段を南を目指し・・下り・・下る・・・



所々、すっかり埋まった穴が見える。師範学校男子部・・・鉄血勤皇隊のガマか?



やがて、鉄血勤皇隊・・・慰霊の塔にたどり着く・・・・最高学府のエリートたちが散った場所だ。おばぁの花はここに手向けた。
1945年3月に第32軍の命令で、防衛召集された旧制中学生ら1780人による鉄血勤皇隊が編成され、戦闘行為に動員されて、約半数が戦死した(17歳未満の戦死者は567名)。


こうして、糸満に集中する戦跡をまわり・・・那覇を目指した。




城岳公園にある二中健児の塔を最後に目指したのだが・・すぐそばなので、こちらも・・・
戦後瀬長亀次郎が収監された刑務所跡の公園。そして当時亀次郎の家があった場所など写真に収め・・・




二中健児の塔に立つ。195名が戦死している。

21学徒・・・みな、若きエリート達だ。塔の前に立つときいつも僕は、こう思うのだった・・・

「彼らが生きていて、戦後その若き知性が生きていたなら、沖縄の戦後は今と違う、もう少し自由や民主主義がまかり通る、豊かな社会になっていったのではなかろうか」・・・と。
たくさんの未来が死んでいったのだ・・・



ホテルにチェックインして、少し休み・・・街を徘徊・・・・いつもの本屋で数冊購入。




まずは、タンパラヤのセイボーに挨拶・・・

台湾からの団体ベーベーが仰山いて、セイボーはてんぱっていた・・・とりあえず生ビールが美味い!



挨拶を済ませ、2軒目・・・




こちらもすっかり馴染みになって・・・落ち着いて呑む。




明日はたくさん歩く企画なのだ・・・・


こうして初日は暮れていったのだった・・・・


しかし長いなぁ・・・・ここまで読んだ方には、わしゃ、ほおずり」したい!
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6月16・17の百姓の記録。

2018-06-26 04:53:52 | 僕の菜園


蒔いてみた・・・・・




2週間に1度くらい、水遣りの時に、液肥を1000倍程度で、こやつらにあげる。




サボテンがいくつか発芽した(発芽率は極めて悪い)ので、本移植した。1センチくらいに育ったら移植のタイミングらしい。



新参者を一回り大きな鉢に植え替え。大体、購入時は鉢が皆小さい。



相変わらず2男が大きくなると、ポットに受けている。22本になったらやめる。



先週の続き・・肥料を入れて、土は完成。



種を購入した畑のメークインはまだ青々・・・月末が収穫時期かな?



一方、例の芽が出ていた食べ残しは、東の軒下が残っていたが、収穫。10時ころまでしか日が当たらないので、小玉が多いぜ。



ハツユキカズラというまぁ、観葉植物なのだが、数年前1本のみと瀕死の重傷だった・・・
そこから、大事に育てなおし、ランナーを伸ばすまでになった。
ランナーから取り木を3本行って、根が出たので、もう1鉢と、移植。




イチジクの剪定を行う。風通しを良くし、病気をふせぐのと、これからたかり「カミキリムシ」を発見しやすくするためだ・・・





島ラッキョウとエシャロットが枯れ始めた・・・球根の掘り起こしのサイン。
掘り起こし、弱った球根は処分。いいやつを網に入れ、日陰で保存し、また、晩夏に育て始めるのだ。
こうすると、毎年いいのができる。




掘り返した跡地のコンテナは、糠を振って、嫌気置換。


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