何もかも長男のせいにして、逃げ切る策の藤村。
藤村を信じるというより、ほとんど共謀の永井部長。
絶望する長男。
事務所は重苦しい雰囲気に包まれていた。
この時のことについて、後で長男は私に言った。
「急に悪者にされたことより
親父が何も言わなかったことの方が悲しかった…」
自分もいい年だから、親にかばってもらおうとは思わないが
まるで他人事のように知らん顔だったのが情けなかったという。
「貝が出たんよ」
私はそう答えた。
夫は口下手なので、とっさに気の利いたことを言えず
貝のようにおし黙るしかないのだ。
長男を妊娠中の新婚時代
私が酔ったオジさんにいきなり絡まれた時も
隣に居た夫は終始無反応。
そのオジさんが夫の知り合いだったにもかかわらず
ただ眺めるだけだった。
その表情は平然、あるいは恍惚として見え
何と冷たい人よ…当時はそう思ったものだ。
酔っぱらいが立ち去ると、夫はごく普通に言った。
「災難だったね」
私の驚きと絶望が、おわかりいただけるだろうか。
これが我が夫、ヒロシである。
自分の身は自分で守らなければ…
この時に悟った私は、自身の弁舌を頼りに生きることにした。
以後も似たような体験を重ね
危険を感じると貝に変身するシステムは理解した。
浮気を繰り返すような男は、どこか故障しているものだ。
それでも長く暮らすうちに、いい人なのがわかった。
口で人は守れないが、その分、こまめな行動でカバーしている。
不甲斐ない貝への変身が、結果的に良い方向へ向いたことも何度かあり
気にするほどではないのもわかった。
一番の収穫は、自分と家族を口で守れるようになったことだろう。
余談になるが、妊婦の私に絡んだ酔っぱらいは
何年も後、寸借詐欺でお縄になった。
市内ではスポーツ関係の世話役として知名度があり
好人物と認識された人なので
皆は驚いていたが、私は胸がすいた。
ともあれこのような体験から、長男の情けない気持ちはよくわかる。
「わかるよ…悲しいし、悔しいよね」
これは個性じゃけん、仕方のないことなんよ…
代わりに父さんは子供を叩いたり、きつい言葉を浴びせたりを絶対にせん…
気分で家族に当たることも絶対に無い…
あんた、小さい頃から父さんのご機嫌をうかがったことなんか
一回も無いじゃろ…
それで十分じゃないか…
口で自分の身を守れるようになりんさい…
今のボキャブラリーじゃあ、まだ手薄ということよ…
長男にはそう話し、彼も笑顔になったのでホッとしたものだ。
さて、現場に戻ろう。
永井部長は、全てを長男の責任にして一件落着にしようとした。
「ま、そういうことだからね。
君もよく考えて、藤村さんに従ってください。
会社の悪口を言ったことに関しては後日、誓約書を作成して届けます。
今後、会社の悪口を言わないという文書にみんなでサインをしたら
藤村さんを通じて本社に提出してください。
約束を破って、また悪口を言ったり
サインを拒否した場合は退職してもらいます」
永井部長の愚かな頭の中を想像するのは困難だが
彼の目的は、この誓約書だったのではないかと思う。
彼は、神田さんが労働基準局監督署へ訴えるのを止めたいのだ。
会社にとっては最高に迷惑かつ不名誉なことなので
取締役として未然に防ぎたいのは当然である。
会社の悪口を言わないなどと子供っぽい表現をしているが
これはおそらく、守秘義務に関する誓約書のことだ。
10何年か前から、医療機関や介護施設、金融機関などで
職員にサインさせるのが慣例になっている。
サインさせれば大丈夫というわけではないが
永井部長は、きちんと解決したことを上に見せるため
実は長男よりも神田さんの誓約書が欲しいのだと思う。
しかし悲しいかな、彼は危機管理の初心者。
謝罪を忘れている。
下手な小細工をせず、藤村が神田さんに心から謝ればよかったのだ。
藤村は頭を下げたくないばっかりに嘘をつき
何につけ我が社憎しの永井部長もそれに乗ったが
長男の責任で押し切るなら
長男に神田さんへの謝罪をさせなければ片手落ちだ。
その謝罪を神田さんが受け入れたら、和解成立となる。
納得しなければ和解の努力を続け
和解が無理であれば、第三者を挟んで示談交渉に進む。
危機管理は小細工より、誠意ある謝罪が先なのだ。
この基本中の基本を忘れて、コトが収まるわけがない。
こんなおバカさんを取締役に任命し
危機管理をさせる本社の行く末は暗そうだ。
また、長男に謝罪をさせなかったのは
彼らが嘘をついている証拠である。
嘘をついて無実の者に罪を着せることはできても
謝罪までは、なかなかさせられるものではない。
もっとも、長男に謝罪までさせようとしたら
永井部長は今頃、長男の手で藤村ともども病院送りだろう。
ともあれ藤村のスケベ問題のはずが
とんでもない方向へ行ってしまった。
永井部長は名奉行のつもりで得意満面
藤村は難を逃れて安堵の表情を浮かべ
父親は依然として貝。
それを眺める長男の頭に、退職の二文字が浮かんだその時だった。
「私のことはどうなるんですか!」
神田さんが叫んだ。
「だからね、あなたも誓約書が来たらサインをしてくださいね」
立ち上がり、帰ろうとする永井部長。
「私が藤村さんから受けた被害は、何も解決してないじゃないですか!
気持ちが悪くてごはんが食べられないし
夜もちゃんと寝れないんですよ!」
食い下がる神田さん。
「お気の毒ですね、お大事にね。
誓約書のほう、お願いしますね」
そう言いながらドアに向かう永井部長の前に
立ちはだかる神田さん。
「待ってください!
今日は藤村さんが私にしたことを
はっきりさせるんじゃあなかったんですか!」
「だから僕がマコト君に取締役部長として厳重注意をして
はっきりさせたでしょ?
それで誓約書にサインをすることになったんでしょ?」
のらりくらりとかわす永井部長。
「何が誓約書ですか!
そんなもん書かすんなら、藤村さんに
パワハラとセクハラをしない誓約書を書かせてくださいよ!」
「君ね、終わったことをだね
そういうふうに蒸し返すのは、どうかと思うよ?」
「終わってません!
何も解決してないじゃないですか!
私は被害者なんですよ!
私が受けた心の傷は、どうしてくれるんですか!」
「そう言われてもねえ」
「あなたがたは最初から、何もしてくれるつもりがないんですね!」
「何をして欲しいんですか…」
「藤村さんに謝ってもらいたいです!」
「それは…」
「この人がいたら、みんなが不幸になるんです!」
プレデター神田は、藤村を指差して吠えた。
《続く》
藤村を信じるというより、ほとんど共謀の永井部長。
絶望する長男。
事務所は重苦しい雰囲気に包まれていた。
この時のことについて、後で長男は私に言った。
「急に悪者にされたことより
親父が何も言わなかったことの方が悲しかった…」
自分もいい年だから、親にかばってもらおうとは思わないが
まるで他人事のように知らん顔だったのが情けなかったという。
「貝が出たんよ」
私はそう答えた。
夫は口下手なので、とっさに気の利いたことを言えず
貝のようにおし黙るしかないのだ。
長男を妊娠中の新婚時代
私が酔ったオジさんにいきなり絡まれた時も
隣に居た夫は終始無反応。
そのオジさんが夫の知り合いだったにもかかわらず
ただ眺めるだけだった。
その表情は平然、あるいは恍惚として見え
何と冷たい人よ…当時はそう思ったものだ。
酔っぱらいが立ち去ると、夫はごく普通に言った。
「災難だったね」
私の驚きと絶望が、おわかりいただけるだろうか。
これが我が夫、ヒロシである。
自分の身は自分で守らなければ…
この時に悟った私は、自身の弁舌を頼りに生きることにした。
以後も似たような体験を重ね
危険を感じると貝に変身するシステムは理解した。
浮気を繰り返すような男は、どこか故障しているものだ。
それでも長く暮らすうちに、いい人なのがわかった。
口で人は守れないが、その分、こまめな行動でカバーしている。
不甲斐ない貝への変身が、結果的に良い方向へ向いたことも何度かあり
気にするほどではないのもわかった。
一番の収穫は、自分と家族を口で守れるようになったことだろう。
余談になるが、妊婦の私に絡んだ酔っぱらいは
何年も後、寸借詐欺でお縄になった。
市内ではスポーツ関係の世話役として知名度があり
好人物と認識された人なので
皆は驚いていたが、私は胸がすいた。
ともあれこのような体験から、長男の情けない気持ちはよくわかる。
「わかるよ…悲しいし、悔しいよね」
これは個性じゃけん、仕方のないことなんよ…
代わりに父さんは子供を叩いたり、きつい言葉を浴びせたりを絶対にせん…
気分で家族に当たることも絶対に無い…
あんた、小さい頃から父さんのご機嫌をうかがったことなんか
一回も無いじゃろ…
それで十分じゃないか…
口で自分の身を守れるようになりんさい…
今のボキャブラリーじゃあ、まだ手薄ということよ…
長男にはそう話し、彼も笑顔になったのでホッとしたものだ。
さて、現場に戻ろう。
永井部長は、全てを長男の責任にして一件落着にしようとした。
「ま、そういうことだからね。
君もよく考えて、藤村さんに従ってください。
会社の悪口を言ったことに関しては後日、誓約書を作成して届けます。
今後、会社の悪口を言わないという文書にみんなでサインをしたら
藤村さんを通じて本社に提出してください。
約束を破って、また悪口を言ったり
サインを拒否した場合は退職してもらいます」
永井部長の愚かな頭の中を想像するのは困難だが
彼の目的は、この誓約書だったのではないかと思う。
彼は、神田さんが労働基準局監督署へ訴えるのを止めたいのだ。
会社にとっては最高に迷惑かつ不名誉なことなので
取締役として未然に防ぎたいのは当然である。
会社の悪口を言わないなどと子供っぽい表現をしているが
これはおそらく、守秘義務に関する誓約書のことだ。
10何年か前から、医療機関や介護施設、金融機関などで
職員にサインさせるのが慣例になっている。
サインさせれば大丈夫というわけではないが
永井部長は、きちんと解決したことを上に見せるため
実は長男よりも神田さんの誓約書が欲しいのだと思う。
しかし悲しいかな、彼は危機管理の初心者。
謝罪を忘れている。
下手な小細工をせず、藤村が神田さんに心から謝ればよかったのだ。
藤村は頭を下げたくないばっかりに嘘をつき
何につけ我が社憎しの永井部長もそれに乗ったが
長男の責任で押し切るなら
長男に神田さんへの謝罪をさせなければ片手落ちだ。
その謝罪を神田さんが受け入れたら、和解成立となる。
納得しなければ和解の努力を続け
和解が無理であれば、第三者を挟んで示談交渉に進む。
危機管理は小細工より、誠意ある謝罪が先なのだ。
この基本中の基本を忘れて、コトが収まるわけがない。
こんなおバカさんを取締役に任命し
危機管理をさせる本社の行く末は暗そうだ。
また、長男に謝罪をさせなかったのは
彼らが嘘をついている証拠である。
嘘をついて無実の者に罪を着せることはできても
謝罪までは、なかなかさせられるものではない。
もっとも、長男に謝罪までさせようとしたら
永井部長は今頃、長男の手で藤村ともども病院送りだろう。
ともあれ藤村のスケベ問題のはずが
とんでもない方向へ行ってしまった。
永井部長は名奉行のつもりで得意満面
藤村は難を逃れて安堵の表情を浮かべ
父親は依然として貝。
それを眺める長男の頭に、退職の二文字が浮かんだその時だった。
「私のことはどうなるんですか!」
神田さんが叫んだ。
「だからね、あなたも誓約書が来たらサインをしてくださいね」
立ち上がり、帰ろうとする永井部長。
「私が藤村さんから受けた被害は、何も解決してないじゃないですか!
気持ちが悪くてごはんが食べられないし
夜もちゃんと寝れないんですよ!」
食い下がる神田さん。
「お気の毒ですね、お大事にね。
誓約書のほう、お願いしますね」
そう言いながらドアに向かう永井部長の前に
立ちはだかる神田さん。
「待ってください!
今日は藤村さんが私にしたことを
はっきりさせるんじゃあなかったんですか!」
「だから僕がマコト君に取締役部長として厳重注意をして
はっきりさせたでしょ?
それで誓約書にサインをすることになったんでしょ?」
のらりくらりとかわす永井部長。
「何が誓約書ですか!
そんなもん書かすんなら、藤村さんに
パワハラとセクハラをしない誓約書を書かせてくださいよ!」
「君ね、終わったことをだね
そういうふうに蒸し返すのは、どうかと思うよ?」
「終わってません!
何も解決してないじゃないですか!
私は被害者なんですよ!
私が受けた心の傷は、どうしてくれるんですか!」
「そう言われてもねえ」
「あなたがたは最初から、何もしてくれるつもりがないんですね!」
「何をして欲しいんですか…」
「藤村さんに謝ってもらいたいです!」
「それは…」
「この人がいたら、みんなが不幸になるんです!」
プレデター神田は、藤村を指差して吠えた。
《続く》