見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける
素性法師(古今和歌集 巻第一春歌上、五六)
平安の都大路の実景を詠んだ和歌であると解釈するのは、実に、素人の素直な読み方かもしれない。
写真にある『日本的自然観の研究』斎藤正二によると、「サクラとヤナギとを並列して一陽来福のシンボルと見る考え方は、夙に中国民間習俗のなかにあり、これが日本に伝わっていたことを見落としてはならぬ」(下巻・146ページ)
ところが話はこれで終わらない。
漢詩に歌われている桜花は、ユスラウメをさしていると見る説が有力らしい。
ここに挙げられいる漢詩を載せておくと……
「何処哀箏随急管 桜花永巷楊岸」李商隠
「柳色青堪把 桜花雪未乾」 郭翼の陽春曲
桜花は桜ではない、とそのような区別が王朝歌人に出来たかどうかは疑問であると斎藤は書く。むしろ素性法師が中国にならった平安の都大路を詠むことで、「ここに正真正銘の文化があり理想国があり栄輝がある」(斎藤)ことを確信した思いを吐露したのだと指摘している。
つまり桜は‘貴族の花’であり‘都市の花’であった。
では、いつの頃から桜との関係が深まったのか。
日本人と桜は太古より始まったのではなく、『記紀歌』からようやく見られるという。しかし、本格的に桜花が歌われるのは『万葉集』になってからだ。
それらの古代詩歌は、中国に習った貴族文人の‘学習の成果’だという斎藤の読みに、ふと近代日本の西洋かぶれを思わずにいられない。
話を大忙しで近世に飛ばすと、ようやく江戸庶民の‘民衆の花’として桜が賞味されることになる。確かに、こうしてブログを書きながら、耳には『元禄花見踊り』の長唄が聞こえてくるし、目には歌舞伎『京鹿子娘道成寺』や『助六所縁江戸桜』の舞台が鮮やかに浮かんでくる。みごとに春を謳歌する生命の姿なのである。
ところがいちばん身近な時代における桜は、不幸な歴史を背負わされてしまった。
軍国主義の時代に、「桜と大和魂」が関係づけられたことによって、生命の謳歌に死の影が漂う。
最後に斎藤正二は本居宣長の和歌について書く。
「サクラを見て、ああ美しいなあと嘆声を発すること、こちたき理屈なしで感嘆すること、これが本当の日本の精神だ」と、宣長の門人であり養嗣子である本居大平のことばを挙げている。
宣長は町人階級の出身で、物に囚われない合理主義的な思考を生得的に享けていたことを書き加えている。
いやはや日本的なるものと何となく思い込んでいる自分が恥ずかしく思えた。
久しぶりに三十年近く前に手に入れた本を取り出して、頁をめくっている。
日本的なるものとしての価値観が育つまでには長い時の経過が必要で、ようやく「私たちの桜」になっていくということに気づかされた。
だからこそ桜は‘日本の花’になったのだ。
そしして野口三千三先生のお宅近くにあった西巣鴨・東大学生寮には、柳が大木に育っていた。
新芽が春風に揺れて、それはそれは美しく、立ち止まってしばし見とれてしまうのは私だけではなかった。
しかし、先日久しぶりに訪ねてみると、柳の姿は跡形もなかったのだ。
学生寮の半分が建替えられていたので、きっと、その時に切られてしまったに違いない。
それも時勢だ、と言い放って、何とはなしに寂しい気持ちを簡単におさえることができなかった。
しかし、それはそれとして、桜と柳の取り合わせは、春爛漫の風情そのものであるのだから、今日はどこの桜に酔ってみようか。
秋の錦に対して春の錦、華やぎの時である。
宣長の歌を素直に読んでみましょうぞ。
敷島の大和心を人とはヾ 朝日に匂う山桜花
本居宣長