羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

宗匠

2008年04月13日 19時15分40秒 | Weblog
 昨日、朝日カルチャーセンター土曜日クラスのレッスンだった。
 気候が定まらないので、出かけるまでに、時間がかかってしまった。
 何を着て行ったらよいのか、迷ってしまったから。

 で、いつもより少しだけ遅くカルチャーセンターに到着した。
「羽鳥先生、『マッサージから始める野口体操』を、10冊も買ってくださったんですよ」
 福担当のMさんが駆け寄って、報告してくださった。
「待っていらしたんですけれど、お見えにならないから……」

 そこで、ロビーの入り口が見える場所に陣取って、お茶をいただきながらお待ちしていた。
 実は、野口三千三先生は1時間前には、現地に到着する習慣をお持ちだった。私も自然にその習慣が身について、いつもは早めに着くように時間を測っている。
 しかし、昨日に限って、先に書いた理由から家を出るのが遅くなってしまった。

 待つこと20分ほど、3時少し前に戻っていらした。
「ありがとうございます」
 二言三言、言葉を交わした。
「いい、本ですよ。明日は地方の支部に土産でもって行くんです」

 あっちこっちに配って下さるという。
 有難いことこの上ない。
 以前も『アーカイブス野口体操』を教科書として使ってくださった。
 実際のところ、他のものを認めるということは、なかなか出来ない。
「このことだけでも本を書いた甲斐があったというもの」
 一人でもわかってくださる方がいて、その方とじかに接することができるということ。
 同じ時間を生きていることの実感を持つことができることこそ‘生き甲斐’だと思う。
 その上、その方がその道の達人なのだから、嬉しさも一入である。
 
 ところで、和歌や俳諧や茶道といった伝統文化の世界には、‘宗匠’と呼ばれる方がおられる。
 身体系の世界では、そういった呼びか方はしないけれど、はじめてお目にかかったときの印象が「宗匠」とお呼びするに相応しい方とお見受けした。
 それ以来、ずっとそう呼ばせていただいている。
 他のものを認めるだけの器量の大きさをお持ちの方なのだ。
 いいものはいいとおっしゃれる確たるものをお持ちなのだ。
 今、そうお呼びするのは、この方だけである。
「宗匠」
 お呼びするとき、私自身、気持ちがいい。
 太極拳の名手であられる。
コメント
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