羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

音への感受性

2008年02月08日 14時59分07秒 | Weblog
 いやはや参った。
 悪いのは私なのだけれど……、まぁ、仕方がない。

 何の話かというと、ピアノのこと。
 昨日、今日と、ピアノを弾いた。
 この前練習したのは、夏ごろだっただろうか。半年も楽器に触れなければ、指が動かなくても当たり前のことだ。
 
 多分、一日に30分くらいは、ピアノを弾く時間はあったはずなのに、それが出来ない状態に陥っていた。
 自分に言い訳はすまい、と心に決めても、あれこれと理由を思い浮かべている浅はかさ。

 指慣らしにハノンからはじめてツェルニー50番から19番、バッハを中心に弾き始めた。
 今までよくわからなかった曲もやってみようと、今日は「フランス組曲」から第三番の前半を片手ずつから練習をはじめた。
 この曲は、いわゆる古典音楽の長調・短調というような単純なコード進行ではないこともあって、耳がなかなかしっくりと聞き取れなかった。
 ところが今日は、音楽として聞きながら弾くことが出来たような気がする。
バッハの時代のチェンバロで聞けばもっと素直に音楽になると思う。ピアノという楽器の響きは、一つの音が鳴りすぎることによって、調性の変化にばかり気を取られていたように感じる。
 バッハの対位法は調性ではなく、声部を幾層も重ねることで音楽が成り立っていることをはじめて実感した。

 ピアノで弾いてもふさわしい曲と、やっぱりバッハが生きた時代の楽器でないとよさがわからない曲とがあるように思えた。
 
 以前、スペインの修道院のようなところで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を弾いているレーザーディスクを見て聴いたことがある。空間も楽器として濃密で親密な関係を音楽とともにつくりだすものだ、とその時に感じていた。

 やっぱり欧州はいい。その空の下、音楽の勉強を一からはじめてみたい、と思ったもののすぐに打ち消す。
「そんな夢物語を思うより、まずは毎日ピアノを蓋を開けて、15分でも20分でも弾くこと」にしよう、と。(そうはいっても実行はかなり難しい)
 少なくとも音への感受性を失わないことがまず先決のようだ。
 感覚は継続によって維持される。
 
 それにしても昨日今日と丁寧に体操をした後に、ピアノを弾く時間を持ってみて、内容はともかくとしても、いい気持ちだ。
コメント (2)
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