羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

オートマティック・トイレ

2007年04月12日 08時16分48秒 | Weblog
 2年前に家を新しくしたときに、タンクレスで省エネでお掃除が楽でリモコン操作のいちばん新しいトイレを入れた。

 連日、母の話しで恐縮だが、食べることと排泄は、生きる根幹にかかわる重要なこと。
 今日は、まさかのオートマティック・トイレのお話
 
 坐骨神経痛発作が出て以来、母は、小さな座布団に正座して、手と頭を支えにして座布団を滑らせながら、トイレまで移動してくれる。
 介助する者にはとても楽だ。
 
 で、便器の前で方向を変えて、つかまりながら便座に腰をかけるときが、ちょっと厄介だ。しかし、無事に便座に腰がかかると一安心。
 この便器は、便座に人が座ると、ウォッシュレット器具を使う前に洗うために水が流れる。
 母は、その音を頼りに腰をずらして、音を聞き取ってから用を足す。
 次に、腰を浮かしただけで脱臭機能が働き、その音が聞こえる。
 水はリモコンのスイッチに軽くふれると流れる。
 下着をあげる作業が、また一苦労。彼女は、出来ることは自分でやる努力をしている。片手でからだ支えながらだから見守っているほうが、手を出したくてウズウズするくらいだ。でもそれを拒否する。
 身支度が終わると、もう一度、便座に腰掛けて一休みすることになる。
 
 数日前、普段は切っているが、オートで水が流れる機能がついていたことを思い出し、使えるようにした。
 便利なのだ。からだの自由がきかないときは、流すすためにスイッチをいれることも忘れがちだった。
 腰を浮かせれば、座っていた時間で「大」か「小」かを判断して、水の分量を調節しながら自動的に流す。

 ところが、一度座って立ち上がって、また座って立ち上がって、時には2・3回そうしたことを繰り返すたびに、最初からの段取りがはじまって水が流れる。何度でも繰り返されるのだ。
 
 機械は、どこまでも機械というわけ。
 人間の行動を見て、判断しているわけではない。

「もったいないから、自動は止めて。何とか自分で流すから」
 一日もたたないうちに、オート機能は切る羽目に陥った。

 いやはや、まさかの出来事は、日常茶飯事である。
コメント
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