徳川家康に仕えた石川丈山は、大坂夏の陣後徳川を離れ、母の孝養のため広島浅野家に仕えた。
母の死後京に出て59歳で「詩仙堂」を造営し、没するまでの30余年を清貧の中で過ごした。
現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺で「詩仙堂丈山寺」となっている。
小有洞(しょうゆうどう)と称する山門、清貧で過ごした石川丈山の心そのまま、簡素なつくりである。
老梅関(ろうばいせき)の門から建物を見ると、まるで人間の顔に見える。
嘯月楼(しょうげつろう)と称される三階の楼、丈山はここで月見を楽しんだ。
現在立ち入り禁止だが、毎日建物保存のため係の方が戸の開閉を行っている。
茅葺と瓦葺を融合させ、母屋と庇を錣葺(しころぶき)としている。
詩仙の間を抜けて庭に出ると「カーン、カーン」と乾いた音が響く。
鹿追、鹿威しと言われるが、今もゆっくりと働いている。
鯉の隠れ家と鳥除けの糸。
どこにでも見られるような落ち着きのある庭。
正式には詩仙堂ではなく「凹凸窠(おうとつか)」と称し、意味は「でこぼこの土地に建てた住居」である。
サツキの時期を過ぎたが、アジサイが彩を添える。
こちらは低山でよく見かける「ほたるぶくろ」か?
屋根を傷めないため細心の注意を払っている。
これは間違いなく雨樋であろう。
徳川家康の元を離れ、安芸浅野家に仕え、茶を楽しんだ閑人は二人、「上田宗箇流の武家茶」を興した上田宗箇と「煎茶を楽しんだ」石川丈三である。
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