古市・百舌鳥古墳群は巨大な前方後円墳が、これでもかとばかりに存在を誇示していますが、同じ景色の繰り返しに少々出会いの感動が薄れた感があります。
ここで古市を少し離れて、南朝方の天皇陵を訪ねることにしました。
近鉄電車に揺られること20分、河内長野駅へやってきました。
此処は15年ほど前に、百名城探訪で楠木正成の居城である「千早城」へやってきて以来です。
近鉄河内長野駅前には、後村上天皇陵観心寺の石塔が建っていますが、バス停の行先に観心寺の文字は見当たりません。
駅前のお店で観心寺行のバス乗り場を訪ねるも、2軒のお店とも首を横に振るばかり。
そうこうする内に入ってきたバスの経由先に、大きな観心寺の文字を見つけました。
一安心! 勇躍乗り込みます。
途中新興の住宅団地を経由しながら、約25分ほどで観心寺前に到着です。
駐車場にある観心寺の案内板に、後村上天皇陵の表示を確認しました。
看板の右上に小さくです。
歓心寺山門前には南朝の後醍醐天皇即位に貢献のある、楠木正成の馬上像がありました。
皇居前広場にも同じような像がありましたよね。
観心寺境内の石段を息を弾ませながら登ると、この案内板を見つけました。
お寺のお参りは後回しにして、後村上天皇陵へ何故か急ぎます。
境内の奥まった場所に、後村上天皇陵への階段を見つけました。
鬱蒼とした森へ向かうかのような階段道です。
春訪ねた吉野如意輪寺内にある、後醍醐天皇陵と同じ雰囲気でした。
南朝方(大覚寺統)の天皇陵は何故か、結界で仕切られているような感じがして仕方ありません。
同じく南朝方の、第98代長慶天皇・第99代後亀山天皇陵はどんな雰囲気か、今度訪ねるのが楽しみになりました。
薄暗い参道は蛇行しながらさらに奥へと続きます。
やっと管理事務所らしき建物が見えてきました。
目の前の階段を昇れば御陵でしょう。ヤレヤレ!
第97代(南朝2代)後亀山天皇陵です。
波乱の生涯を過ごした後醍醐天皇の第8子である後村上天皇、この地で安穏に過ごしたわけではなく、常に京都奪還の戦いを北朝方と交えていました。
明治天皇(明治政府)によって、南朝が正統とされたことによって、第97代天皇とされました。
火葬された後この地に埋葬されたとされており、墓の形は円丘とされていますが、人の手が加わった形跡はなく、自然な山の一画の感じです。
強大な権力者によって営々と築かれた前方後円墳と異なり、自然の懐に抱かれたように存在するこの種のお墓は、何故だか心が温まるような気がします。
第97代後村上天皇の御陵印です。