みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

「ある(Being)」仏教

2015-09-03 08:16:34 | 仏教
武田定光(真宗大谷派因速寺住職 1954~)という人が、8/22付に続いて8/29付の東京新聞にコラムを書いていて、心引かれる内容だった。どうでもいいことかも知れないが、同じ浄土真宗の教団でも本願寺派(西本願寺)より大谷派(東本願寺)の人の言葉の方が生き生きと輝いていることが多い・・



旧仏教は、未来に目的を設定しているので、<いま>を手段化させ、これから修行をして悟りを開こうと考えた。親鸞はそういう呑気な<いま>を生きていなかった。明日、死なないとは誰が保証できるのか。だから、与えられた<いま>以外に救いはないと考えたのである。

<ある(Being)>は自分を超えて成り立たせている、いのちの全背景である。これから、これからと考える<いま>ではなく、すでにわが思いを超えて与えられた<いま>である。「ある」仏教は決して静的で固定的なものではない。ダイナミックな動きを展開する。その動きとは無限の懺悔運動である。

<いま>を手段化させまい、と心に言い聞かせたら、まず「人」への態度が変わることに気付いた。いつもの私は「人」を手段として、あわよくば自分の人生に役立てようと謀っている。「自然」への態度も同様。だから「ある」を主体として「いま」を生きるならば、必然的に懺悔の道が開かれる。田辺元の「懺悔道としての哲学」を想起する。

親鸞は徹底して「驕慢」と闘った。そして最後にはこういった。「是非知らず邪正も分かぬこの身なり、小慈小悲もなけれども、名利に人師を好むなり」(正像末和讃)と。このように親鸞を懺悔させたはたらきは何か。それこそが「ある」という存在の厳粛性である。「する」という関心で動いている自分を、その都度、徹底的に懺悔させずにはおかない無限の運動が「ある」仏教である。

本当は、「ある」が主体であり、自分という「思い」は客体である。



一二三之式

2015-09-01 23:37:50 | 茶道
久しぶりに国道6号線経由で、愛車を1時間余り駆って茶道の稽古へ行きました。9月になりましたので着物は単衣、帯はやや薄手の名古屋帯にしました。着物も帯も草履も、近所の方から譲って頂いたものです。普段はシミだらけの素顔をさらしている私ですが、着物のときだけは薄化粧します。化粧したり着物を着たりしているうちに、気分が茶道モードになっていきます。



お軸は 白雲自去来 、お筆は前大徳の宗興和尚です。

今日のお稽古は、一二三之式を2順と花月之式でした。一二三之式を稽古するのは、私は初めて。亭主の点前に対して連客が採点をする、というストーリーになっていて、様々な花月の中でも特に変わった印象を受けました。とても小さな木箱の中に採点用の小さな札が12枚入っていて、その札の取り扱いが意外に難しく、苦笑・失笑・微笑し合いながらの稽古となりました。難しく、かつ楽しい、という点では、他の花月と同じですね。