引越しの変遷。

2020-05-20 21:26:26 | Weblog

ほとんど、どーでもいいような話なんだけど、

生涯で何度も何度も引越し・・・・したなあ、俺。

って思ってさ。

 

新宿の、あの戸山ハイツはかなり古びたとはいえ、いまだ健在なのだ。

(何年か前に、某バンドのツアーの合間に、一人で訪れたから知っている。)

引越しなどせずに、一家であのまま、あそこに住み続けていたら・・・・・・・

僕は、そして、僕の家族は

どうなっていただろう?

と時々、考えてしまう。

 

それはさておき

 

引っ越した先の福山市の家は超ボロかったし、トイレは非・水洗(くみとり)で怖かったし隙間風吹きまくりだったが、

少しは庭などもあって、あの家はとても好きだった。

 

でも中学卒業後、そこから単身で、奈良の学校の寮に入る。荷物などは、ほぼ、なかった。

家から持って行ったのはラジカセと、ギターと、本数冊と、服をちょっとと、布団一式・・・くらいだった。

父親の運転する乗用車で引越しした気がする。何て簡単な引越しだ。

 

高校を出て、大阪の専門学校の寮に入った。

ここは天神橋筋6丁目の近くで、都会で猥雑でエネルギッシュで、もう何だか、すごいところだった。

僕が住んでたとき丁度、阪神が優勝したりした。もう、エライ騒ぎだった。

この寮から50CCのスクーターで西梅田の学校まで通ったりしたのだ。

まだ原付ならヘルメットなしでオッケイだった。ちょっと信じられないけど。

 

その寮にうんざりして、その当時のバイト先の奈良の法隆寺にある小さなスナック(笑)の二階に引っ越した。

(このときの引越しはランブルフィッシュの、もうひとりのギタリスト、ショーちゃんが一緒にやってくれた。)

スナックの、住み込みバーテンダーになったのだ。そこで3ヶ月くらいバイトしながら学校行って、

ワンルームマンション借りるための頭金を貯めた。

 

そして次の春、お金がたまったので、めでたく大阪市東住吉区北田辺のワンルームマンションを借りた。

昼間でもまったく日のあたらない部屋だったけど、最高に気分が良かった。電話すらなかったけど。

 

あそこで何年くらい暮らしたんだろう?5年位か?

 

隣の空き部屋に 若い、精神の壊れかけたヤンキーが入居してきて、大人数で毎晩シンナーパーティーをするようになったので、

その部屋からは逃げ出した。隣の部屋なのに、こっちの部屋までシンナー臭がするのだ。

冗談じゃないよな。

 

そして「避難」みたいに、南森町のビル街の中にある友達のワンルームマンションに半年くらい居候したあと

(そういえば、この頃がランブルフィッシュの最盛期だった)、

 

中央区、玉造のワンルームマンションを借りた。

(あとで気付いたのだがここは、あの中島らもの仕事場のマンションのすぐ近くだったはずだ。)

もう暗い部屋は嫌だったので、5階の、部屋の二面が大きな窓になっている温室のような部屋を借りた。

しかし日当たりが良すぎてクーラーは全然効かないし、数年後にはすべてのポスターが日焼けして色褪せてしまった。

ここでの暮らしは楽しかったが、

その頃の僕は馬鹿なことに、車庫を借りずにクルマ(軽自動車)を保有していたので・・・・・・

その関係でいろいろと困ったことが多発した。しまいには90日免停になった。

「バイク大事故」も、この頃のことだ。

でもそこで、5年くらい暮らしたのかな。

 

そしてそのあと「ばるぼら」を結成することになり、

メンバー皆で近くに住もう、ということになり、長居へ引っ越した。

古い、2DKのマンション。

ここの暮らしも、楽しかったことしか覚えていない。偶然、家から歩いて3分ほどのところに、

オルタナ・フォーク・シンガーソングライターの正垣祐樹が一人暮らししていたから、

しょうちゅう行っては、二人で飲んだのも懐かしい。

 

そこでまた6年くらい住んで・・・・・西暦2000年くらいになって、「ばるぼら」が停止してしまったので、

 

天王寺近くの、美章園に引越しした。ここは天王寺まで歩けるくらいの距離で、とても便利だった。

マンションはJRの美章園駅まで歩いて3分くらいで、めちゃ便利だったし、

街自体も、好きだった。都会のすぐ近くなのに昔ながらの情緒を残した、美章園。

住みやすかった。ここも長く住んだ。7年くらいかな。

 

でもここに住んでた最後の年(2007年・・・か。)に、佐治朝吉が、闘病の末、他界した。

 

僕が、大阪に住んでる「意味」というものが突然、消失してしまった気がしたのだ、その時。

 

大体が・・・・・思い返せば高校三年の終わりごろ、佐治が僕に尋ねてきた。

「卒業したらどうすんねん?」と。

僕は迷わず言った、「東京へ行く」と。

佐治は即座にそれを却下した。「あかん」と。

「オマエはなぁ、俺らと一緒に大阪でバンドすんねん。だから大阪へ行こうぜ」と。

僕は・・・・・・・・・・・・・・・・・・多少悩まないでもなかったが、結局は、進路を変えた。

そんな風に言われて、ちょっと感動したのだ。

 

そしてそれは・・・・大阪で一緒にバンドやる、という「希望」は、現実になった。

 

目がくらむほど楽しかった。そういう日々が本当にあったことを感謝したい。

 

そして2007年、「大阪に住む意味」を喪失した僕は、

他にもいろいろ要素はあるのだが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

京都に住むことにした。

 

 

そして現在に至る。

 

 

京都に移り住んでから、もう13年近くになる。

 

 

住んでから少しずつ発見したのだが・・・・・・・・京都って、東京に似ているのだ。

 

いや本当に。

 

 

だから僕は結局は自分が初めに求めていた環境を、

 

 

手に入れたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

どーでもいいような話に、付き合ってくれてありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
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