現実と夢(P.K.ディック「死の迷路」について)。

2020-05-12 20:31:28 | Weblog

体調が悪かったので、否応なくステイホームしていた週末だった。

本を、また、たらふく読んだのだが、

やはりディックが凄かった。

フィリップ・K・ディックである。

今回、1970年に出版された長編

「死の迷路」(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の次に出版された小説である)を読み直したのだが、

あまりにも久しぶりだったので内容を完全に忘れていた(読んだのは15年振り、くらいだと思う)。

おかげで、ものすごい衝撃を受けた。

ネタばらしになってしまうが、まあいいだろう。

今後、この、ディックの「死の迷路」を読もう、と思ってる人はこれ以下を、読まないように。

 

「死の迷路」は、壮大な、言ってみれば「夢オチ」の小説だった。

ものすごい悪夢みたいな話が延々と続いて、

最後の方で、それは夢だったことが明かされるのだ。

夢、と言っても単純ではなくて、「脳重合」という装置を使って、宇宙船の乗組員たちが、

多人数で同時に、あらかじめセットしておいた創作された非・現実の世界で様々なことを体験する。

「夢」というか、ヴァーチャル世界というか。

本人達は、見ている間、それが「夢」とは気付かない。その夢が現実そのものである。

 

これって、ディックのほかの小説でも出てきた仕掛けだ。

「パーキーパットの日々」では、新種のドラッグの共同幻想として出てきたし、

映画化もされた「トータルリコール」でもこんな装置が話のメインになっていたはず。

 

ディックの小説に繰り返し出てくるテーマは

「現実とは何か?」

「この現実は本物なのか?」

「夢と現実はどう違うのか?」

というようなもので、

これは誰にしたところで、他人事ではない。

 

この「死の迷路」では、お約束というか、「救いのない夢世界」から目覚めて彼らが直面するのは

「更に救いようのない、追い詰められた現実」なのだ。

 

それにしても、彼ら(これは群像劇なのだ)が、夢から醒めた場面は衝撃的だった。

読んでいて え?え?・・夢だったの????ってマジで思った。

 

そして最後に、夢世界の中だけの登場人物であったはずの「実在する神」が、

まるで夢から抜け出してきたように現れて、主人公の一人に

「死の祝福」みたいなものをもたらす。

 

そして最後の最後に、「脳重合」装置を再セットして、違う夢世界に出掛けたはずの主人公達は、

前回と同じ、救いようのない世界の、救いようのないストーリーをまた初めから繰りかえし始める。

つまり、彼らはもう、「何処にも行けない」のだ。

 

だから、単純な「夢オチ」の小説では全然ないのだが、もう何だか・・・・・

悪夢だった。

これ以上魅力的な悪夢はない、というような種類の悪夢。

 

 

 

 

 

 

そんなものを読んだおかげで読後、僕自身が、冗談抜きで、とても奇妙な悪夢を見た。

 

知らないバスルームの空中で僕が、身動きできないまま回転している・・・それだけの夢。

 

身体は金縛りになったみたいに動かないまま、バスルームの低空を無重力状態みたいに

延々と廻り続ける。

30分くらい続いたと思う。

こんな奇妙な夢は生まれて初めて見た。

廻り続けるだけで何も起こらないのだが・・・・・・・・妙につらいのだ。

 

最後は渾身の力をこめて金縛り状態を解いた。

 

そしたら夢が醒めた。

 

 

フィリップ・K・ディック、恐るべし。

 

 

 

 

 

 

 

写真は、我が花壇の、ひまわり。

 

日に日に、成長中。

 

 

コメント
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