まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第40番「雲龍院」~西国四十九薬師めぐり・19(皇室とも縁ある御寺にて)

2020年06月10日 | 西国四十九薬師

さてこれから雲龍院に向かうが、その前に本寺にあたる泉涌寺に向かう。真言宗泉涌寺派の総本山にして、江戸時代の歴代の天皇の陵墓を有する皇室の菩提寺でもあるところなので、素通りというわけにもいかない。

山門をくぐり、まずは左手にある楊貴妃観音堂に向かう。世界三大美人の一人(今、こういう言い方をしたらその筋からクレームがつくのだろうな)とされる楊貴妃をモデルとしたという観音像で、中国の南宋時代にもたらされたものとされるが、もう一つ「ひげを生やした観音像」という言われ方もする。端正な顔立ちにひげというのが対照的というので紹介されることが多いが、貼り紙では「口のまわりに見えるのはひげでなく、慈悲を説く観音の口の動きを表している」とある。

隣接して資料室があり、鎌倉時代に伽藍を造営し、泉涌寺を現在の形に復興した月輪大師俊芿(しゅんじょう)の肖像画や、鎌倉時代以降の皇室の系図と連動した泉涌寺の歴史について触れられている。今の感覚だと皇室というのは神道とのつながりが強いように思われるが、明治以前は神仏習合の世の中だったし、天皇が後に出家して法皇を名乗ったり、皇室から寺の住持が出るくらい(門跡寺院)だから、歴代天皇の葬儀を一貫して執り行ったのもうなずける。現に、明治天皇の父である孝明天皇の葬儀も泉涌寺で行われ、御陵も境内にある。

正面にあるのは本堂である仏殿。南宋の禅宗様で、徳川4代将軍家綱の援助により再建された。天井に雲龍の絵が掛けられ、正面には釈迦如来(過去)、阿弥陀如来(現在)、弥勒如来(未来)の三体が祀られている。ここで手を合わせる。

仏殿の背後にあるのは舎利殿だが、扉が閉められており、外には10数足の靴が置かれている。中からは講話なのか法話なのか話し声が聞こえ、笑い声も起きている。昔の建物だから風通しはいいのだろうが、密になっていやしないか他人ごとながら心配してしまう。

歴代天皇の位牌を祀る霊明殿を外から見た後、特別公開の御座所に入る。かつての御所の建物を移築したもので、廊下伝いに女官の間や勅使の間、皇族の間など、さまざまな種類の襖絵が並ぶ部屋を見る。

そして奥の庭園に出るのだが、そこにあるのは玉座の間。天皇・皇后が寺に来られた時に休息所として使う部屋である。撮影禁止のため画像はないが、現在の上皇・上皇后さまが来られた時の写真もあるし、直近では2019年(令和元年)11月、天皇陛下が即位の報告で奈良・京都を訪ねた時に泉涌寺のこの玉座で休憩している。この時は橿原の神武天皇陵、桃山の明治天皇陵、そしてこの孝明天皇陵と、要は先祖代々のお墓参りである。泉涌寺も現在は寺としては独立した存在で、特に戦後は別に宮内庁から費用をいただいているわけではないが、やはり歴史的に特別な存在であることがうかがえる。昭和の時に「御寺泉涌寺を護る会」というのが発足して、かつては三笠宮殿下、そして現在は秋篠宮さまを名誉総裁として活動している。皇室の内廷費からもいくらか援助が出ているそうだ。

さて、泉涌寺の境内の脇道から雲龍殿に向かう。境内としてはつながっているが拝観料はそれぞれ申し受けるというところだ。少し坂を上ると山門があるが、門の石段の外から足場が組まれている。2018年9月の台風21号の被害で一時拝観を休止していたそうだから、その修復工事が今も行われているのだろうか。

拝観休止といえば、緊急事態宣言の発令を受けて、雲龍院は4月17日から休止となり、再開したのは5月26日からのことである。本坊というか、屋敷の玄関のようなところに出て、ここで拝観料を納める。西国薬師のバインダー式の朱印も先に申し出ておけば帰りに受け取ることができるというのでお願いする。中には数組の拝観客がいる。

パンフレットとともに、「雲龍院の『へぇ~』ポイント」というチラシも一緒に渡される。拝観順路が書かれ、その部屋の「へぇ~」ポイントが豆知識のように紹介されている。その思惑通り、この後建物を回るたびに「へぇ~」とうなずくことになる。

まずは蓮華の間。この部屋は撮影不可かと思い画像はないのだが(実際は撮影してもよかったようだ)、障子に4つの窓が取られている。「色紙の窓」という。部屋のあるポイントに座布団が敷かれており、そこに座って障子越しに窓の外を見ると、庭の椿、灯籠、楓、松が額縁に収まった四季の色紙のように見えるという。これはよく考えたものだ。

続いては庭園に面した大輪の間。椅子があり、「瞑想石」というのが二つ置かれている。ここで阿字観を行うとある。椅子に腰掛け、石をそれぞれ足の土踏まずに当てる。そして庭園のほうを見ながら、ゆっくりと息を吐くように「阿」の音を口にする。そして意識を足元の石に集中させ、ゆっくりと息を吸う。真言密教の瞑想法の一つで、心を磨き高めることができるという。今なら健康法、ダイエットとして取り入れられているロングプレスのほうがイメージしやすいかな。私もちょっとやってみるが、ちょっとやったくらいで効果がある・・・というものではない。またこの部屋には、大石内蔵助が山科に隠遁していた時に書いたとされる「龍淵」の額が保存されている。「龍淵に潜む」という古来中国の言葉があり、秋分の頃を表す季語の一つだというが、かつては雲龍院に池があったそうで、その池を龍のすみかになぞらえたのだという。

そして霊明殿に向かう。雲龍院は南北朝時代、北朝の後光厳天皇の勅願で開かれ、歴代の北朝方の天皇の帰依を受けて発展した。現在もその位牌を残している。また庭に菊の紋が描かれ、その真ん中に灯籠がある。これは徳川慶喜が奉納したものという。

本堂にあたる龍華殿に出る。本尊の薬師如来はこちらに安置されており、他に誰もいないのをいいことに近くに寄ってお勤めとする。

一度玄関の前を戻り、台所に向かう。ここの厨子に祀られているのが「走り大黒天」。大黒天は確か米俵の上に乗っているのが一般的のように思うが、ここでは大きな袋をかつぎ、わらじ履きで、何か叫ぶかのような表情で駆け出している姿を描いている。一刻も早く人々に福を授けようという思いで駆け出そうというのだが、にこやかなイメージの「大黒さん」というよりは憤怒の表情である。台所に祀られているのも何か意味があるのだろうか。

再び客殿に戻り、一番奥の間にある「悟りの窓」を見る。円形に切られた格子の向こうの景色を見る。これも額縁に入れられた絵画のようだが、自然の風景である。ちょうどその格子を正面に見る位置に座布団が置かれているが、うーん、これが「悟りの窓です」と言われても、一介の凡人に理解できるものではない。窓に映る自然を自分の心がどう捉えるかという意味なのかな。

寺としては泉涌寺の別院ということもあって真言宗なのだが、館の造りには、これは泉涌寺の仏殿もそうだが禅の心があふれているように感じる。また、「色紙の窓」や「悟りの窓」を見るベストの位置だけに座布団が置かれているのを見ると、あまり団体で賑やかにおしかけるよりは、一人静かに楽しむのが合うようなスポットであるように思う。他に訪ねていた人も静かに参詣、鑑賞していた。

さて、これで西国四十九薬師めぐりの次のサイコロとする。「悟りの窓」の手前の小部屋に座卓があり休憩できるので、ここで庭を眺めながらの場所決めである。

1.池田(久安寺)

2.高野山(龍泉院、高室院)

3.安土(桑實寺)

4.伏見(法界寺、醍醐寺)

5.三田(花山院)

6.河南町(弘川寺)

高野山という遠方や、初めての安土・桑實寺(もしここが出れば、西国第32番の観音正寺とセットになる)という出目もある。その中で出たのは「6」の弘川寺、南河内の近場である。

雲龍院を後にして、東福寺の駅に戻る。行きは京阪で来たが、帰りはJR奈良線に乗ることにする。それも京都に出るのではなく、逆に奈良方面に下る。やって来たのはかつての国鉄型の205系。関西ではかつて東海道本線、山陽本線で走っていたが、後に阪和線、そして現在は奈良線とまだまだ現役である。こちらも混雑することなく、宇治、城陽といったところを経由して奈良に至る。
 
これからも適切な予防措置、人との距離を持っての動きということになるだろう。それはいいのだが最後に一言。
 
この状況において、仏教は何をしたのか? 札所・霊場は世の中の不安を和らげるのに何か手を差し伸べたのか? 何か共感できることをしたか? 自粛自粛自粛自粛、納経所閉めます、そもそも寺の門を閉めます、寺に来ないでください、仏を拝まないでください、四国に来ないでください、弘法大師が来るなと言ってます、徳島ナンバー以外のクルマには容赦なく制裁を加えます、行政もそれを認めるどころか率先してやってます(まあ、弘法大師も自分に逆らう者に対しては容赦しない輩だったし)、岡山に来たことを後悔させます(このところヤクザの抗争も活発化しているし、県知事は「カモンベイベー」とか浮かれているだけで)、人々の救い?知ったことか、僧侶の健康、もとい金儲けが第一じゃ・・・。
 
・・・こっちも言いたいことはたくさんあるわ。
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